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第37話

空になった二段重ねの弁当箱を手早く重ね、ゴムバンドで留める。箸を専用のケースに滑り込ませてから、俺はウェットティッシュを取り出して愛海の小さな両手を丁寧に拭いた。


「ごちそうさまでした、パパ。卵焼き、甘くてすっごく美味しかった!」


「そいつは何よりだ。午後の行程は少し足場が悪くなるから、靴紐をしっかり締め直しておこうな」


「うん!」


愛海はリュックを足元に置き、小さなスニーカーの紐をぎゅっと引っ張った。元気いっぱいの返事とは裏腹に、足元の地面からは小刻みな振動が途切れず伝わってくる。昼休憩に入る直前から昇降路の底で唸りを上げていた地鳴りは、収まるどころか徐々に周期を狭めていた。


俺は立ち上がり、スラックスの皺を手で払う。予定表によれば、正午からの一時間の昼休憩を終えようとする現在は十二時五十五分。午後の探索を再開して深層の査察を迅速に完了させ、遅くとも十五時ちょうどには地上への昇降機に乗らなければならない。伊豆から自宅まで電車で二時間強、十七時半の帰宅と夕飯の買い出しを逆算すれば、一分の遅延も許されないスケジュールだった。


背後では、国際ギルド連盟の特使であるマーガレットが、鞄から取り出した予備の小型解析計器を睨みつけたまま青ざめていた。先ほど愛海の魔力波形を測ろうとして最新型の測定器が煙を上げて焼き切れてしまったため、旧式のバックアップ機を起動したのだ。彼女の細い指先が、目まぐるしく更新される波形データを弾く。


「あり得ません……。中層の安全境界域で観測された局所的な重力波の余波が、まだ深層フロアの岩盤へ干渉し続けているというのですか? この海底ダンジョンの魔力循環では、到底説明がつきません」


彼女は俺の足元や愛海の背嚢を疑わしげに見つめ、眉根を寄せていた。午前の蜘蛛退治の際、愛海が放った初級風魔法の派手な炸裂に紛れ、俺が小石を軽く蹴って奇襲を阻んだ際の物理圧が、どうやら彼女の高精度なセンサーに余計なノイズを残してしまったらしい。会社で言えば、シュレッダーの破片を床に落として清掃員に怪しまれたようなものだ。実に反省すべき落ち度だった。


だが、そんなマーガレットの警戒心すら、別の不穏な動きによって掻き消されることになる。


「……ええい、知るか! こんな得体の知れないガキと、腑抜けた父親に舐められたままで終われるものか!」


低く濁った怒号が響いた。金髪を逆立てた大男、連盟のエリート部隊を率いる探索者のレオンハルトだ。彼は午前の探索で愛海の圧倒的な力にプライドを粉々に砕かれ、完全に冷静さを失っていた。先ほどから手の中で赤黒く不穏に明滅させていた黒い金属製の小さな筒――違法な魔力拘束陣の起爆装置を、乱暴に親指でさらに深く押し込んだ。


空気が、一瞬で凍りついた。


「レオンハルト、貴方何を――!?」


マーガレットが鋭い悲鳴を上げた瞬間、昇降路の石畳に刻まれていた紋様が一斉に黒紫色の光を放ち始めた。足元から噴き出す禍々しい光の帯が、幾重もの幾何学模様を描きながら螺旋状に立ち昇っていく。


連盟の強硬派が裏で横流ししているとされる違法アーティファクト、魔力拘束陣の暴走起動だった。本来は凶悪な指定覚醒者の自由を奪うための拘束装置だが、あろうことか彼は、ダンジョンの魔力結節点であるこの昇降路の中央で作動させてしまったのだ。


「ははっ! これで動けまい! この魔力拘束陣で自由を奪い、連盟の特務コンテナへ放り込んでしまえば俺の勝ちだ!」


レオンハルトが勝ち誇ったように叫ぶ。だが、その嘲笑はすぐに引きつった痙攣へと変わった。


ギチ、ギチギチギチ……ッ!


