第33話
低く唸る駆動音が、中庭の敷石を細かく震わせていた。
マーガレットの手によって起動スイッチが押され、紫色の光を灯し始めた角柱――連盟指定の超高密度魔力解析器が、中央の測定盤に紫がかった光彩を渦巻かせながら静かに唸りを上げている。外装の継ぎ目には高圧電流を遮断するための絶縁ゴムが何重にも巻かれ、極限状態の覚醒者を暴くために用意された国家機密指定の最新鋭機としての威圧感を放っていた。
「……結城さん、本当に大丈夫でしょうか」
隣で立ち会っている佐藤真由美さんが、胃薬の包みを握りしめたまま青ざめた顔で囁いてきた。制服の襟元を気にする指先が、小刻みに震えている。
「あんな物々しい機械、国内の基準測定ですら使われません。万が一、魔力の逆流でも起きたら……」
「大丈夫ですよ、佐藤さん。ただの健康診断みたいなものですから」
俺は肩から下げた水筒の蓋を回し、コップに冷たい麦茶を注いだ。氷がカランと涼やかな音を立てる。愛海に手渡すと、娘は両手で受け取って美味しそうに飲み干した。口元についた水滴をハンカチで拭ってやる。
「愛海、痛かったり苦しかったりしたら、すぐパパに言うんだぞ」
「うん! 痛くないならやってみる! これ終わったら、約束の文房具買いに行くんだよね? お昼はオムライスがいいな!」
「ああ、文房具を買いに行く約束だったな。昼飯はオムライスにしよう」
天真爛漫な返答に、俺は少しだけ口元を緩めた。この猛暑の中、無駄な手続きで娘の夏休み二日目を潰されるのは業腹だが、ここで騒いでも時間を浪費するだけだ。さっさと規定の数値を記録させて、午後の予定に移らなければならない。
マーガレット・カーターが、氷のように整った冷徹な眼差しをこちらに向けた。
「随分と余裕ですね、結城誠氏。覚悟を決めていただきましょう」
銀縁眼鏡の奥で、怜悧な青い瞳が眇められた。彼女は手元の端末を操作し、低く通告する。
「被検体、結城愛海。両手を盤面へ」
「はーい」
愛海が靴音を響かせて測定盤へ歩み寄り、ガラス面の上に小さな両手をぺたりと添えた。
直後、測定器の奥で異音が弾けた。
キィィィィン、と鼓膜を劈くような高周波が中庭一帯に突き抜ける。黒い角柱に刻まれた魔力ゲージの光筋が、底から天井へ向けて信じられない速度で跳ね上がった。緑から黄色、赤、そして警告色の毒々しい紫色へと、目盛りなど無視した暴力的な上昇カーブを描く。
「……なっ!?」
連盟の技術兵が端末を凝視したまま悲鳴のような声を上げた。キーボードを叩く手が激しく乱れる。
「異常流入! ランクSの上限値を突破……いえ、計測限界レートを三〇〇パーセント超過しています! 制御コンデンサ、臨界点に到達!」
「馬鹿な……出力を絞りなさい! リミッターを作動させろ!」
マーガレットが声を荒らげたが、すでに手遅れだった。
排熱ファンが悲鳴のような摩擦音を吐き出し、黒い筐体の隙間から白い冷却ガスが一気に噴き出す。バリバリと激しい紫電が空中にスパークし、液晶画面に映し出されていたグラフが粉々に破綻した。
『ERROR:OVER-SCALE』
赤く点滅する巨大な警告文字が画面を覆い尽くし、直後、ボッという鈍い破裂音とともにすべてのランプがプツリと消灯した。中庭に、立ち込める焦げ臭い煙と重苦しい静寂だけが残される。
「……えっ、もう終わり? ちょっと温かかっただけだけど……壊れちゃった?」
愛海が不思議そうに首を傾げ、黒焦げの匂いが漂う盤面から手を引っ込めた。屈託のない笑顔で俺を振り返る。
俺の手首で、カチリと硬質な音が鳴った。亡き妻の形見である安物の腕時計――その秒針が、機械の過負荷によって大気中に溢れた余剰魔力を吸い取るかのように、不規則に三度ほど跳ねて、また少し時間の遅れる、いつものリズムを取り戻した。
「ひっ……ひぃぃ……!」
佐藤さんが両手で頭を抱え、完全に腰を抜かしてその場に座り込んでいる。
一方のマーガレットは、完璧だったエリート官僚の仮面を剥ぎ取られたように、真っ青な顔で立ち尽くしていた。彼女の指先が、持っていた銀色の端末を取り落としそうになるほど激しく震えている。
「あり得ない……。深層災害級の魔獣ですら計測可能な連盟の最新鋭機が……たった一人の子供の魔力に当てられて、計器ごと焼き切れた……?」
震える声で呟き、マーガレットは恐るべき化け物でも見るかのような目で愛海を凝視した。
だが、彼女はただの役人ではなかった。深く息を吸い込み、銀縁眼鏡を指先で押し上げると、無理やりに冷徹な表情を繕い直す。
「……機材の初期不良、あるいは極めて特異な周波数の干渉です。ええ、そうです。机上の測定器が示したエラーなど、何の証明にもなりません」
「マーガレット特使! 誰が見ても愛海ちゃんの力が測定限界を超えていたではありませんか!」
立ち上がった佐藤さんが、必死に声を張り上げた。
「これ以上の検査は危険です! 機材すら耐えられないのに、これ以上何を――」
