第36話
湿った空気が首筋にまとわりつく。ダンジョン特有の生ぬるい潮風が、湿った岩壁の隙間から吹き抜けていた。
「……結城さん。あなた、本当に状況を理解しているのですか」
マーガレット特使の冷徹な声が、薄暗い洞穴に低く響いた。銀縁眼鏡の奥の瞳は、俺の手元に鋭く突き刺さっている。携帯型の最新型解析器を握る彼女の指先は、さっきからわずかに強張ったままだ。
「ええ、もちろん理解していますよ。中層に入ってから急に湿度と気温が上がりましたからね。油断すると子供はすぐ脱水症状を起こします」
俺はリュックサックの外ポケットから取り出した虫除けウェットティッシュで、愛海の腕を一枚一枚ていねいに拭った。ついでに首筋も軽く叩くように拭いてやる。メントールの微かな香りが広がると、愛海はくすぐったそうに肩をすくめた。
「あはっ、パパ、つめたい!」
「じっとしてなさい。こういう湿った岩場には変な虫がいるからな。刺されて腫れたら、明日のプールに行けなくなるぞ」
「はーい!」
俺たちのそんなやり取りを、数歩先で大剣を構えていたレオンハルトが、忌々しそうに振り返って睨みつけてきた。金髪を乱暴に揺らし、特注の魔導重装甲をぎしぎしと鳴らす。
「ふざけるなよ、無能な荷物持ちが! ここは危険度A級指定エリアのど真ん中だぞ! 貴様ら親子が遠足気分でいられるのもここまでだ……おい、上を見ろ!」
レオンハルトの怒声と同時に、天井を覆い尽くす巨大な鍾乳石の隙間から、無数の黒い影がずるりと這い出してきた。
キリキリ、と耳障りな摩擦音が空洞全体に反響する。
中層の捕食者、ディープ・アラクネの群れだった。馬ほどもある巨体に、鋼鉄のような漆黒の外骨格。八本の単眼が暗闇の中で濁った赤色に光り、その節足の先から白く粘着質な鋼糸が一斉に垂れ下がってくる。瞬く間に、俺たちの周囲は逃げ場のない白い蜘蛛の巣の檻で囲い込まれてしまった。
「くそっ、囲まれたか! 総員、魔導障壁を展開! 前衛は迎撃陣形をとれ!」
レオンハルトが叫び、国際ギルド連盟の精鋭部隊が一斉に武器を抜く。だが、頭上から降り注ぐ粘着糸の密度は尋常ではなかった。展開しかけた魔導障壁に糸が絡みつき、重力魔法で編まれた防壁がメキメキと音を立てて歪んでいく。精鋭たちの足並みが、予想以上の数と重圧によって乱れ始めていた。
「前線の統制を乱さないで! 陣形を維持しなさい!」
マーガレットが鋭く指示を飛ばすが、すでに頭上数メートルにまで巨大な毒牙が迫っていた。滴り落ちる緑色の消化液が岩肌をジュウジュウと溶かす。
連盟の者たちの顔に、明らかな焦燥と動揺が走った。
そんな緊迫した空気の中、俺の隣で愛海がふと顔を上げた。
その手には、夏休み用の自由研究ノートが握られている。
「あーっ! せっかくパパがきれいに拭いてくれたのに、上から変なネバネバが落ちてきたらノートが汚れちゃう!」
愛海はぷくっと頬を膨らませると、無邪気な調子で右の小さな掌を天井へと向けた。
「あっちいって! 自由研究の邪魔しないで!」
パチン、と愛海の掌から小さな音が鳴った。
それは、覚醒者の訓練施設で誰もが最初に教わる、ただの初級風魔法――エア・バレットのはずだった。
だが、その直後。
愛海の小さな手から解き放たれたのは、弾丸などという生易しいものではなかった。
ゴッ、と大気が一瞬で真空に引き絞られるような重低音が轟いた。
掌から生じた風の塊は、瞬く間に膨張し、大空洞の全容を覆い尽くすほどの超巨大な暴風の渦へと姿を変えた。緑色の光を帯びた竜巻が、天井へ向けて逆流する滝のように垂直に突き上がる。
「……なっ、なんだこの魔力量は――っ!?」
レオンハルトの悲鳴が暴風の咆哮にかき消された。
天井に張り付いていた数十匹のディープ・アラクネの群れは、迎撃態勢を取る暇すら与えられなかった。超高圧の風刃が密集地帯を通過した瞬間、鋼鉄の外骨格も、毒牙も、張り巡らされた粘着糸も、すべてが紙屑のように切り刻まれ、摩擦熱によって一瞬で灰燼と化していく。
それだけに留まらず、暴風は分厚い岩盤の天井そのものを円形に削り取り、巨大な空洞の上にさらなる大穴を穿ち抜いていた。
ズザザザザッ!