金属を軋ませるような不快な破裂音が、空間そのものから鳴り響く。拘束陣から放たれた過剰な魔力負荷が、深層の脆弱な境界結界に致命的な亀裂を入れていた。ダンジョン中枢を巡る魔力循環が激しい逆流を起こし、頭上の岩盤が耐えかねたように次々と剥がれ落ちてくる。


「バカ者が! 深層の活性化限界値を越えています! ダンジョン全体の安全結界が強制解除されたのです……今すぐ筒の作動を停止させなさい!」


「な、停止コードが受け付けない!? 魔力の逆流で回路が焼き切れて――」


レオンハルトがパニックに陥り、火花を散らす黒い筒を床に投げ捨てた。だが、すでに手遅れだった。


昇降路の奥、地上への生還を約束していたはずの緊急脱出用転移ゲートが、激しい空間の歪曲に巻き込まれて激しく明滅する。青く澄んでいた光の膜は、ドス黒い紫の亀裂に覆われ、まるで薄いガラス細工のように、パリンと乾いた音を立てて粉々に砕け散った。


光の破片が虚空へ溶けて消える。


「そ、そんな……地上へのゲートが、消滅した……?」


連盟の精鋭探索者たちが、膝から崩れ落ちるようにへたり込んだ。世界各地の危険地帯を渡り歩いてきたはずの屈強な男たちが、退路を完全に断たれたという事実に直面し、ただ震えることしかできなくなっている。


「パパ……」


愛海が俺のスーツの裾を、小さな手でぎゅっと握りしめてきた。怯えというよりは、急激な気圧の変化と騒音に対する戸惑いだろう。俺は愛海の頭を軽く撫で、落ち着かせるように息を吐いた。


「大丈夫だ、愛海。パパがちゃんとついているからな」


その言葉を口にした直後、足元から世界が傾いた。


ズズズ……ドォォォォンッ!


大地を裂く轟音が、鼓膜を容赦なく叩いた。昇降路の床面を支えていた巨大な岩盤が、深部からの異常な魔力脈動に耐えきれず、一気に幾千の破片へと断裂していく。立っていることすら不可能な、垂直方向への大崩落――いわゆる『深層崩落(アビス・フォール)』が発生したのだ。


「きゃああああっ!」


マーガレットの絶叫が遠ざかっていく。足場を失った連盟の調査隊全員が、瓦礫の群れとともに底知れぬ暗黒の奈落へと呑み込まれていくのが見えた。重力加速度に引かれ、体勢を立て直す間もなく落下していく彼らの姿は、書類棚が丸ごと倒壊したときの散乱した書類のようだった。


「愛海、しっかり掴まっていろ」


「うんっ!」


俺は即座に愛海の腰を左腕で抱き寄せ、宙に浮いた身体を抱え込んだ。自由落下が始まる。周囲を無数の巨岩が猛スピードで並走していく。時速百キロを超える落下速度の中、俺は落下軌道上にあった直径二メートルほどの岩の破片を、革靴のつま先で軽く蹴った。


パアン、と空気を破る乾いた破裂音が響く。


落下速度を相殺するための反動。踏み抜かれた岩は粉微塵に消し飛び、俺と愛海の落下速度は一瞬にして安全な速度へと減速した。その直前、落下中のマーガレットが抱えていた予備の解析計器が、俺の足元から放たれた極小の減衰波を捉えて激しく赤色点滅していたが、気にする余裕など微塵もない。


暗闇の底が急速に迫る。俺は愛海を抱いたまま、衝撃を完全に逃す柔らかなステップで、古代の石畳らしき床面に着地した。


ドス、と僅かな足音だけを残して着地を完了させる。周囲では、遅れて落下してきた岩塊が激しい爆煙を上げて砕け散り、連盟の探索者たちが悲惨な呻き声を上げながら地面に転がっていた。彼らの纏う最新鋭の魔導重装甲がなければ、全員が肉塊になっていたところだろう。それでも、もはや立ち上がって戦闘を継続できる状態の者は一人もいなかった。


「ふぅ……愛海、怪我はないか? どこか痛むところは?」


俺は腕の中の愛海を下ろし、普段着のTシャツやショートパンツに砂埃がついていないか素早く点検した。


「わたしは全然平気だよ! パパが抱っこしてくれたから!」


愛海は胸を張り、頼もしそうに微笑んでくれた。その健気さに救われる思いがしたが、周囲の状況は最悪という言葉すら生ぬるいものだった。


立ち込める青白い燐光と粉塵の向こうには、海水に侵食された巨大な石柱が林立する古代海底神殿のような空間が広がっていた。ここは海洋ダンジョン『海神の牢獄』の最深部――人間が立ち入ることを想定されていない、未踏の危険領域だ。


