第5話
オフィスのデスクに、一枚の紙をそっと置いた。
「……課長、申し訳ありません。また有給休暇の申請をお願いしたいのですが」
俺が頭を下げると、正面に座る山田課長は、引き出しから胃薬の瓶を取り出しながら深々とため息をついた。
「結城。お前、今月に入ってから何度目だ? 月末の忙しい時期だぞ」
「重々承知しております。本当に心苦しいのですが、どうしても外せない用事がありまして」
「また愛海ちゃんの授業参観か?」
「ええ、まあ。少し特殊な授業参観と言いますか……」
俺は曖昧に言葉を濁した。
先日、覚醒者として目覚めた愛海の測定に付き添うため、ダンジョン庁へ足を運んだ。娘の安全と平穏な日常を守るための、ただの事務手続きのつもりだった。
しかし、愛海は前代未聞の数値を叩き出し、測定器を粉々に破壊してしまったのだ。
それだけではない。遺伝の可能性を指摘された俺が、係員に勧められるまま「ついで」に測定を受けた結果、予備の測定器まで完全に沈黙させてしまった。
親子揃って規格外の数値を叩き出したことで、現在ダンジョン業界は騒然となっているらしい。
「実は、トップギルドから愛海にスカウトが来まして。未成年の規定により、ダンジョン探索には保護者の同伴が必須なんです」
「……は? スカウト? ダンジョン探索に、お前がついて行くのか?」
山田課長が目を丸くする。
「はい。娘を危険な目に遭わせるわけにはいきませんから。有給を使って、しっかりと見守るつもりです」
「お前なぁ……」
課長は頭を抱えたが、やがて諦めたように申請書にハンコを押してくれた。
「総務部の仕事は回るんだろうな?」
「ご心配なく。今日の分の書類整理と廃棄は、すでに完璧に終わらせてあります」
俺は背後にあるシュレッダーを一瞥した。指先で紙の束を滑らせるだけで、書類は空間ごと切り裂かれたように均等なサイズで裁断されている。長年の会社員生活で培った、ただの事務処理スキルだ。
「……わかった。気をつけて行ってこい」
「ありがとうございます、課長」
俺は深く頭を下げ、足早にオフィスを後にした。
◆ーーーー◆
小学校の教室は、放課後の静寂に包まれていた。
保護者会のため、俺は愛海のクラス担任である白鳥先生と向かい合って座っていた。
「結城さん、お忙しい中ありがとうございます。愛海ちゃん、最近とても頑張っていますよ」
白鳥先生は、手元の資料を見ながら微笑んだ。
「ダンジョン探索という特殊な環境に身を置きながらも、学校の宿題は欠かさず提出していますし、お友達との関係も良好です」
「そうですか。ご迷惑をおかけしていないなら安心しました」
俺は胸を撫で下ろした。
妻を亡くして以来、男手一つで愛海を育ててきた。「母親がいないから」と後ろ指を指されないよう、父親として十分やれているだろうかという不安は常に付き纏っている。
「愛海ちゃんが普通の学校生活を送れているのは、お父様のサポートのおかげですね。本当に、感心して見守っております」
白鳥先生の言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
「いえ、俺はただ、あの子の安全と笑顔を守りたいだけですから」
「素晴らしい心がけだと思います。ダンジョン化社会になっても、子供たちの日常は私たちが守らなければなりませんからね」
真面目で教育熱心な白鳥先生は、力強く頷いた。
面談を終え、教室を出る。
左腕にはめた、妻の形見である少し狂う安物の腕時計に視線を落とした。秒針が不規則に動いているが、これが俺の異常な魔力を抑え込んでくれているらしい。
週末には、旅行ガイドブックで見つけた「新設の秘湯」へ家族旅行に行く予定だ。
その約束を守るためにも、俺は父親としての役割を完璧にこなさなければならない。
◆ーーーー◆
小学校を出て、手続きの確認のためにダンジョン庁へ向かうと、正面入り口の前に派手な金髪の男が立っていた。
トップギルドの若きエース、獅子王凱だ。
彼は俺の姿を認めるなり、弾かれたように駆け寄ってきた。
「師匠! お待ちしておりました!」
周囲の通行人が何事かと振り返る。俺は周囲の視線を避けながら、小さくため息をついた。
「……誰が師匠ですか。私はただの会社員です。それに、待ち伏せなどしなくても、スカウトの件は前向きに検討していますよ」
「いえ! 先日の緑風の洞窟での師匠の戦いぶり……あんな神速の物理切断、俺は見たことがありません! トッププロである俺のプライドは完全にへし折られました!」
獅子王は筋骨隆々の肉体を折り曲げ、深々と頭を下げた。
前回のダンジョン探索で、俺は愛海に襲いかかろうとしたゴブリンの群れを、日頃のシュレッダー作業と同じ手つきで処理しただけだ。それが彼の目にどう映ったのかは知らないが、すっかり態度を改めてしまったらしい。
「俺はただ、娘の安全を確保しただけです。それより、愛海のギルド加入にあたって、保護者同伴の条件は本当に飲んでいただけるんですね?」
「もちろんです! 師匠……いや、結城さんが同行してくださるなら、ギルドとしても百人力です。俺が全力でサポートしますから!」
熱血漢らしい真っ直ぐな瞳で、獅子王は断言した。
最初は子供がギルドに入ることに反発していた彼だが、根は素直なのだろう。愛海の才能と、俺の「事務処理スキル」を目の当たりにしてからは、驚くほど協力的になっていた。
「わかりました。獅子王さん、娘のことをよろしくお願いします」
「はい! お任せください!」
彼のような実力者が味方になってくれるなら、愛海の安全はより確固たるものになる。
少しずつだが、娘を守るための環境が整いつつある。
俺は確かな手応えを感じながら、ダンジョン庁の扉を押し開けた。
◆ーーーー◆
薄暗い地下空間に、重低音の効いた音楽が響いていた。
悪徳ギルドのアジトとして使われている廃工場の奥で、用心棒の赤城剛は、巨大な戦斧の手入れをしていた。
「……おい、警備の配置は終わったか?」
赤城が低い声で尋ねると、部下の男が慌てて頷いた。
「は、はい! アジト周辺の監視カメラも増設し、見張りの数も倍にしました。いつでも迎え撃てます」
「よし」
赤城は刃こぼれ一つない戦斧を肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべた。
マスターである黒崎からの指示は絶対だ。
ターゲットは、規格外の魔力を持つという小学生の少女、結城愛海。
彼女の力を利用して「コア」を活性化させ、この街全体を支配下に置く。それが黒崎の描く壮大な計画だった。
「あの規格外のガキ……いつ攫ってやろうか」
赤城は舌舐めずりをした。
トップギルドの小僧が護衛についているらしいが、そんなものは障害にならない。一般人の父親など、言うまでもない。
「俺の斧で、絶望を教えてやるよ」
誘拐計画の実行は、もう目前に迫っていた。
アジトの奥深くで、赤城の殺気が静かに膨れ上がっていく。
平穏な日常の裏側で、悪意の刃は確実に研ぎ澄まされていた。




