第4話
ダンジョンへと吸い込まれていく俺たち。
薄暗い洞窟の中、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
初心者向けダンジョン『緑風の洞窟』。
ここは、ダンジョン庁が管理する比較的安全なエリアだ。出現するモンスターも低ランクのものばかりで、新人覚醒者の訓練場としてよく利用されているらしい。
前を歩く獅子王は、時折こちらを振り返っては、複雑な表情を浮かべていた。
まだ俺の実力を完全に認めたわけではないだろうが、少なくとも初日のような見下した態度はなくなっている。
これで、愛海の平穏な日常を守るための第一歩は踏み出せた。
有給休暇の残日数は気になるし、山田課長の胃痛も心配だが、娘のためなら安いものだ。
「さて、ここからが本番だ」
開けた空間に出たところで、獅子王が立ち止まった。
彼は肩に担いでいた大剣を下ろし、真剣な眼差しで愛海を見下ろす。
「庁での測定器破壊は聞いてるが、実戦での『測定』をさせてもらうぜ。いくら魔力が高くても、実戦で使えなきゃ意味がないからな」
「うんっ! わたし、がんばる!」
愛海が両手を握りこぶしにして、元気よく頷く。
その天真爛漫な笑顔を見ているだけで、日頃の残業の疲れが吹き飛ぶようだ。
俺はその後ろで、ビジネスバッグから一冊の分厚い本を取り出した。
「パパ、それなに?」
「ああ、週末の家族旅行のガイドブックだよ。愛海が頑張っている間に、少し予定を立てておこうと思ってな」
「わぁ、旅行! わたし、いっぱい倒してくるね!」
愛海は目を輝かせ、ダンジョンの奥へと向き直った。
獅子王は呆れたようにため息をつき、額を押さえた。
「あんた、本当にただの過保護な親父なのか……? いや、あのプレッシャーは気のせいじゃなかったはずだ。まあいい、来るぞ」
岩陰から、緑色の肌をしたゴブリンの群れが姿を現した。
その数、ざっと二十匹。粗末な棍棒や錆びた剣を手に、下品な笑い声を上げながらこちらにじりじりと近づいてくる。
その目は、獲物をいたぶるような嗜虐的な光を帯びていた。
初心者向けとはいえ、囲まれれば厄介な数だ。
「愛海、やってみろ。危なくなったら俺が……」
獅子王が大剣を構えかけた、その時だった。
「えいっ!」
愛海が小さな手を前に突き出す。
彼女の掌に、眩い光が収束していく。
それは瞬く間に膨れ上がり、周囲の空気をビリビリと震わせた。
放たれたのは、ただの光の弾ではない。
空気を震わせ、周囲の魔力を根こそぎ巻き込みながら膨張した極太の光線が、ゴブリンの群れに向かって一直線に放たれたのだ。
轟音。
洞窟全体が激しく揺れ、鼓膜を劈くような爆音が響き渡る。
突風が吹き荒れ、俺は思わずガイドブックで顔を覆った。
土煙が晴れた後には、ゴブリンたちの姿は跡形もなく消え去っていた。
それどころか、ダンジョンの強固な岩壁には、直径十メートルほどの巨大なクレーターが穿たれ、外の光が差し込んでいる。
「パパ、見た!? わたし、ちゃんとできたよ!」
愛海が満面の笑みで振り返る。
「ああ、すごいな愛海。でも、服に埃がつくから、あんまり無茶するなよ」
俺はハンカチを取り出し、愛海の頬についた煤を丁寧に拭った。
妻を亡くして以来、この子の笑顔を守ることが俺の全てだ。
そのためなら、どんな苦労も惜しまない。
「……おいおい、マジかよ」
獅子王は、開いた口が塞がらない様子で壁のクレーターを見つめていた。
彼の手から、大剣が力なく滑り落ちる。
「庁の測定器を粉々にしたってのは、ハッタリじゃなかったのか……」
彼は引きつった笑いを浮かべ、今度は俺の方を見た。
「遺伝の可能性ってやつで、あんたも予備の測定器を沈黙させたらしいな。ついでに、あんたの実力も『測定』させてもらえないか?」
「俺はただの保護者ですよ。それに、今は週末の予定を立てるのに忙しくて」
俺は視線を落とし、旅行ガイドブックのページをめくった。
『新設の秘湯! 大自然に囲まれた源泉掛け流し』
最近湧き出たばかりの温泉らしい。写真を見る限り、設備も新しくて清潔そうだ。
