第2話
冷たい沈黙が満ちる測定室の中央で、俺は新しく運び込まれた予備の水晶球の前に立っていた。
先ほど愛海が測定を受けたものと全く同じ、透明度の高い球体だ。台座からは太いケーブルが伸び、分厚い防弾ガラスの向こう側にある操作パネルへと繋がっている。
「それでは、結城様。そちらの水晶球に、両手を添えてください」
マイク越しに聞こえる佐藤さんの声は、まだ微かに震えていた。
無理もない。つい数分前、小学三年生の愛海が測定器の数値を振り切らせ、一台目の機械を物理的に破壊してしまったのだから。
遺伝の可能性があるからと勧められ、断りきれずにここまで来てしまったが、俺はただの会社員だ。
毎日オフィスの片隅でシュレッダーを回し、書類を五十音順にファイリングしているだけの、どこにでもいる疲れた中年男である。覚醒者特有のオーラだの魔力だの、そんなものとは無縁の生活を送ってきた。
「パパ、がんばって!」
防弾ガラスの向こうで、愛海が両手でガッツポーズを作っている。
俺は小さく頷き、水晶球に向き直った。
ただ手を触れるだけでいいらしい。さっさとエラーを出して、「やっぱりただの一般人ですね」と確認してもらえば、この気まずい空気も終わるだろう。
そう思いながら、俺は無造作に水晶球へと両手を伸ばした。
指先が冷たいガラスの表面に触れた、その瞬間だった。
ピシッ、と。
微かな亀裂音が、静まり返った室内に響いた。
「え……?」
マイク越しに佐藤さんの間の抜けた声が漏れる。
水晶球の中心から、黒いインクを水に垂らしたような淀みが急速に広がっていく。それは光を放つのではなく、周囲の光を根こそぎ吸い込むような、異様な暗転だった。
直後、台座のケーブルがビクンと跳ねた。
『警告。測定限界突破。警告。測定限界突破』
無機質な電子音声が鳴り響く。
だが、その音声すら最後まで再生されなかった。
バチバチッ! という激しい火花が操作パネルから噴き出し、防弾ガラスの向こう側で佐藤さんが短い悲鳴を上げる。
モニターに表示されていたグラフや数値が、一瞬にして意味不明な文字列へと文字化けを起こし、やがてプツンと真っ暗になった。
パリンッ!
俺の手元にあった水晶球が、内側からの圧力に耐えきれなくなったかのように、粉々に砕け散った。
台座からは、プシューと焦げ臭い煙が立ち上っている。
予備の測定器は、完全に沈黙していた。
「あー……すみません。静電気か何かでしょうか」
俺は慌てて手を引っ込め、砕けたガラス片から距離を取った。
防弾ガラスの向こう側では、佐藤さんが腰を抜かして床にへたり込んでいる。
「あり得ない……」
マイクがオンになったままなのか、彼女のうわ言のような呟きが室内に響いた。
「お嬢様の時は、まだ数値が振り切れただけでした……でも、今回は……機械の魔力許容限界を、一瞬でオーバーフローさせて、回路を焼き切った……? いえ、それどころか、魔力密度が高すぎてセンサーが認識すらできずに……」
佐藤さんが専門用語を並べて混乱しているのを横目に、俺は自分の左腕に視線を落とした。
そこには、妻の形見である少し狂う安物の腕時計が巻かれている。
秒針が、チクタク、チクタクと、不規則なリズムを刻んでいた。気のせいか、文字盤の裏側が微かに熱を帯びているように感じる。
(もしかして、この時計の金属パーツが機械の磁場に干渉したのか?)
