第35話
未明の湿った海風が、立ち入り禁止区域のフェンスを濡らしていた。
伊豆半島沖に突如浮上した未踏の海洋ダンジョン『海神の牢獄』(暫定A級)。洋上に設営された前線基地の頑丈なゲート前には、張り詰めた殺気と過剰なまでの魔力が満ちていた。
「おいおい、冗談だろ。本気であんなナマクラを連れて潜る気か?」
吐き捨てるような嘲笑が、早朝の静寂を鋭く裂いた。
声の主は、黄金に輝く特注の魔導重装甲に身を包んだ大男だ。金髪をオールバックに撫でつけ、分厚い胸板を反らせている。国際ギルド連盟のエリート探索者、レオンハルト・スタイナーだった。
彼の視線の先には、普段着の小学生である愛海と――くたびれたスーツを着て、パンパンに膨らんだ黒いリュックサックを背負った俺が立っている。
「ただの荷物持ちの無能な父兄じゃないか。足手まといどころの騒ぎじゃないぞ。ここはA級だ。入った瞬間に酸の雨でスーツごと溶けて骨になるのがオチだぜ」
レオンハルトを取り囲む海外連盟の精鋭たちから、低く品のない失笑が漏れた。
だが、俺の意識はその言葉の半分も拾っていなかった。
「愛海、水筒のパッキン、ちゃんと締まってるな? よし。冷たい麦茶、ちゃんと氷も入ってるからね。喉が渇く前に一口ずつ飲むんだよ。それから、これ」
俺はポケットから青いパッケージを取り出し、愛海の小さな手のひらに置いた。
「塩分タブレットだ。レモン味。汗をかいたらすぐ舐めること。パパとの約束だぞ」
「うん! わかった、パパ!」
愛海はツインテールを揺らしながら、満面の笑みで頷いた。手には、自由研究用の大学ノートを大事そうに抱えている。表紙のタイトルは『パパのすごいお仕事かんさつにっき』に書き直され、その横には愛らしい文字で『ていじ退社チャレンジ』と書き足されていた。
「ちょ、ちょっと、レオンハルトさん! 結城さんは正当な保護者規定に基づいて同行されているんです! 侮辱的な発言は撤回してください!」
見かねた天童さんが、タブレット端末を胸に抱えたまま、怒りで肩を震わせて前に出た。ギルド職員としての立場を越えて抗議しようとする彼女の前に、すっと銀色の長い指先が差し出される。
「そこまでです、レオンハルト。そして日本の職員の方も」
冷徹な声が響いた。
濃紺のパンツスーツを隙なく着こなし、ブロンドの髪をタイトなシニヨンにまとめた女性――特使マーガレット・カーターが、銀縁眼鏡の奥から氷のような視線をこちらに向けていた。
「我々の目的は、愛海・ユウキの覚醒深度および危険度の査察です。同伴者が誰であれ、規程の検定手順に変更はありません。……定刻です。ゲートを開放しなさい」
マーガレットの事務的な宣告に、レオンハルトは鼻を鳴らし、重厚な大剣の柄に手をかけた。
「死んでも泣き言を言うなよ、スーツ野郎」
すれ違いざまに投げつけられた言葉にも、俺は「ええ、定時には戻りたいので急ぎましょう」と軽く頭を下げただけだった。相手は拍子抜けしたように舌打ちをし、ゲートの奥へと踏み込んでいく。
「結城さん、本当に平気ですか……? あの人たち、最初から愛海ちゃんを危険分子として連行する口実を探しています」
心配そうに囁く天童さんに、俺は穏やかに微笑みかけた。
「ご配慮ありがとうございます、天童さん。でも、うちの有給申請は今日一日分しか取っていませんから。伊豆から家までは二時間強かかりますし、夕飯の下味をつけるため十七時三十分には家に着いていたいんです。寄り道せず、十五時までにはしっかり終わらせますよ」
「いや、そういう問題では……」
呆然とする天童さんを残し、俺は愛海の手を引いて、薄暗いダンジョンの入り口へと足を踏み入れた。
