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第38話

地底の冷気が肌を刺す。


奈落の底に広がる古代遺跡の瓦礫の中、重苦しい空気が澱んでいた。


「う、嘘だろ……なんでこんな化け物が、ここにいるんだよ……ッ!」


震える声が静寂を切り裂いた。見れば、金髪を乱したレオンハルトが、腰を抜かした格好で後ずさっている。彼の手から滑り落ちた通信端末の液晶が、地面の小石にぶつかって派手な火花を散らした。先ほどまで尊大に胸を張っていた面影はどこにもない。


「総員、散開! 迎撃陣形を……っ、応答しなさい!」


マーガレットの鋭い号令も、虚しく地下空間に反響するだけだった。膝をついた特命探索者たちは、誰も立ち上がろうとしない。完全武装したはずの精鋭たちが、揃って青ざめた顔で頭を抱え、ただ震えている。


無理もない。暗闇の奥、ドーム状の大空洞から漂ってくる威圧感は、明らかに地上で想定されている危険度の枠組みを超えていた。


ズズズ、と大地を削る重低音とともに、影がせり上がってくる。漆黒の鱗に覆われた巨大な体躯。太古の眠りから覚めつつある深層ドラゴンが、その凶悪な首をもたげたのだ。


――ゴォォォォォォッ!!


空気が爆ぜた。肺腑を直接締め上げるような咆哮が吹き荒れ、遺跡の石柱が激しく軋む。


「わっ……!」


小さな悲鳴を上げた愛海の肩を、俺はすぐさま抱き寄せた。両手で娘の柔らかな耳を優しく塞ぎ、胸元へと滑り込ませる。


「大丈夫、大きな声出しちゃ駄目だよね。耳、痛くなかったかい?」


「うん……パパがぎゅってしてくれたから平気。でも、あのトカゲさん、すごく怒ってるみたい……」


愛海が俺のスーツの裾をぎゅっと握りしめながら、怯えを押し込めるように小さく呟いた。こんな極限状況にあっても、この子は父親を信じて健気に振る舞おうとしている。男手一つで育ててきた愛娘のこの信頼を、決して裏切るわけにはいかない。


俺は左腕の袖を少しめくり、安物の腕時計に視線を落とした。


午後一時十分。


駅前スーパー『サトウストア』の精肉コーナーで、国産合挽肉の夕方特売が始まるのは十七時半から十八時半の一時間だ。伊豆から自宅の最寄り駅までは電車で二時間強かかる。遅くとも十五時ちょうどまでに地上へ脱出できなければ、スーパーへ駆け込むことすら叶わない。地上脱出の期限まで、残された猶予は二時間足らず。移動時間と調理の手間を逆算すれば、ここを抜け出す猶予は決して多くなかった。


「特売の挽肉は、数量限定だからな……売り切れたら、今夜の特大ハンバーグが作れなくなってしまう」


独り言のように呟きながら、俺は冷静に視線を巡らせた。


崩壊した指揮系統。パニックに陥った連盟の調査部隊。そして、前方の唯一の脱出ルートを完全に塞ぐ古代種。絵に描いたような業務上の致命的トラブルだが、会社員生活で培った危機管理の基本は変わらない。混乱した現場でまず行うべきは、状況の可視化と工程の再構築だ。



俺は愛海を連れて、崩落した巨大な石壁の陰へと素早く身を隠した。マーガレットたちも這うようにして瓦礫の裏へ転がり込んでくる。


ピピピピピピピ――ッ!


マーガレットが握りしめる旧式の予備解析器が、甲高い警告音を乱射していた。液晶画面には『測定不能』の赤文字が激しく明滅している。


「馬鹿な……未踏領域の最深部に、神話級の封印個体が残存しているなどと……! こんな数値、連盟の本部でも観測されたことなどありません! 退路の転移門も破壊された……完全に手詰まりです!」


怜悧だった彼女の表情は完全に崩壊し、整ったシニヨンから幾筋ものブロンドがこぼれ落ちていた。眼鏡を失った青ざめた顔のまま、震える手で額を押さえようとするが、その指先すら激しく痙攣している。


「おい、どうすんだよマーガレット! 俺たちを殺す気か! 救助を呼べ! 今すぐ地上に連絡を繋げ!」


レオンハルトが喚き散らしながら、マーガレットの肩を乱暴に揺さぶる。かつて世界ランキングの上位を誇っていた男のプライドは、災害級の怪物を前にして見る影もなく霧散していた。


見苦しい押し問答に付き合っている暇はない。これ以上の遅延は、今晩の夕食スケジュールを決定的に破綻させる。


「愛海、リュックから夏休みのノートを出してくれるかい」


「うん、自由研究のやつだよね? はい、パパ!」


愛海が小さな背中からリュックを下ろし、大切そうに抱えていた方眼ノートと三色ボールペンを手渡してくれた。表紙には愛海の丸っこい文字で『パパのおしごととダンジョンかんさつ』と誇らしげに書かれている。


