第34話
昼食のオムライスを食べ終えた後、明日の実技査察に伴う保護者同伴誓約書と手続きの控えを受け取るため、俺たちは一度ダンジョン庁の窓口へと戻っていた。
すべての手続きを終えてダンジョン庁の正面玄関を出ると、生ぬるい夕風が舗装されたロータリーを吹き抜けていく。傾いた西日の眩しさに目を細めながら、愛海と繋いだ手を少しだけ引き寄せる。
「パパ、お昼のオムライス美味しかったね!」
「ああ。卵がふわふわで良かったな」
「うん! あ、でもね、パパが作ってくれるオムライスのほうが、ケチャップいっぱいだから好き!」
満面の笑みを浮かべる愛海の手を握り返したところで、ロータリーの向こうから激しい足音が響いてきた。革靴の底を地面に叩きつけるような荒い足取りだ。
「――師匠っ!」
大型ワゴン車の影から飛び出してきたのは、息を乱した獅子王くんだった。額に汗を滲ませ、金髪を振り乱している。普段の派手で自信に満ちたエース探索者の面影はなく、その眉根は痛ましいほどに寄せられていた。
「獅子王くん? そんなに慌ててどうしたんだい」
「どうしたじゃないっすよ! 話を聞いてすぐに連盟の支部に乗り込んで、抗議してきたんです! あんなふざけた査察、愛海ちゃんを行かせるわけにはいかねえって!」
獅子王くんは荒い息のまま、両拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほど強く握られているのが見える。
「……だが、門前払いでした。海外の連中め、本部の意向だの国際協定の特例条項だの並べ立てやがって……俺たちの言葉なんて、端から聞く耳持っちゃいねえ。政治の壁ってやつに、完全に跳ね返されたんすよ……!」
唇を噛み締め、悔しさを絞り出すように吐き捨てる。彼の悔しさは本物だった。自分自身の無力さを呪うように、視線を足元に落としている。
「師匠と愛海ちゃんを守る力すら、今の俺にはない……。でも、それならせめて!」
獅子王くんは顔を上げ、すがるような目で俺を見据えた。
「明日の未踏A級ダンジョン、俺を前衛として連れてってください! 連盟の息がかかった連中が何を仕掛けてくるか分からねえ。未踏領域の魔獣は、これまでのスタンピードの雑魚とは次元が違う。命を盾にしてでも、俺が先頭に立って愛海ちゃんへの攻撃を弾きますから!」
熱のこもった必死の懇願だった。年下の若者がここまで純粋に俺たちの身を案じてくれていることには、素直に胸が温かくなる。だが――。
「気持ちはとても嬉しいよ、獅子王くん」
俺はできる限り穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。
「でも、気持ちだけで十分だ。今回はあくまで、親としての『同伴規定』を使った単独引率だからね。他の探索者が介入すると、連盟側に余計な手続きの口実を与えてしまう」
「ですが、未踏のA級ですよ!? どんな危険な罠や凶悪な生態系が潜んでいるか――」
「それにね」
俺は愛海の頭にそっと手を置きながら、胸ポケットのメモ帳に視線を落とした。
「明日は十八時までに帰宅して、鶏肉の唐揚げを揚げる予定なんだ。下味をつける時間を含めると、十七時三十分には家に着いていたい。パーティ人数が増えると、ダンジョン内での動線確認や安全マージンの調整に余計な時間がかかって、定時帰宅に支障が出てしまうからね」
獅子王くんは目を見張り、ぽかんと口を開けた。
「……は? か、からあげ……? 定時……?」
「ええ。だから、気持ちだけ受け取っておくよ。心配してくれてありがとう」
「凱お兄ちゃん、パパのからあげ、すっごく美味しいんだよ!」
愛海が無邪気に追い打ちをかけると、獅子王くんは額を押さえ、深いため息をつきながら天を仰いだ。