ダンジョンの内部へ足を踏み入れた瞬間、ねっとりとした濃密な湿気が肌にまとわりついてきた。
足元は海水と混ざり合って泥濘と化した黒い土壌が広がり、海蝕洞のような岩壁面からは黄色い強酸性の粘液が滴り落ちている。頭上を仰げば、蛍光色に発光する巨大な毒羽虫の群れが、羽音を不気味に響かせながら渦を巻いていた。
「散開! 第一種魔導障壁を展開せよ!」
先頭を行くレオンハルトの鋭い号令とともに、連盟の精鋭たちが一斉に魔力を励起させた。幾重もの光の盾が展開され、降り注ぐ酸性の飛沫と毒虫の針を弾き飛ばしていく。金属が焼ける嫌な異臭と、パチパチと障壁が軋む耳障りな音が洞窟内に反響した。
「ちっ、思ったより酸の濃度が高いな! おい、後方の小娘と荷物持ち! 俺たちの障壁の影から一歩でも出たら――」
レオンハルトが怒鳴りながら振り返ったところで、その声がピタリと止まった。
俺はリュックのサイドポケットから、一本の折りたたみ日傘を取り出していた。
駅前の雑貨屋で買った、何の変哲もない千円前後の晴雨兼用傘だ。遮光率九十九パーセントを謳う黒い布地を、手首のスナップを利かせてパッと広げる。
「足元がぬかるんでいますから、ノートを落とさないよう気をつけてくださいね」
俺は愛海の頭上に傘を差しかけ、優しく声をかけた。
「はーい! パパ、ここ、変な虫がいっぱい飛んでるよ!」
「そうだね。夏休みの観察にはちょうどいいかもしれないけど、刺されたら痒いからね。少しあっちへ行ってもらおうか」
俺は傘の柄を持ち直し、愛海に滴がかからないよう、角度をほんの数ミリだけ微調整した。
その瞬間――。
傘の骨組みを伝い、極めて均一に分散された力が、大気中の湿気と魔力の波長をわずかに弾いた。
それは会社で何万枚もの書類を寸分の狂いもなく裁断機にかける時のような、無駄のない圧力の整頓に過ぎない。
だが、傘の縁から放たれた目に見えない空気の波は、頭上に群がっていた数百匹の毒羽虫を綺麗に押し流した。虫たちは悲鳴のような羽音をピタリと止め、まるで巨大な天敵の縄張りに迷い込んだかのように、蜘蛛の子を散らす勢いで天井の亀裂へと逃げ惑い、一瞬で姿を消した。
降り注いでいた酸性の霧すらも、日傘の天頂から滑らかに左右へ受け流され、俺と愛海の周囲数メートルだけが、からりと晴れた休日の公園のような快適な空間へと変貌する。
「……なっ!?」
重厚な魔導障壁を維持するために歯を食いしばっていた連盟の探索者たちが、目を見開いて固まった。
「おい……虫の群れが、一瞬で消えたぞ……?」
「障壁の気配も魔力の発動光もなかったぞ。何が起きたんだ!?」
ざわめく精鋭たちの中、レオンハルトだけが顔を真っ赤にして日傘を指差した。
「き、貴様! ふざけたオモチャを広げおって! ダンジョンを遠足と勘違いしているのか!」
「オモチャとは心外ですね。撥水加工とUVカットがしっかり効いた良品ですよ。愛海の観察ノートが湿気でふやけてしまったら大変ですから」
俺が淡々と応じると、レオンハルトは喉を詰まらせたように口をパクパクと開閉させた。
後ろを歩くマーガレットだけが、一切の言葉を発することなく、手元の端末へ鋭い視線を落としていた。
湿地帯を抜け、一行は中層へと続く巨大な断崖エリアへと到達した。
足元は底の見えない暗黒の亀裂が裂け、わずか数十センチの頼りない岩の連絡通路が対岸へと延びている。下層からはゴーゴーと不気味な地鳴りと波音が吹き上がり、並の探索者であれば立っているだけで足がすくむような難所だ。
「ここから先は危険度が跳ね上がる。足元に注意し、前衛の指示に従え」
レオンハルトが威圧的に告げた、次の瞬間だった。
――ピピッ、ピピピピピ!