俺は瓦礫の上に膝をつき、ノートの新しい白紙ページを勢いよく開いた。


胸ポケットから、いつも愛用している一本八十円の黒インクの油性ボールペンを抜き取る。カチリ、と静かなノック音が響いた。


「な……結城さん? 貴方、こんな時に一体何を……」


呆然としたマーガレットの視線が、俺の手元へと注がれる。


「何って、業務のリスケジュールですよ。突発的なアクシデントで工程が狂った以上、リカバリープランを立てるのは社会人の常識でしょう」


俺は淡々と答えながら、ペン先を方眼紙に滑らせた。



カリカリカリ、と規則正しい硬質な摩擦音だけが、不気味な地鳴りの合間に響き渡る。


先ほど落下しながら網膜に焼き付けたダンジョンの立体構造、気流の流れ、そして魔力の滞留ポイント。頭の中に蓄積された膨大なデータを、オフィスのエクセルシートに打ち込むような手慣れた感覚で、紙の上へ二次元のフローチャートとして落とし込んでいく。


(まず、現在地は最深部・古代遺跡エリアの北西端。地上へ抜ける唯一の連絡坑道は、あの古代竜の背後、大空洞の中央奥に位置している)


迷いなく直線と分岐を描き足す。


(古代竜の魔力波形から推測するに、覚醒完了までのラグは約三分。周囲の小型護衛個体の巡回ルートは、遺跡の石柱配置に依存しているため反時計回り。ならば、排除すべきボトルネックは三箇所……)


「な……に、それ……」


背後から覗き込んできたマーガレットの息が止まった。


彼女の持つ予備の解析器が、俺のペン先から漏れ出るわずかな集中力に反応したのか、けたたましいエラー音を上げて焦げた煙を噴き出し、完全に液晶を焼き切らせた。だが、彼女はもはや壊れた機械など一瞥もしていなかった。吸い寄せられるように、俺の手元を見つめている。


そこには、ダンジョン庁が数十年かけても作成できなかったであろう、最深部の完全な立体見取り図と、時間軸に沿ったミリ単位の退避工程表が完成しつつあった。


「はい、できました」


書き殴るような速度でありながら、寸分の狂いもない美しいフローチャート。俺はペンの尻で紙面を軽く叩き、マーガレットの目の前へ差し出した。


「特使さん、こちらが定時までの退避工程表です。速やかに部下へ周知してください」


「た、退避工程表……? 何を言っているのですか、貴方は! 目の前にいるのは古代の絶滅指定種ですよ!? それを、こんな紙切れ一枚で……」


「紙切れではありません。立派な業務改善提案書です」


俺は努めて穏やかに、しかし一切の反論を許さない営業用の笑みを浮かべた。


「貴方方の精鋭部隊は、パニックで前線維持が不可能な状態です。よって、全員を『避難誘導および後方支援』の担当へと配置転換します。こちらのルートAを通れば、瓦礫の死角を利用してドラゴンの索敵範囲を完全に迂回できます。所要時間は五分。愛海を連れて、速やかに先行してください」


「ふ、ふざけるな……! 迂回したところで、出口の前にあの怪物が陣取っているんだぞ! 誰があれを食い止めるっていうんだ!」


割り込んできたレオンハルトが、青筋を立てて叫ぶ。恐怖のあまり瞳孔が開いている彼に、俺は事務的な視線を向けた。


「誰がって、私ですよ。ボトルネックの解消は、案件の担当者が行うべき仕事です。前線の障害物排除は私が単独で引き受けますので、皆さんは速やかに移動を開始してください。ただし、足手まといになるような勝手な行動は厳禁です。全体の進捗が遅れますので」


「なっ……」


レオンハルトが言葉を失い、喉をヒクつかせた。狂人としか思えない発言だが、俺の淀みのない口調と、ノートに記された圧倒的な説得力を持つ進路図が、彼の反論を喉元で押し留めていた。



「パパ、これ持ってればいいの?」


愛海が両手でノートを胸に抱きかかえ、首をかしげた。


「ああ、そうだ。愛海はその工程表の進行管理主任だ。パパが少し障害物を片付けてくるから、特使さんたちと一緒に、安全な通路で待っていてね」


俺は愛海の頭を優しく撫で、水筒から注いだ冷たい麦茶を一口飲ませてやった。娘はごくりと喉を鳴らすと、屈託のない満面の笑みを咲かせた。


「うん! わたし、パパのお仕事ちゃんと見てる! パパ、おいしいハンバーグ楽しみにしてるね!」


「任せなさい。特売の挽肉は、何があっても死守するから」


娘の無邪気な声が、凍りついた空気をわずかに溶かす。周囲の探索者たちは、死地に飛び込もうとする父親と、それを笑顔で見送る娘の異常な光景に、もはや戦慄を通り越して言葉を失っていた。


立ち上がり、スーツのシワを手で払う。


大空洞の境界へと足を踏み出すと、頭上から灼熱の熱波が降り注いできた。覚醒を完了させた漆黒の深層ドラゴンが、その巨大な質量を誇示するように前脚を踏み鳴らす。真紅の瞳が、侵入者である俺を明確な敵として捉えていた。


空気が震え、空間そのものが軋みを上げる。


俺はもう一度、左手首の時計に目をやった。


針は無情にも進み、地上脱出のデッドラインである十五時まで、残された猶予は一時間四十五分を切っていた。夕方の特売開始まではまだ四時間強あるが、ここで足止めを食らえば確実に定時脱出の計画が崩壊する。


ここから地上への連絡坑道を抜け、駅へと向かう時間を逆算すれば、この障害物の撤去に費やせる時間は――せいぜい、一分か。


「……まったく。有給を取ってまで、こんな突発的な残業をさせられるとはね」


ため息を一つ吐き出しながら、俺は胸ポケットから取り出した油性ボールペンの頭を、カチリと静かにノックした。

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