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第39話

ゴオオオオオン、と地殻の底から響くような地鳴りが足元を突き上げていた。


大空洞の最深部で鎌首をもたげた漆黒の古代竜は、侵入者を値踏みするように喉奥で重低音を転がしている。その体躯から噴き出す濃密な魔力圧だけで、遺跡の壁面を構成していた古代の石組みが悲鳴を上げ、蜘蛛の巣のような亀裂が天井一面へと広がっていった。


「ひ、ぎぃっ……!?」


豪奢な魔導重装甲を着込んだレオンハルトが、無様な悲鳴を漏らしながら瓦礫の地面に膝をつく。かつて世界ランキング上位を誇っていた男の覇気など見る影もなく、頭上からパラパラと降る石粉に怯えて頭を抱え込んでいた。


彼が怯えるのも無理からぬことではあった。頭上に広がる大天井から、ビル一棟分にも匹敵する数十トン規模の巨岩群が、質量そのものの暴力となって一行の頭上へ向けて滑落を始めたのだから。


「全員、退避を……! ですが、どこへ……!?」


落下の衝撃で眼鏡を失ったマーガレットが、焦燥に瞳を揺らしながら硬直した喉から声を絞り出す。退避ルートを塞ぐように崩れ落ちてくる巨石の雨。それだけでなく、衝撃によって壁面に刻まれた古代の迎撃陣が暴走を始め、無数の光の槍が全方位へ向けて照射されようとしていた。


万事休す、と誰もが息を呑んだ瞬間だった。


俺は愛海の背負う小さなリュックのサイドポケットへ、自然な動作で指を差し入れた。


「ちょっと借りるぞ、愛海」


「うん!」


指先でつまみ出したのは、百円均一で三束セットになって売られている、ごくありふれた蛍光イエローの事務用付箋だった。書類の要確認事項に貼り付けたり、愛海の教科書の目印にしたりする、何の変哲もない紙切れだ。


俺は束からペラリと一枚だけ剥がし取ると、頭上に向かって軽く腕を伸ばした。


ペタッ。


虚空に対して、まるでそこに見えない壁面が存在するかのように、付箋を軽やかに貼り付ける。会社で処理待ちの回覧書類に『保留』の札を貼り付ける時と、まったく同じ力加減だった。


瞬間、奇妙な静寂が空洞を支配した。


落下速度を増していた数十トンの巨岩群が、まるでビデオのコマ送りを突然一時停止されたかのように、虚空でピタリと静止したのだ。落下の勢いも、激突の衝撃波も、すべてがその場に縫い止められている。


それだけではなかった。壁面から射出されかけていた迎撃陣の閃光すらも、先端を尖らせたまま空中で固まり、一筋の光の針となって凍りついていた。


付箋結界。業務上の優先度を『保留』とし、現状の事態を一時的に凍結させるための、ただの仕分け作業にすぎない。


「な……何が、起きたというのです……?」


マーガレットが呆然と呟き、手元で完全に沈黙している測定器の残骸を握りしめた。最新型も予備の旧式機も過負荷で焼き切れ、液晶は真っ黒に焼け焦げたままだ。だが、計測器など介さずとも、肌を刺す圧倒的な力場がその異常さを如実に物語っていた。空間そのものを物理的に圧着し、質量移動のベクトルを強制的にゼロへと固定する、測定不能の超重力波の痕跡――


「ば、馬鹿な……! たった一枚の紙片に、これほどの重量結界を定着させるなど……! いかなる術式ですか!? 計器すら焼き切る規模の現象なのに、魔力回路の展開すら見えないなんて……!」


「いえ、ただの付箋ですよ。剥がしやすい糊がついているだけの」


俺は息を整えながら、何事もなかったかのように答えた。崩落が保留されているうちに、退避ルートの安全は完全に担保されたはずだ。


「パパの付箋、やっぱりすごいね!」


愛海が満面の笑みを浮かべ、抱えていた夏休みの自由研究ノートを開いた。そこには、俺が先ほど書き殴った脱出フローチャートの隣に、黄色い四角い紙が巨大な岩を支えている可愛らしいスケッチが、色鉛筆で手際よく描き足されていた。