日頃の残業と育児の疲れを癒やすには、ぴったりの場所だろう。
「おい、後ろ!」
獅子王の鋭い声が響いた。
背後の天井から、巨大なコウモリのモンスターが俺の頭上へと急降下してくる。
鋭い牙が、俺の首筋に迫る。
だが、俺はガイドブックから目を離さなかった。
空いた右手で、無造作に空気を払う。
会社で毎日やっている、不要な書類をシュレッダーにかける時の手つき。
指先が空気を撫でた瞬間、空間そのものが断裂した。
コウモリの巨体は、目に見えない刃の網目を通り抜けたかのように、寸分違わぬ均等なブロック状に細断される。
血の一滴すら流れることなく、モンスターは光の粒子となって消滅した。
俺にとっては、ただの事務処理の延長に過ぎない。
邪魔なゴミを片付けただけだ。
「この秘湯、日帰りでも行けそうですね。愛海、今度の週末はここに行こうか」
「わーい! 温泉、温泉!」
愛海が無邪気に飛び跳ねる。
静まり返る洞窟の中、獅子王だけが膝から崩れ落ちていた。
「……俺の、今までやってきた血のにじむような修練は、いったいなんだったんだ……」
トッププロとしての自信に満ちていた獅子王の背中が、ひどく小さく見える。
彼はうわ言のように呟きながら、しばらく地面を見つめていた。
無理もない。
自分が人生を懸けて積み上げてきたものが、ただの小学生と、くたびれた会社員によってあっさりと覆されたのだから。
圧倒的な才能と、それを凌駕する理不尽な暴力。
その両方を同時に見せつけられ、彼のプライドは完全にへし折られてしまったようだ。
「大丈夫ですか、獅子王さん。顔色が悪いですよ」
俺が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。
やがて、ふらふらと立ち上がると、獅子王は俺に向かって深く頭を下げた。
「結城さん……いや、師匠。愛海ちゃんを、うちのトップギルドに正式に迎え入れたい」
その声には、初対面の時の見下したような響きは微塵もない。
「もちろん、未成年の規定通り、あんたの保護者同伴を大前提としてだ。有給を使ってでも、ずっと同行してほしい」
「有給の残日数が許す限りは、付き添いますよ。娘の安全が第一ですから」
俺はガイドブックを鞄にしまい、愛海の手をしっかりと握った。
「パパ、これからも一緒にダンジョン行けるの?」
愛海が嬉しそうに見上げてくる。
「ああ。パパがずっと見守っているからな」
これで、愛海が安全に活躍できる環境は整った。
表向きはトップギルドの庇護のもとで経験を積ませ、裏では俺がこっそりと危険を排除する。
完璧な計画だ。
俺は安堵の息を吐き、愛海と共にダンジョンの出口へと向かって歩き出した。
◆ーーーー◆
薄暗い部屋の中、壁掛けの大型モニターが青白い光を放っていた。
映し出されているのは、ダンジョンの入り口付近で撮影された監視映像だ。
「ターゲットの確認、完了しました。結城愛海、間違いありません」
黒いコートを着た男——氷川透が、手元のタブレットを操作しながら報告する。
革張りのソファに深く腰掛けた大男、黒崎巌は、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「素晴らしい才能だ。我々の計画にうってつけだな」
悪徳ギルドのマスターである黒崎の口元が、歪な三日月型に吊り上がる。
「ええ。あの規格外の魔力があれば、例の『コア』を活性化させることも容易でしょう。そうすれば、この街全体を我々の支配下に置くことも夢ではありません」
氷川が冷たい笑みを浮かべた。
モニターの中では、愛海が父親と手を繋ぎ、無邪気な笑顔を見せている。
「隣にいるトップギルドの小僧と、ただの一般人の父親……障害にはなりません。いつでも拉致を実行できます」
「急ぐ必要はない。確実に、そして誰にも気づかれないように手に入れろ」
黒崎は葉巻の灰を落とし、モニターの中の愛海をねっとりとした視線で舐め回した。
「あの力は、我々が有効活用してやる」
愛海の才能を狙う得体の知れない悪意。
平穏な日常を脅かす影は、確実に彼女の背後へと忍び寄っていた。