けたたましい電子警報音が、湿った洞窟の空気を切り裂いた。
音の発生源は、マーガレットが首から提げている最新型の魔力解析器だった。手のひらサイズの端末の液晶が、目まぐるしく赤と黄色に点滅を繰り返している。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
連盟の探索者たちが一斉に武器を構え、周囲の暗闇を警戒する。
だが、マーガレットは周囲を見ようともせず、ただ手元の画面を凝視していた。銀縁眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど激しく揺れている。
「……あり得ません。空間重力波の検知ログが、測定上限を振り切っています……」
彼女の細い指が、震えながら操作パネルを叩く。
昨晩、前線基地で受けた報告――減衰波の発生源が父親の足元だったという解析結果が、彼女の脳裏をよぎっていた。
「まさか、あの時の報告は……本当に……!?」
マーガレットの視線が、即座に親子へと向けられた。
深層災害級の素質を持つとされる少女が無意識に魔力を漏洩させているのか、それとも――疑念を確かめるべく凝視した彼女の目に映ったのは、まったく別の光景だった。
「パパがさしてくれたカサはすずしい、と……あ、パパ、ここ『涼しい』って漢字でどう書くんだっけ?」
愛海は断崖絶壁の縁にいながら、恐怖のかけらも見せず、日傘の陰で嬉しそうに大学ノートに鉛筆を走らせていた。その小さな身体から放出されている魔力は、完全に平穏そのもの。波立つ気配すら微塵もない。
「さんずいに、京だよ。よく書けてるね、愛海」
「さんずいに、きょう……書けた!」
無邪気な親子の会話が、断崖に響く。
◆ーーーー◆
マーガレットの背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。
昨晩、部下から上がってきた不可解な報告――減衰波の発生源は少女ではなく、あの父親の足元だったという観測結果。半信半疑のまま隔離対象への追加を指示したものの、計器の異常であってほしいと願っていた疑念が、いま最悪の確信へと変わろうとしていた。
解析器が捉えている異常な重力波の震源――画面の中央にプロットされた赤い光点は、愛海の座標ではなく、明確にその隣を指し示していた。
点滅する赤いマーカーが指し示す位置。
そこにいるのは――。
「ふう。断崖の吹き上げ風は少し冷えますね。愛海、汗が引いて風邪を引かないように、首にこれ巻いておきなさい」
リュックから取り出した冷感タオルを丁寧に娘の首元へ巻き、ふと左手首の時計へ目を落とす男。
型落ちの、文字盤が少し擦り切れた安物の腕時計。その秒針が、わずかに熱を帯びて微小に震えているのを、男は気にも留めていない様子だった。
「お昼休みまで、あと一時間ですね。このペースなら、十二時ちょうどに広場で持参のお弁当が食べられそうだ」
男――結城誠は、水筒のフタをコップ代わりにし、麦茶を喉へと流し込んでいた。
最新型解析器の液晶画面は、狂ったような明滅を止めない。
愛海の魔力反応など比較にすらならない、巨大で底知れない質量の波形が、その冴えない父親の足元から、不気味なほど静かに、どこまでも深く地中へと浸透していた。
マーガレットは息を呑み、乾いた唇をわずかに震わせた。
暗黒の深淵を見つめているはずの彼女の視線は、もはや目の前の崖ではなく、その隣で穏やかに麦茶を啜る会社員の横顔に、縫い付けられたように固定されていた。




