第3話
俺は左腕の安物の腕時計を、右手でそっと覆い隠した。
ただの会社員である俺が、この厄介な接触にどう対応すべきか。
答えは、すでに決まっていた。
数日後。俺は有給休暇の申請書を山田課長のデスクに叩きつけ、愛海を連れて指定された場所へと向かっていた。
都内の一等地にある高層ビル。そこは、日本トップクラスの探索者たちが所属するギルドの本部だった。
ガラス張りのエントランスを抜け、案内されたのは最上階に近い応接室だ。
ふかふかしたソファに座り、出されたオレンジジュースを美味しそうに飲む愛海を横目に、俺はテーブルの上に置かれた分厚い契約書に目を通していた。
「お待たせしました」
重厚な扉が開き、派手な金髪と筋骨隆々の肉体を持つ若者が入ってきた。いかにもな戦士の出で立ちで、歩くたびに自信に満ちたオーラを放っている。
「俺が今回の案内役を務める、獅子王凱だ。よろしくな」
獅子王はドカッと向かいのソファに腰を下ろし、値踏みするような目で俺と愛海を交互に見た。
「愛海ちゃん、だったか。測定器をぶっ壊したって噂は聞いてるぜ。うちのギルドは実力主義だ。子供だろうが、才能がある奴は大歓迎だ」
「ほんと!? わたし、がんばる!」
愛海が目を輝かせて身を乗り出す。
「ああ、期待してるぜ。……で、そっちのあんたは?」
獅子王の視線が俺に向く。その目には明らかな侮蔑の色が混じっていた。
「愛海の父親の、結城誠です。本日は娘のスカウトの件で伺いました」
「父親ねえ。まあ、未成年の契約には親の同意が必要だからな。さっさとそこにサインしてくれ。あとの育成と保護は、ギルドが責任を持って引き受ける」
獅子王はペンをテーブルに放り投げた。
「お言葉ですが、獅子王さん。私は同意書にサインするだけのために来たわけではありません」
俺はペンを拾い上げ、静かに言い放った。
「愛海がダンジョンに入る際は、私も保護者として同伴します」
応接室の空気がピタリと止まった。
獅子王は一瞬きょとんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「はっははは! あんた、本気で言ってんのか? ダンジョンは遊び場じゃねえんだぞ。モンスターがうようよしてる最前線に、ただの一般人がついてくるって?」
「未成年覚醒者のダンジョン入場には、保護者の同伴が規定で認められているはずです」
「規定の話をしてんじゃねえよ。命の話をしてんだ。あんたみたいなひ弱な会社員が来たら、足手まといになるだけだ。過保護にも程があるぜ」
獅子王の言葉に、俺の胸の奥で冷たいものが渦を巻いた。
過保護だと言われようが構わない。妻を亡くしたあの日から、俺は愛海の安全と笑顔を何よりも優先すると誓ったのだ。
「パパは足手まといなんかじゃないよ!」
愛海がオレンジジュースのグラスをドンと置き、獅子王を睨みつけた。
「わたし、パパと一緒じゃないとダンジョンなんて行かない! ギルドにも入らない!」
「おいおい、わがまま言うなよ。お前には才能があるんだ。親のすねかじってちゃ、立派な覚醒者にはなれねえぞ」
獅子王は呆れたように肩をすくめた。
「獅子王さん」
俺は鞄から、事前に用意しておいた書類の束を取り出した。ダンジョン庁の関連法規、ギルドの規約、そして未成年保護プログラムの細則。
「ダンジョン庁法第十二条第三項。未成年覚醒者の活動において、保護者が同伴を希望した場合、所属組織はこれを拒否できない。また、ギルド規約の第七章にも、保護者の視察権限が明記されています」
俺は指先で紙の端を弾き、必要なページだけを瞬時に抜き出してテーブルに並べた。空気を滑るようにして五十音順のインデックスへ吸い込まれていくファイリング技術の応用だ。
「なっ……なんだその動き……」
獅子王が目を丸くする。ただの事務処理スキルだが、覚醒者の目には何か別のものに見えたのかもしれない。
