第7話
悪意の歯車が、ついに直接的な暴力となって回り始めようとしていた。
だが彼らはまだ知らない。その先に待つのが、有給休暇を邪魔された会社員の理不尽な怒りであることを。
◆ーーーー◆
「えいっ!」
薄暗いダンジョンの下層に、愛海の元気な声が響き渡った。
彼女が小さな杖を振り下ろすと、まばゆい光の奔流が一直線に放たれる。迫り来る巨大なオークの群れが、悲鳴を上げる間もなく光に飲み込まれ、チリとなって消滅した。
「おお……! なんという威力だ!」
トップギルドの探索者である獅子王凱が、感嘆の声を上げて拍手をする。
俺、結城誠は、少し離れた安全圏からその光景を見守っていた。
「愛海殿、素晴らしい魔法の冴えです。今後の育成方針のためにも、今の出力をこの最新型携帯測定器で測らせていただきたい!」
獅子王が、タブレット型の機器を愛海に向ける。
「うん、わかった!」
愛海が再び杖に魔力を込め、測定器のセンサーに光を当てた。
ピピピッ、と電子音が鳴った直後。
バチィッ!
けたたましい破裂音と共に、測定器の画面が真っ暗になり、焦げ臭い煙が立ち上った。
「……また壊したか」
俺は思わず頭を抱えた。前代未聞の数値を叩き出してダンジョン庁の測定器を破壊した日の記憶が蘇る。
「パパ、ごめんなさい……わたし、また力加減間違えちゃったかも」
愛海がシュンとしてうつむく。
「気にするな。愛海に怪我がなくてよかったよ」
俺は娘の頭を優しく撫でた。弁償しろと言われたら、ボーナスを切り崩すしかない。
俺はため息をつきながら、手元のスマートフォンに目を落とした。
画面に表示されているのは、旅行ガイドブックで見つけた「最近湧き出たばかりの秘湯」の宿泊予約ページだ。
妻を亡くして以来、男手一つで愛海を育ててきた。仕事と育児の両立に追われる日々の中で、週末の家族旅行は絶対に死守すべき一大イベントである。
「結城殿、お気になさらず。これはギルドの経費で処理します」
獅子王が焦った様子で、鞄から別の機器を取り出した。
「それよりも、遺伝の可能性もあります。結城殿、念のためあなたもこの予備機で測定を……」
「いや、俺はただの会社員ですから」
そう言いながら、俺は差し出された予備の測定器を受け取った。
その瞬間、左腕にはめた妻の形見である少し狂う安物の腕時計が、微かに熱を持った気がした。
プツン。
俺の指先が触れただけで、予備機の電源ランプが消灯し、完全に沈黙した。
「あれ? これ、最初から壊れてませんか?」
「ば、馬鹿な……予備機まで完全に沈黙するとは……!」
獅子王が目を見開き、わななきながら後ずさる。
俺は首を傾げながら、動かなくなった機械を返却した。ただの静電気だろう。
「……やはり、愛海殿は我がギルドの至宝です」
獅子王は気を取り直したように咳払いをした。
「彼女の規格外の力、他ギルドも黙ってはいないでしょう。すでにいくつか強引なスカウトの動きがあると聞いています」
「それは、困りますね」
俺は眉をひそめた。
「ご安心を。未成年の規定により、保護者である結城殿が同伴されている限り、我々が全力で防波堤となります」
獅子王の言葉に、俺は静かに頷いた。
愛海がトップギルドからスカウトされ、俺も有給を使って同行することになった。娘の才能を狙う脅威やダンジョンの危険から娘を守る。それが、俺の新たな日常だ。
どんな手を使ってでも、この子の平穏な日常と、週末の旅行の予定は守り抜く。
◆ーーーー◆
同じ頃、街の裏側に位置する薄暗いアジトの別室。
黒崎の右腕である氷川透は、銀縁眼鏡を中指で押し上げながら、部下からの報告書に目を通していた。
「ターゲットの娘、またしてもダンジョン内で測定器を破壊したとのこと。トップギルドが護衛につき、常に父親が同伴しています」
「ご苦労」
氷川は冷たい声で応じ、報告書をデスクに放り投げた。
隣の部屋からは、黒崎が強硬手段に出ると息巻く怒声が漏れ聞こえてくる。
氷川は内心で冷笑した。
力押しなど愚の骨頂。相手は所詮、子供とただの会社員だというのに。
黒崎の強引なやり方には、以前から不満があった。この簡単な仕事を鮮やかに片付ければ、組織内での自分の発言力はさらに強まる。
「ダンジョンからの帰還時、気が緩んだ瞬間を狙います」
氷川は、整列して待機する部下たちに視線を向けた。
「父親を無力化し、子供だけを迅速に回収する。簡単な仕事です。手荒な真似は極力避けるように。商品に傷がつけば、黒崎さんがうるさいですからね」
「はっ!」
部下たちが一斉に頭を下げる。
氷川は自身の細身のスーツの埃を払い、冷徹な笑みを浮かべた。
「さあ、お迎えに上がりましょうか」
◆ーーーー◆
「パパ、今日の夜ご飯なにー?」
ダンジョン探索を終え、夕暮れの街を歩きながら、愛海が元気いっぱいに尋ねてきた。
「ハンバーグにしようか。週末の旅行の準備もあるし、帰ったら早めにご飯を食べよう」
「やったー! わたし、お手伝いする!」
愛海が嬉しそうに俺の手を握る。その温もりが、日々の疲れを癒してくれた。
有給を使った甲斐があった。今日も無事に一日が終わろうとしている。
そう安堵した矢先だった。
帰り道、人気のない路地裏に差し掛かったところで、周囲の空気が不自然に冷たくなった。
「……ん?」
俺は足を止め、愛海を背中側へと引き寄せた。
前方の影から、揃いの黒いジャケットを着た数人の男たちが、音もなく立ち塞がる。
「結城愛海だな。少し一緒に来てもらおうか」
先頭に立つ男が、ニヤリと笑いながら手を伸ばしてきた。
不意の奇襲。
だが、俺の心は驚くほど冷静だった。
「パパ……?」
愛海が不安そうに俺のスーツの裾を掴む。
「大丈夫だ、愛海。少しだけ、目を閉じていなさい」
俺は静かに息を吐き、男たちを見据えた。
週末の予定を邪魔する者は、誰であろうと容赦はしない。
俺はスーツの内ポケットから、愛用のボールペンをゆっくりと引き抜いた。