「……師匠。あんたって人は、本当に……規格が狂いすぎてて頭痛くなってくるっすよ……」
呆れと底知れぬ畏怖が混ざり合った表情で、獅子王くんは肩を落とした。だが、その瞳から切迫した張り詰めた空気は少しだけ薄れていた。
◆ーーーー◆
帰宅後、夕食を終えて一息ついた結城家のリビング。
ダイニングテーブルの上に、愛海が誇らしげな手つきで一冊の大学ノートを広げた。白鳥先生に提出する夏休みの自由研究用ノートだ。
「パパ! 自由研究のノート、表紙のタイトル書き直したよ!」
緑茶の入った湯呑みを運んできた俺は、愛海の隣の椅子に腰を下ろした。
「ん? 昼間に言っていた『パパとおでかけするダンジョン』から、何か変えるのかい?」
「うん! もっとかっこよくしたの! これ!」
愛海がクレヨンを握りしめ、ノートの表紙へ大きく書き殴った太い文字を指差した。
そこには、丸っこい元気な文字で堂々とこう記されていた。
『パパのすごいお仕事かんさつにっき』
「ぶふっ――!?」
危うく口に含みかけたお茶を吹き出しそうになり、慌てて喉を鳴らして飲み干した。喉が熱い。
「パ、パパの仕事……?」
「うん! だってパパ、明日のダンジョンも一緒に行ってくれるんでしょ? パパがお仕事の力でかっこよくやっつけるところ、ぜんぶノートに書いて学校の先生に見せるの!」
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
まずい。これは極めてまずい。
会社員としての書類整理や電話応対ならいくら見せても問題ないが、愛海が言っているのは明らかに『そっち』ではない。万が一にも、俺が無意識にやってしまう事務処理的な解体作業や、物理的な害虫駆除の現場を小学校の提出物に克明に記録されたらどうなるか。
新学期の保護者会で担任の白鳥先生に呼び出されるどころか、教育委員会やダンジョン庁の査察官が自宅に押し寄せてくる未来が容易に想像できる。
「あ、愛海……? パパの仕事は、その、パソコンをカタカタ叩いたり、書類をファイリングしたりする地味な作業だからね? 自由研究としては、あまり見栄えがしないというか……」
「ううん! パパは有給の力でたたかうって言ってたもん! すごいんだよ!」
「それは言葉のあやというか、ただの労働基準法に基づいた権利行使であってだな……」
必死に冷や汗を拭いながら、俺はノートの隅を指先でトントンと叩いた。
「ほら、ダンジョンに行くなら『ダンジョンの生態系と安全管理』とかはどうかな? 危険な植物の生え方とか、迷宮内の気温の変化を記録するほうが、自由研究として先生も花丸をくれると思うんだ」
愛海は少しの間、クレヨンを唇に当てて首を傾げていたが、やがてパッと表情を輝かせた。
「わかった! 『パパが定時で片付けるところ』を観察して、ついでに植物も調べる!」
「……定時で片付けるところ」
「うんっ! パパがしゃきしゃきーってお仕事終わらせて、お家に帰るまでの時間を測るの!」
表紙のタイトルの横に、愛海は嬉々として『ていじ退社チャレンジ』と書き足してしまった。小学生の自由研究としてはあまりにも異色すぎるが、これ以上の修正は愛海の純粋なやる気を削いでしまいそうだ。
……明日は、絶対に愛海の前で派手な真似はできない。ただの引率保護者として、極めて自然に、波風を立てずにトラブルを処理しなければならない。
難易度が跳ね上がった現実に、俺は密かに胃を押さえた。
◆ーーーー◆
夜も更け、愛海が寝息を立て始めた頃。俺は自室の書斎で、明日の準備を進めていた。
作業机の上には、大きめのリュックサックが広げられている。中身を一つずつ指差し確認しながら詰めていく。
「保冷機能付きの水筒が二本、中身は麦茶。塩分補給タブレット。冷却シートに、携帯用扇風機。着替えのタオルと、念のための虫除けスプレー……よし」