「私は有給休暇という正当な権利を行使して、娘の『授業参観』に行くだけです。あなた方の活動を邪魔するつもりはありません」
「ふざけんな! 法律がどうだろうが、現場のルールは俺たちが決めるんだよ!」
獅子王の顔つきが変わり、部屋の空気が重くなった。
トッププロの覚醒者が放つ、本気の威圧。一般人なら息をするのも苦しくなるほどのプレッシャーだ。
だが、俺にとっては、決算期の山田課長の小言の方がよっぽど胃にくる。
俺は左腕の安物の腕時計に触れながら、冷徹な視線で獅子王を見返した。
少し狂うこの時計は、俺の異常な魔力を抑え込んでくれている。だからこそ、俺はただの会社員として、この場に座っていられるのだ。
「現場のルールですか。では、そのルールに則って、私が娘を守るのに十分な『資格』があるか、試してみますか?」
俺は手元の不要な書類の束を手に取った。
指先にほんの少しだけ力を込め、紙の束を撫でる。
シュレッダーの稼働音すら置き去りにする神速の裁断。
パラパラと、寸分違わぬ均等なサイズの紙屑が、雪のようにテーブルの上へ舞い落ちた。
「…………は?」
獅子王の威圧が、霧散した。
彼はテーブルの上の紙屑と、俺の顔を交互に見比べ、額にじっとりと冷たい汗を浮かべていた。
「い、今……何をした……?」
「ただの書類整理ですよ。不要な紙を処分しただけです」
俺は紙屑を手で集め、ゴミ箱に捨てた。
獅子王は喉をゴクリと鳴らし、ソファの背もたれに深く沈み込んだ。
先ほどまでの自信に満ちた態度は消え失せ、得体の知れないものを見るような目で俺を警戒している。
空間そのものを切り裂かれたかのような、異常な現象。それを無造作にやってのけた目の前の男が、ただの過保護な親ではないと、本能で悟ったのだろう。
「……わかったよ。あんたの同伴を認める」
獅子王は絞り出すように言った。
「ただし、自分の身は自分で守れよ。俺はガキの面倒を見るだけで手一杯だからな」
「ええ、もちろん。ご心配には及びません」
俺は微笑み、同意書にサインをして獅子王に手渡した。
「週末には家族旅行の予定がありますからね。ガイドブックで見つけた新設の秘湯に行くんです。怪我をして予定をキャンセルするわけにはいきませんから」
「秘湯……? あんた、本当に何者なんだ……」
獅子王はサインされた書類を受け取りながら、疲れたようにため息をついた。
◆ーーーー◆
数日後。
俺と愛海は、獅子王の案内で初心者向けのダンジョンへと向かっていた。
「パパ、見て見て! わたしの新しい装備!」
愛海がギルドから支給された真新しい防具を見せびらかしてくる。
「よく似合ってるよ。でも、危ないと思ったらすぐにパパの後ろに隠れるんだぞ」
「うん! パパも怪我しないでね!」
俺は愛海の頭を撫で、周囲を警戒しながら歩を進めた。
前を歩く獅子王は、時折こちらを振り返っては、複雑な表情を浮かべている。
まだ俺の実力を完全に認めたわけではないだろうが、少なくとも初日のような見下した態度はなくなっていた。
これで、愛海の平穏な日常を守るための第一歩は踏み出せた。
有給休暇の残日数は気になるが、娘のためなら安いものだ。
だが、俺たちは気づいていなかった。
ダンジョンの入り口から少し離れた廃ビルの屋上。
そこから、高性能の双眼鏡で俺たちを監視する不穏な影があることに。
「ターゲットの確認が取れました。結城愛海、間違いありません」
黒いコートを着た男が、通信機に向かって低く囁く。
「隣にいるのは、トップギルドの獅子王凱。そして……もう一人は、ただの一般人のようです」
男の口元が、歪な三日月型に吊り上がった。
「ええ、計画通りに。あの規格外の才能、我々が有効活用して差し上げましょう」
通信機を切った男は、双眼鏡を下ろし、ダンジョンへと吸い込まれていく俺たちの背中をねっとりとした視線で見送った。
愛海の才能を狙う、得体の知れない悪意。
平穏な日常を脅かす影は、すでに俺たちのすぐそばまで迫っていた。




