第8話
俺がスーツの内ポケットから愛用のボールペンを引き抜いたのを見て、黒いジャケットの男たちは嘲笑を漏らした。
「あぁ? なんだそのペンは。遺書でも書くつもりか?」
先頭に立つ男が、鼻で笑いながら顎をしゃくる。
その合図とともに、男たちの背後に広がる路地裏の影が、不自然に蠢き始めた。アスファルトに落ちた濃い闇がドロドロと盛り上がり、実体を持った形へと変わっていく。
現れたのは、体長三メートルを超える巨大な四つん這いの獣だった。漆黒の体毛に覆われ、赤い双眸が飢えを宿してギラギラと輝いている。吐き出す息は周囲の空気を凍らせるほど冷たく、ただの野良モンスターではないことが一目でわかった。
上位モンスター。おそらく、悪徳ギルドの連中が使役しているのだろう。
「赤城の兄貴からの命令だ。ガキは生け捕り、親父は殺せ」
男の冷酷な声が路地裏に響く。
俺は愛海を背中に庇ったまま、静かに息を吐き出した。
(思えば、俺たちの平穏だった日常は、あの日から大きく狂い始めてしまった)
事の発端は、愛海が覚醒者として目覚めたことだった。
俺の最優先事項は、いつだって娘の安全と平穏な日常だ。だからこそ、面倒な手続きを済ませるためにダンジョン庁での測定に付き添った。しかし、愛海はそこで前代未聞の数値を叩き出し、頑丈なはずの測定器を粉々に破壊してしまったのだ。
それだけならまだしも、事態はさらに悪化した。
遺伝の可能性を指摘された俺が、係員に勧められるまま「ついで」に測定を受けた結果、予備の測定器まで完全に沈黙させてしまったのだ。親子揃って規格外であることが発覚し、ダンジョン業界全体を騒然とさせる事態を招いてしまった。
その異常な才能を放っておくはずもなく、愛海はトップギルドからスカウトを受けることになった。俺は未成年の規定を盾に取り、山田課長に頭を下げて有給休暇をもぎ取り、彼女のダンジョン探索に同行する道を選んだ。
娘の才能を狙う脅威や、ダンジョン内に潜む危険から愛海を守り抜く。それが、俺に課せられた新たな日常の幕開けだった。
そして今、その「脅威」が具体的に牙を剥いてきたというわけだ。
「やれ!」
男の号令とともに、巨大な獣がアスファルトを蹴り砕いて跳躍した。
鋭い爪が空気を引き裂き、俺の首筋へと迫る。
だが、俺の目に映るその動きは、ひどく緩慢だった。
(ただの事務作業だ。溜まった未決書類を、シュレッダーにかけるのと同じこと)
俺は逆手に持ったボールペンを、空間に線を引くように軽く振るった。
カチリ、と。
ペンのノックボタンを押す音が、路地裏に小さく響く。
直後、空間そのものに黒い断裂が走った。
「ギ、ギャァァァッ!?」
空中で振り下ろされようとしていた獣の巨体が、見えない刃に切り刻まれたかのように、寸分違わぬ均等なサイズの肉片へと細断された。
血の一滴すら流れる暇もなく、サイコロ状になった残骸がパラパラと地面に降り注ぐ。
「……は?」
先頭の男が、間の抜けた声を漏らした。
無理もない。彼らにとっては、俺がボールペンを振った瞬間に、上位モンスターが自ら細切れになって崩れ落ちたようにしか見えなかったはずだ。
俺はゆっくりと歩み寄り、呆然と立ち尽くす男たちの手元に視線を落とした。
彼らが握りしめているスタンガンや特殊警棒。
「危険物の持ち込みは、許可されていませんよ」
俺がボールペンの先でその武器を軽く叩いた瞬間。
パキン、という乾いた音とともに、金属製の武器がまるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
「ヒッ……!?」
男たちが悲鳴を上げ、腰を抜かして後ずさる。
「あなたたちは、俺の有給をなんだと思っているんですか」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、事務的だった。
「週末には、家族旅行が控えているんです。これ以上の予定変更は、一切受け付けられません」
「ば、化け物……! 逃げろ!」
男たちが踵を返し、路地裏の出口へと走り出す。
だが、その退路を塞ぐように、建物の屋上から巨大な影が降ってきた。
ドスゥン! という重い着地音とともに、アスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れる。
「そこまでだ、三下ども」
派手な金髪と筋骨隆々の肉体。トップギルドの若きエース、獅子王凱だった。
彼は逃げようとした男たちの襟首を両手で掴み、軽々と地面に叩きつけた。男たちは白目を剥いて気絶する。
◆ーーーー◆
「獅子王さん。どうしてここに?」
俺がボールペンのペン先をしまいながら尋ねると、獅子王は気まずそうに頭を掻いた。
「いや、護衛としてこっそり後をつけてたんだ。最近、きな臭い連中がうろついてるって噂があったからな。……だけど、そんなことより」
獅子王の視線が、地面に散らばる均等な肉片と、粉々になった武器の残骸に釘付けになっていた。
彼の顔から、いつもの自信に満ちた表情が完全に抜け落ちている。
「あんた、今、何をした……? こいつ、Aランク相当のバケモンだぞ。それを、ただのボールペン一本で……」
「ただの事務処理ですよ。不要な障害物を排除しただけです」
俺が淡々と答えると、獅子王はゴクリと喉を鳴らした。
「魔力の波動すら感じなかった。ただ物理的に空間を切り裂いたってのか……? プロの探索者でも、こんな芸当できる奴はいねぇぞ」
「買い被りすぎです。長年の会社員生活で培った、書類整理の延長に過ぎません」
「どんな会社員だ!」
獅子王はツッコミを入れた後、おもむろにその場に片膝をつき、深く頭を下げた。
「……俺の負けだ。いや、最初から勝負にすらなってなかった。あんたは次元が違う」
「やめてください。こんな路地裏でそんな姿勢をとられたら、変な誤解を受けます」
「師匠と呼ばせてくれ! いや、呼ばせていただきます!」
「人の話を聞いてください」
熱血漢の彼らしい極端な反応に、俺は小さくため息をついた。
「パパ、もういいの?」
背後から、愛海の声が聞こえた。
「ああ、終わったよ。獅子王さんが助けてくれたんだ」
俺は獅子王に目配せをした。獅子王は一瞬きょとんとした後、慌てて立ち上がり、「お、おう! 俺が全部やっつけたぜ!」と不自然に胸を張った。
「わぁ、獅子王さんすごい! ありがとう!」
愛海が無邪気な笑顔を向ける。
「へへっ、どうってことねぇよ。お前ら親子の護衛は、この俺に任せとけ!」
獅子王が照れ隠しのように鼻の下を擦る。
そのやり取りを見守りながら、俺の胸の奥には、静かな怒りが燻り始めていた。
赤城の兄貴、と男たちは言っていた。
娘の平穏を脅かす裏社会の連中。彼らをこのまま放置すれば、いずれまた愛海に危険が及ぶだろう。
そして何より、俺の貴重な有給がこれ以上削られることになりかねない。
(根本的な原因を取り除かなければ、週末の旅行にも支障が出るな)
俺は、気絶した男たちの懐から転がり落ちた通信端末を、冷たい目で見下ろした。
有給の残日数を頭の中で計算しながら、俺は静かに決意する。
愛海の笑顔と平穏な日常を守るためなら、深夜の「残業」も辞さない、と。