消滅したモンスターたちの微細な灰と、粉砕された岩石の粉塵が、白い霧のように洞穴内に降り注ぐ。
愛海が「えいっ」と掌を閉じると、あれほどの猛威を振るった暴風が、嘘のようにピタリと止んだ。
「……あ」
レオンハルトは腰を抜かし、尻餅をついたまま上空を見上げていた。大剣を取り落とし、口を半開きにしたままカタカタと小刻みに震えている。世界屈指を誇る彼のプライドは、小学生の放った『初級魔法』の余波だけで、完全に粉々に打ち砕かれていた。
「バカな……こんな、一撃でA級の群れを……地形ごと……?」
マーガレットもまた、額に冷たい汗を滲ませ、絶句していた。眼鏡がわずかにずり落ちていることにも気づいていない。彼女が胸元で握りしめる端末には、愛海が放った瞬間的なエネルギー出力が、規定の測定上限を軽々と振り切ったことを示す赤い警告文字が並んでいた。
小学生という年齢からは絶対に説明がつかない、理不尽極まりない超火力。
連盟の精鋭たちが愛海に向ける視線は、先ほどまでの見下しから、純粋な戦慄と畏怖へと完全に塗り替えられていた。
「ふう、危なかったぁ。パパ、ノート無事だったよ!」
愛海はケロリとした顔で振り返り、ノートを抱きしめて満面の笑みを浮かべた。
「ああ、よかったな。でも愛海、ダンジョンの中ではあまり大きな音を出しちゃいけないぞ。ほら、風を起こして喉が渇いただろう」
俺はすぐさまリュックのサイドポケットから水筒を抜き出し、フタをコップにして注いだ。
その瞬間だった。
粉塵が舞う岩陰の死角から、爆風を辛うじて生き延びていた最後の一匹――小型の毒蜘蛛が、音もなく愛海の背後へと滑り込んできた。
肉眼では捉えきれない超高速の跳躍。紫色の神経毒が滴る細い針が、愛海の無防備なうなじめがけて一直線に突き出される。
(――おっと)
危ないところだった。愛海の柔肌にそんな汚い針を触れさせるわけにはいかない。
俺は愛海に水筒のコップを手渡す自然な動作のついでに、足元に転がっていた親指大の小石を、革靴のつま先でチョンと軽く弾いた。
サッカーボールをパスする程度の、本当に何気ない力加減だ。
パンッ!
乾いた破裂音が足元で弾けた。
弾かれた小石は、空気の壁を突き破る音速の風圧を纏い、目にも留まらぬ弾道で空間を裂いた。
飛びかかってきた毒蜘蛛は、針が愛海の髪に触れるよりも遥か手前、空中でその不可視の風圧の直撃を受けた。
グシャッ、と潰れる音すら残らなかった。
小石が巻き起こした超高圧の気流に巻き込まれた蜘蛛は、分子レベルで押し潰されたようにペシャンコになり、そのまま背後の頑丈な岩壁へと叩きつけられ、黒い染みとなって完全に消滅した。
俺は靴の汚れを気にする風でもなく、両手でコップを愛海に手渡した。
「はい、冷たい麦茶だ。汗をかいたから、塩分タブレットも一粒食べておきなさい」
「わーい、麦茶! パパ、ありがとう!」
愛海は両手でコップを受け取り、ゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を飲み干した。ぷはーっと息を吐き、俺がポケットから取り出したレモン味の塩分タブレットを口に放り込んで、美味しそうに目を細める。
俺は娘の額に浮いた汗をハンカチで優しく拭いながら、しっかりと水分が補給されたことを確認して満足の息を漏らした。子供の体調管理は、何よりも初動が肝心だ。
だが、その平穏な親子の光景のすぐ横で、マーガレットが凍りついていた。
ピピッ、ピピピピピピ――ッ!