危険度A級未踏ダンジョンへの突入装備としては、あまりにも場違いな生活感あふれる品々だ。だが、夏場のダンジョン探索において最も警戒すべきは熱中症と脱水症状である。子どもの体調管理を怠る親など失格だ。
リュックのサイドポケットに虫除けスプレーを差し込んだ時、ふと机の端に置かれた金属片が目に留まった。
革ベルトがすっかり馴染んだ、何の変哲もない古い腕時計。
妻が残してくれた、大切な形見だ。
手に取ると、文字盤の裏側がかすかに、鈍い熱を帯びているように感じられた。チク、タク、と刻まれる秒針のリズムが、ほんの一瞬だけ、微小に引っかかるような不規則な揺らぎを見せる。
「……昼間の、連盟の測定器のせいか?」
ダンジョン庁の中庭で、愛海が測定盤に手を置いた瞬間に暴走した巨大な解析器。あの時、周囲に撒き散らされた高密度の魔力波が、この時計の内部に微かな干渉を残したのかもしれない。
指先でそっとガラス面を撫でる。熱はすぐに引き、秒針は再び平穏なリズムで時を刻み始めた。
「大丈夫だ」
俺は時計を手首に巻き、しっかりとバックルを留めた。
相手が海外の連盟だろうと、未踏の迷宮だろうと関係ない。愛海が安心して自由研究のノートを広げられる環境を作り、夕飯の唐揚げを時間通りに揚げる。父親としての業務を、完璧にやり遂げるだけだ。
◆ーーーー◆
同時刻。都心の夜景を見下ろす最高級ホテルの一室。
照明を極限まで落とした薄暗い執務室で、マーガレット・カーターは冷徹な眼差しで大型モニターを睨みつけていた。
画面に表示されているのは、明朝突入を予定している伊豆半島沖の海洋ダンジョン、識別名『海神の牢獄』(暫定A級)の構造予測図と、投入される海外連盟所属の精鋭探索者部隊のデータだ。波濤渦巻く海上に位置する危険極まりない未踏迷宮であり、招集された部隊はいずれも本国から呼び寄せた手練ればかりである。
「……特使。ダンジョン庁での測定ログの再解析が完了しました」
背後に控えるスーツ姿の部下が、恭しくタブレット端末を差し出した。
マーガレットは銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、スクロールされる数値を無言で追う。
「愛海・ユウキの出力過多による解析器の損壊。これは疑いようのない事実です。ですが……」
部下は言い淀み、額に薄い汗を浮かべた。
「機材が限界を迎える直前、不自然な『減衰波』が観測されています。周囲の魔力濃度が一瞬だけ、完全に平坦化されているのです。まるで、噴き出すエネルギーを外側から無理やり丸め込んで圧縮したかのような――」
マーガレットの細い眉が、わずかに動いた。
「発生源の座標は?」
「それが……解析盤の正面ではなく、数歩離れた位置。……愛海・ユウキの保護者として同伴していた、結城誠の立っていた地点です」
部屋の中に、張り詰めた沈黙が落ちた。
マーガレットの脳裏に、昼間のエントランスで対峙したあの男の姿が蘇る。くたびれたスーツを着て、薄い笑みを浮かべながら『定時で攻略を完了させます』と平然と言い放った、冴えない中年サラリーマン。
「……危険なのは、あの娘だけではないのかもしれませんね」
冷ややかな声が、静寂を切り裂いた。
「あの父親がただの無力な一般人か、それとも娘の異常な力を隠蔽するための何かか……明日の未踏領域で、すべてが白日の下に晒されます。精鋭部隊には伝達しておきなさい。状況次第では、父親も含めて『隔離対象』として拘束する手筈を整えるように」
「了解いたしました」
部下が深く一礼して退室していく。
一人残されたマーガレットは、手元の端末に映る結城誠の顔写真を冷たく見下ろした。
夜が明ければ、すべてが始まる。
未踏の深淵で口を開ける罠が、親子の平穏を呑み込もうと静かに待ち構えていた。