その時、左手首の時計にチリリと熱が走った。


亡き妻の形見である、少し狂いやすい安物の腕時計。その秒針が、周囲を取り巻く濃密な魔力嵐に反応したかのように、カチリと一瞬だけ逆回転した。微弱な温もりとともに時計から放たれた見えない波長が、俺と愛海の周囲に張り詰めていた異常な魔力圧を、まるで満員電車の隙間のようにわずかに押し広げて中和していく。


だが、安堵している暇はなかった。


ズゥゥゥン……ズゥゥゥン……。


神殿遺跡の最奥から、心臓を直接握り潰されるような重低音の胎動が響いてきた。フロア全体の崩落によって眠りを妨げられた、古代の厄災が覚醒しつつある気配だった。海鳴りのような不気味な唸りとともに空気が重く澱み、皮膚がチリチリと焼けるような殺気が暗闇から押し寄せてくる。


「ひ、ヒィィッ……あ、あいつが目覚める……推奨レベル二百以上の、絶滅指定種が……!」


瓦礫に埋もれたレオンハルトが、黄金の装甲を泥まみれにしながら、歯の根をガチガチと鳴らして絶望に咽び泣いていた。エリート官僚であるマーガレットもまた、割れた眼鏡を床に落としたまま、暗闇の奥を見つめて呆然自失となっている。


脱出ゲートは消滅し、上空への連絡昇降路は完全に崩壊。目の前には、世界を滅亡させかねない古代の怪異が鎮座している。


これ以上ないほどの、完全な行き止まり。絶望的な死地だった。


だが――俺の頭を真っ白に染め上げたのは、そんな怪物の脅威ではなかった。


俺は左腕を掲げ、腕時計の盤面を凝視した。短針はすでに一時を回り、一時十分を指そうとしている。ここから最深部を強行突破し、地上へ脱出するルートを開拓するのにどれだけの時間がかかるか。


十五時ちょうどに地上へ脱出しなければ、伊豆から自宅まで二時間強かかる電車移動を挟んで、十七時半の定時帰宅を守ることは到底不可能になる。そして、駅前スーパー『サトウストア』の精肉コーナーで、国産合挽肉が半額になる夕方の特売セールは――十七時半から十八時半までの、たった一時間しかないのだ。


「困りましたね……このままでは、十五時の地上脱出はおろか、夕方のタイムセールにも間に合いません」


思わず口から漏れ出た呟きに、青ざめていたはずのマーガレットが信じられないものを見る目でこちらを振り返った。


「は……? な、何を言っているのですか、貴方は……? 私たちは今、未踏領域の最深部に閉じ込められたのですよ!? 退路もなく、古代の厄災が目覚めようとしているこの極限状態で、スーパー……?」


彼女の常識的な問いかけは、しかし今の俺の耳には届かなかった。


「パパ、今日の晩ごはんはハンバーグがいいな! パパの作った、おっきいやつ!」


愛海が無邪気な笑顔で、俺のスーツのポケットに顔をすり寄せてくる。夏休みの初日、父親と一緒においしい夕飯を食べることを、この子は心から楽しみにしているのだ。妻が他界してからというもの、俺が何よりも大切にしてきた家庭の温もり。それを、こんな理不尽なトラブルで反故にするわけにはいかない。


挽肉のタイムセールが始まる十七時半まで、あと四時間強。だが、地上脱出のデッドラインである十五時までは、もう二時間も残されていない。


十七時半の定時帰宅という絶対の誓いを守るためには、もはや悠長にダンジョン庁の救助部隊を待っている時間など一秒たりとも存在しなかった。


暗闇の奥で、真紅の巨大な双眸がぎらりと開いた。地響きとともに、古代竜とおぼしき巨大な質量が、ゆっくりとこちらへ向けて歩みを進めてくる。


退路は消えた。絶望の底で、残された時間は砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。俺は眉間に深い皺を刻み、十五時の脱出期限と夕方特売のタイムリミットを睨みつけながら、手首の時計の秒針をただじっと見つめ続けた。

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