彼女が胸元で抱えていた最新型の解析器が、先ほど愛海が魔法を放った時とは比べ物にならないほど鋭く、けたたましい警報音を撒き散らしていたからだ。
「な……何ですか、この数値は……!?」
マーガレットの指先が激しく震え、解析器の画面を凝視する。
液晶パネルには、突如として発生した局所的な超重力波と、物理的質量の異常圧縮を示すグラフが、垂直に跳ね上がって表示されていた。
しかも、その発生源の座標は――やはり、愛海ではない。
先ほど抱いた最悪の疑念が、逃れようのない現実として裏付けられていた。
愛海が魔法を放ち終え、ただ麦茶を受け取ろうとしていたその瞬間、そのすぐ隣にいた男の足元から、観測限界を遙かに突破する謎の衝撃波が記録されていたのだ。
バチッ、と短い火花が散り、最新型の端末から細い煙が立ち上る。
基盤が負荷に耐えきれず、またしても液晶画面が真っ黒に焼き切れて沈黙した。
「おや……? 特使さん、その機械、壊れてしまったんですか? ダンジョンの湿気や潮風って精密機械には大敵ですからね。会社でも梅雨時はサーバーの除湿に気を遣うんですよ」
俺が気の毒そうに声をかけると、マーガレットは引きつった表情のまま、壊れた端末と俺の顔を何度も交互に見つめた。
「あ、あなた……今、何をしたのですか……?」
「え? 何って、娘に麦茶を飲ませていただけですが」
俺は不思議そうに首を傾げてみせる。
実際、親として当たり前の水分補給をさせただけだ。何か問題でもあっただろうか。
マーガレットは喉の奥を詰まらせたように言葉を失い、青ざめた顔で一歩後ずさった。愛海の規格外の魔力にも戦慄していたはずの彼女の瞳には、今やそれ以上の、得体の知れない底知れぬ混乱と疑念が色濃く渦巻いていた。
◆ーーーー◆
中層の奥を抜けた先、深層手前の連絡昇降路が広がる安全地帯へと足を踏み入れる。
古代の石造りエレベーターの周囲には防護結界が淡く光り、外敵の気配を完全に遮断していた。
「よし、愛海。ここで少し休憩にしよう」
「うん! パパ、ノート書くね!」
愛海は広場の平らな岩の上に腰掛けると、色鉛筆を取り出して自由研究ノートを広げた。
『きょうは中層にいきました。パパからもらった麦茶がすごくつめたくておいしかったです。大きなクモがたくさんいたけど、風でぜんぶ飛んでいきました。ノートは無事でした』
拙いけれど一生懸命に書かれた文字と、水筒を持った俺の似顔絵。俺は思わず口元を緩め、ポケットから取り出した赤いペンで、日記の隅っこに大きな花丸をつけてやった。
「よく書けたな、愛海」
「えへへ、花丸もらった!」
愛海が嬉しそうに笑う。
その光景を、少し離れた岩陰からレオンハルトが憎悪に満ちた目で見つめていた。
彼は先ほどの失態で完全にプライドを粉砕されたはずだったが、その瞳には恐怖を押し殺した異常な敵愾心がギラギラと宿っている。愛海に対する恐怖と、その横でのほほんとしている俺への苛立ちが、彼の中で歪んだ形で結びついているようだった。
レオンハルトは周囲の目を盗み、黄金の装甲の奥から黒い金属製の小さな筒を取り出していた。何やら怪しげな光を帯びた不穏な装置だが、ギルドの専門的な道具に疎い俺には、それが何なのかまでは見当もつかない。
(……あいつ、手元で何か妙なものを弄んでいるな)
俺は視界の端でその動きを捉えながら、左手首の時計に目を落とした。
文字盤の擦り切れた安物の腕時計。亡き妻が「いつもお仕事お疲れ様」と笑って贈ってくれた、俺のかけがえのない宝物だ。その秒針は、規則正しく十一時五十五分を刻んでいた。
「マーガレットさん」
俺は立ち上がり、未だに呆然とした様子で立ち尽くしていた特使へ、事務的なトーンで声をかけた。
「もうすぐ正午ですね。十二時ちょうどから一時間は、労働基準法に基づき昼休憩とさせていただきます。持参したお弁当を食べてから、午後の深層攻略に向けたタイムスケジュールを詰めましょう」
「は……? タイムスケジュール……?」
「ええ。愛海の査察試験を手早く終わらせて、遅くとも十五時までにはここを完全に撤退したいので。伊豆から家までは二時間強かかりますから、十七時三十分には家に帰り着いていたいんです。夕食の支度もありますし、愛海のお風呂の時間も決まっていますからね」
俺が極めて真面目に告げると、マーガレットは完全に思考を停止させたような顔で口をパクパクと動かした。
世界を揺るがすかもしれない査察の最中に、夕飯の支度や入浴時間を語る人間など、彼女のエリート官僚人生において一人として存在しなかったのだろう。
だが、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
昇降路の遥か底、深層の暗闇から、大気を激しく震わせる不吉な地鳴りが這い上がってきた。
足元の頑丈な石畳が小刻みに波打ち、広場の外壁に走る魔導結界が一斉に紫色のノイズを走らせる。
「な……何ですか、この震動は!? 深層の活性化指数が、異常な速度で跳ね上がっています……!」
マーガレットが悲鳴を上げ、昇降路の底を覗き込んだ。
その背後で、レオンハルトの口元には、狂気じみた薄ら笑いが浮かんでいた。彼の手の中で、黒い発信機が微かに明滅を繰り返している。
深淵の底から立ち上る風が、一気に冷たく、重く変化していく。
俺はそっと腕時計の竜頭に指を添え、わずかに目を細めた。
午後からの深層攻略。どうやら、予定通り十五時に撤退し、十七時三十分の帰宅目標を果たすためには、少々厄介な障害が立ち塞がることになりそうだった。