妻は生前、「あなたにはこれが必要だから。絶対に外さないでね」と笑って、この時計をプレゼントしてくれた。
ただの安物だが、俺にとっては大切な形見だ。まさかこんなところで悪目立ちする原因になるとは思わなかった。
今度、時計屋で磁気抜きをしてもらった方がいいかもしれない。
「パパ、すごい! パパも覚醒者なんだね!」
測定室の扉が開き、愛海が目を輝かせて飛び込んできた。
俺の腰に抱きつき、満面の笑みで見上げてくる。
「いや、愛海。これはただの機械の故障だよ。パパは毎日シュレッダーを回してるだけの、ただの会社員だぞ」
「えー? でも機械、ドカンってなったよ!」
「たまたま老朽化してたんだよ。ほら、パパは魔法なんて使えないだろ?」
俺は愛海の頭を撫でながら、必死に言い聞かせた。
これ以上、事態をややこしくするわけにはいかない。
愛海が覚醒者になっただけでも、今後の手続きや生活の変化で頭が痛いというのに。親の俺まで規格外の覚醒者だなんてことになれば、平穏な日常が完全に崩壊してしまう。
週末には、旅行ガイドブックの隅に小さく載っていた新設の秘湯へ家族旅行に行く予定なのだ。
有給休暇は正当な権利として行使する。休日の予定を潰されることだけは、絶対に避けなければならない。
俺は愛海の手を引き、防弾ガラスの向こう側、操作室へと足を踏み入れた。
佐藤さんはまだ床に座り込んだまま、真っ暗になったモニターと俺の顔を交互に見比べている。
「あの、佐藤さん。これは何かの間違いです。機械の老朽化か、俺の時計が干渉しただけで……」
「ち、違います! 測定器は先月導入されたばかりの最新型です! それを二台も……親子揃って、規格外なんて……!」
佐藤さんは完全に常識を破壊された顔で、涙目になって首を横に振った。
マニュアル通りの業務をこなしてきた彼女にとって、この状況はキャパシティを大きく超えているのだろう。
「今日の俺の測定結果は、エラーということで処理できませんか? 弁償は……給料からの分割払いでお願いします」
「べ、弁償なんてとんでもない! これはダンジョン庁の歴史を揺るがす大事件で……すぐに上層部に報告を……!」
「待ってください。俺はただの事務員です。目立つのは困るんです」
俺は少しだけ声を低くした。
妻を亡くして以降、男手一つで愛海を育ててきた。
母親がいないから可哀想になんて言葉を娘に浴びせないためにも、俺は父親として完璧に立ち回らなければならない。
愛海が覚醒者としてダンジョン庁に登録されれば、ただでさえ世間の注目を集める。そこに父親も規格外という情報が加われば、悪徳ギルドや裏社会の連中がこぞって群がってくるだろう。
俺の手の届かないところで、愛海が危険な目に遭うこと。それだけは、何があっても阻止しなければならない。
「愛海の登録手続きは進めてください。ですが、俺の件は内密に。ただの測定エラーだった。それで通してください」
「そ、そんな無茶な……!」
佐藤さんが悲鳴のような声を上げた時だった。
操作室の分厚い扉の向こう、ロビーの方から、ざわめきが大きくなっていくのが聞こえた。
どうやら、愛海が測定器を壊したという噂は、すでに外にいる覚醒者たちの間で広まり始めているようだ。
さらに、予備の機械まで沈黙したとなれば、騒ぎは収まらないだろう。
「とにかく、今日はこれで失礼します。愛海、帰るぞ」
「うん! パパ、お腹すいた!」
「よし、帰りにファミレスのハンバーグでも食べて帰ろうな」
俺は佐藤さんが止めるのも聞かず、愛海の手を引いて足早に操作室を後にした。
裏口へ続く職員用の通路を抜け、なんとかダンジョン庁の建物の外へと出る。
夕暮れの風が、火照った顔を冷ましてくれた。
「ふぅ……なんとかなったか」
俺はネクタイを少し緩め、安堵のため息をついた。
結果の隠蔽がどこまで通用するかは分からないが、少なくとも今は、これ以上の面倒事から逃れることができた。
愛海は隣で、ハンバーグの付け合わせのポテトについて熱く語っている。
その無邪気な笑顔を見ていると、今日一日の疲れも少しだけ和らいだ。
だが、平穏な日常への逃避は、長くは続かなかった。
ブブッ、ブブッ。
スーツの内ポケットで、スマートフォンが短く震えた。
仕事の連絡かと思い、画面を取り出して確認する。
そこに表示されていたのは、見慣れないアドレスからの新着メールの通知だった。
送信元の名前を見て、俺の足がピタリと止まる。
それは、日本を代表するトップギルドの一つとして、連日ニュースを賑わせている巨大組織の名前だった。
件名には、こう記されている。
『結城愛海様への特別スカウトおよび保護プログラムのご提案について』
まだ正式な登録手続きすら終わっていないというのに。
ダンジョン庁の内部から情報が漏れたのか、それともロビーにいたスカウトマンが嗅ぎつけたのか。
どちらにせよ、連中の動きは異常なほど早い。
「パパ? どうしたの?」
立ち止まった俺を不思議に思い、愛海が首を傾げる。
「……いや、なんでもないよ。ちょっと迷惑メールが来ただけだ」
俺はスマホの画面を消し、ポケットに深く突っ込んだ。
愛海には心配をかけたくない。
だが、胸の奥で冷たい怒りが静かに渦を巻き始めていた。
トップギルドからの接触。
それは、愛海の才能を金づるや戦力として利用しようとする、大人たちの身勝手な欲望の表れだ。
もし連中が、強引な手段で愛海を連れ去ろうとするなら。
もし連中が、俺たちの週末の家族旅行の予定を邪魔しようとするなら。
俺は左腕の安物の腕時計を、右手でそっと覆い隠した。
ただの会社員である俺が、この厄介な接触にどう対応すべきか。
答えは、すでに決まっていた。