「黙りなさい、ダンジョン庁の平職員」
マーガレットは冷酷な一瞥で佐藤さんを射すくめ、胸ポケットから朱色の印章が押された公文書を取り出した。その冷ややかな視線が、俺と愛海に突き刺さる。
「数値が測れないのであれば、実戦でその制御能力を検定するまで。連盟の規定に基づき、ジュネーブ本部の専権事項を発動します。結城愛海。貴女の実戦適性査察として、指定ダンジョンの攻略試験を命じます」
「実戦……試験?」
俺が静かに問い返すと、マーガレットは薄い唇を吊り上げた。
「指定先は、伊豆半島沖に突如浮上した未踏の海洋ダンジョン――識別名『海神の牢獄』。危険度は暫定A級。過去、二つの調査隊が足を踏み入れ、何一つ情報を持ち帰れず全滅した領域です」
「なっ……!?」
佐藤さんが息を呑み、絶句した。顔から完全に血の気が引いている。
「未踏のA級ダンジョンだなんて、冗談じゃありません! 国内のトップ探索者部隊ですら突入を見合わせている危険地帯ですよ!? 小学生の女の子に受けさせる検定の範疇を遥かに逸脱しています!」
「拒否は認められません」
マーガレットは一切の情を交えずに言い放った。
「連盟の公式査察を拒絶する場合、その瞬間に結城愛海は『即時拘束すべき危険指定覚醒者』に格上げされます。その場合、ジュネーブから特殊制圧部隊が送り込まれることになる。……父親である貴方にとっても、それは不本意なはずですが?」
脅迫だった。断れば武力で連行し、従えば死地に飛び込ませる。選ぶ余地など最初から用意されていない。
愛海が不安そうに俺のスーツの裾をぎゅっと掴んできた。俺は愛海の小さな手を包み込み、ゆっくりと頷いてやった。
中庭での押し問答を終え、俺たちはダンジョン庁の正面エントランスへと戻ってきた。
吹き抜けの広いフロアに、小走りのヒール音が響いてくる。青いジャケットを身にまとった女性が、額に汗を滲ませながら駆け寄ってきた。トップギルドの渉外担当、天童美咲さんだ。
「結城さん! 佐藤さんから連絡を受けました……! 連盟の無茶な要求、本当なんですか!?」
「天童さん。お忙しいのにすみません」
「謝ってる場合じゃありませんよ! よりによって『海神の牢獄』だなんて……あそこは内部構造の規則性すら解明されていない、文字通りのブラックボックスです! 連盟の思惑は明白です。愛海ちゃんに手加減のできない極限状態を強いて、暴走の口実を作る気なんです!」
天童さんはタブレットを抱え込み、怒りと焦燥で早口になっていた。常識人である彼女の懸念はもっともだった。
しかし、俺はスーツの内ポケットからスケジュール手帳を取り出し、冷静にページをめくった。
「結城さん……? 聞いてますか?」
「ええ、聞いていますよ。伊豆なら、新幹線と特急を乗り継げば片道二時間強といったところですね」
「は……? 新幹線……?」
天童さんが呆気にとられたように瞬きをする。
俺は手帳に挟んであった愛海の夏休み計画表を広げた。手書きのマス目には、色鉛筆で綺麗に予定が書き込まれている。午前中は夏休みのドリル、午後はプールと自由研究。そして夕方には夕食の買い出し。
「愛海は規則正しい生活習慣を身につける大事な時期なんです。夏休み早々、夜更かしをさせるわけにはいきません」
「あ、パパ! 見て見て!」
愛海がリュックサックから『かんさつノート』を取り出し、誇らしげに広げて見せてきた。そこには、中庭で煙を吹いた黒い機械と、スーツ姿の俺の絵がさっそく描き足されていた。クレヨンで大きく『パパとおでかけするダンジョン』と見出しが躍っている。
「かんさつノート、パパのお仕事とダンジョンのことも、もっといっぱい観察して書くの!」
「そうか、しっかり書けてるな」
俺は娘の頭を優しく撫でた。
敵が国際機関だろうと、指定された場所が未踏のA級ダンジョンだろうと、俺のやるべき業務は何一つ変わらない。保護者として同行し、娘の安全を確保し、予定通りに帰宅させる。それだけだ。
エントランスの出口へ向かうマーガレットに追いつき、俺は手渡されていた指令書の受領欄に、胸ポケットから抜いた油性ボールペンで淀みなくサインを書き込んだ。完璧な楷書で綴られた署名用紙を、彼女の胸元へと突き返す。
「受領いたしました」
マーガレットが訝しげに眉をひそめる。動じる気配すら見せない俺の態度が、計算外で不気味に映ったのだろう。
「……状況が理解できているのですか? 生存率が極めて低い未踏領域ですよ。父親の貴方が同行したところで、命の保証はありません」
俺は薄く微笑み、手首の時計で現在時刻を確認した。
「娘の夏休みの生活リズムに影響が出ないよう、定時で攻略を完了させます」
事務的にそう告げると、マーガレットは息を詰まらせ、言葉を失った。
「行こうか、愛海。お昼のオムライスを食べに行こう」
「うんっ、パパ!」
俺は愛海の手をしっかりと握り直し、夏の強い日差しが差し込むエントランスの自動ドアをくぐった。