「みんな、パパの言う通りに動けば大丈夫だから! ほら、進行管理主任のわたしについてきて!」


愛海が小さな手を叩いて、呆然自失としていた海外の探索者たちを誘導し始める。大の大人が、小学生の少女の指示に従って小走りに安全地帯へと逃げ込んでいく光景は、どこか奇妙で、ひどく微笑ましかった。


だが、俺の心境はまったく穏やかではなかった。


愛海の頭を優しく撫でてやりながら、俺は左手首に巻かれた腕時計へと視線を落とした。文字盤を覆う風防ガラスには細かな生活傷がついており、短針と長針は無情な現実を指し示している。


午後一時十五分。


「……まずいな」


思わず本音が口から漏れ出た。


我が家の最寄りにある駅前スーパー『サトウストア』では、十七時半から十八時半の一時間限定で夕方のタイムセールが開催される。愛海が楽しみにしている手作りハンバーグを作るためには、あの特売で国産合挽肉を手に入れなければならない。


十五時の脱出期限までに連絡坑道を突破して地上へ出なければ、ダンジョン閉鎖の手続きや電車での移動時間を考慮した際、十七時半のセール開始に到底間に合わなくなってしまう。十五時まで、残された猶予はもはや一時間四十分を切っていた。


「パパ、今日の晩ごはんのハンバーグ、すっごく楽しみ!」


愛海がノートを胸に抱きしめ、屈託のない笑顔を向けてくる。


その無邪気な瞳を見た瞬間、俺の胃のあたりがキュッと引き締まった。妻が他界してからというもの、俺はこの子の笑顔と食卓の温もりを守ることだけを考えて生きてきたのだ。特売を逃し、夕食の献立が変更になるなどという事態は、我が家の家庭管理において明白な業務上の過失に他ならない。


これ以上の業務遅延は、家庭の崩壊につながる。


すでに右手には、先ほど胸ポケットから取り出してカチリと芯を繰り出した、長年愛用している黒インクの油性ボールペンが握られている。背後からは、先ほど竜へ向かおうとした俺へ投げかけられたレオンハルトやマーガレットの必死の制止が、いまだ混乱の余韻となって漂っていたが、立ち止まっている暇はない。


俺は歩みを止めることなく、肩越しに振り返りもせず、極めて平坦なトーンで告げた。


「定時退勤と夕食の仕込みは不可侵の業務規定です」


背後で息を呑む気配を置き去りに、俺は躊躇なく歩を進めた。古代竜の排除に割ける時間は、長く見積もっても一分だ。


大空洞の中央広場へと足を踏み出すと、空気がチリチリと音を立てて焦げ始めた。


漆黒の古代竜が、身の程知らずな単独の侵入者を見下ろし、真紅の瞳に明確な殺意を滾らせる。顎門が大きく裂け、その口腔の奥底で、数千度を超える高熱の火炎ブレスが超高密度に凝縮されていくのが見えた。


周囲の空間が熱膨張で歪み、足元の石畳がドロドロと融解を始める。


ドォッ、と大地を爆砕するような踏み込みとともに、巨大な質量が猛スピードで突進を開始した。ブレスの余波だけで、大空洞の側壁が次々と蒸発していく。


だが、俺の視界には、その荒れ狂う破壊の奔流など映っていなかった。


見据えるのは、ただ一点。荒れ狂う魔力の奔流が一点に集中する、古代竜の喉元――魔力循環の節点(ノード)のみだ。会社で山積みにされた不備書類のミスを瞬時に見抜くように、その構造的な欠陥はあまりにも明白に浮かび上がっていた。


俺は油性ボールペンを水平に構え、半歩だけ前へと重心を沈めた。


十五時の脱出期限まで、残された猶予は一時間四十分。


娘の待つ温かな食卓と、特売の挽肉を死守するため――ただの会社員による、規格外の『神速残業』が幕を開けようとしていた。

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