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第32話

翌朝のダンジョン庁本部は、いつもとは明らかに異なる異様な静けさに包まれていた。


正面玄関を抜け、セキュリティゲートを通過する。すれ違う職員たちの顔色は判で押したように青白く、行き交う足音だけがやけに硬く響いていた。非常時特有の張り詰めた空気感が、無機質な廊下に澱のように沈殿している。


「パパ、今日のお部屋、いつもと違うところなの?」


俺の手を握る愛海が、きょろきょろと周囲を見回しながら尋ねてきた。肩には真新しい黄色い通学用リュックを背負い、手には夏休みの友と観察用のスケッチブックを大事そうに抱えている。一昨日に終業式を終えたばかりの娘にとって、ここはまだ夏休みの冒険の入り口に過ぎないのだ。


「ああ。今日は大事なお客さんが来ているらしいからね。静かにご挨拶しよう」


「うん! わたし、ちゃんとできるよ」


健気に頷く娘の頭を軽く撫でる。その小さな体へ向けられる無遠慮な視線を遮るように、俺は歩幅を調整した。


案内された地下三階の特別応接室の前には、すでに佐藤真由美さんが待機していた。いつも整っている制服の襟元が心なしか乱れており、手元では小さな胃薬の瓶がカチカチと乾いた音を立てている。


「ゆ、結城さん……! 本当にお越しくださったんですね」


「おはようございます、佐藤さん。急な呼び出しでしたから、朝一番で課長に有給の振替申請をねじ込んできました。業務の引き継ぎメモも完璧にデスクへ置いてありますので、夕方までは完全にフリーです」


「そ、そういう心配ではなくてですね……!」


佐藤さんは悲鳴に近い掠れ声を漏らし、応接室の重厚な防音扉を恨めしそうに振り返った。


「先ほど到着されたんです。連盟査察査定部の極東管轄特使が。……信じられないくらい頑なな方で、こちらの挨拶すら途中で遮られてしまって」


「なるほど。時間効率を最優先するタイプの上流階層ですね。うちの会社の本部長と似た匂いがします」


「呑気なことを言っている場合じゃありませんってば! 相手は国際ギルド連盟の正規査察官ですよ? 各国の法規すら平然と超法規的措置で踏み躙ってくる連中なんです」


半泣きになりながら扉の取っ手に手をかける佐藤さんを、俺は穏やかな笑みで宥めた。理不尽な組織構造と向き合うことにかけては、民間企業の平社員も負けてはいない。


防音扉が音もなく開かれた。


室内の空気は、廊下よりもさらに一段階低く冷却されていた。冷房の設定温度というより、部屋の中央に座る人物が放つ精神的な威圧感が、物理的な寒気となって空間を支配している。


銀縁の眼鏡の奥から、冷徹な青い瞳がこちらを射抜いた。


プラチナブロンドの髪を隙のないシニヨンにまとめ、身体の線に完璧に仕立てられた濃紺のパンツスーツを纏った女性。国際ギルド連盟特使、マーガレット・カーター。彼女の背後には、黒い防弾仕様のスーツを着込んだ大柄な護衛が二名、彫像のように直立している。


マーガレットは立ち上がりもせず、手元に置かれた銀色の専用端末から視線を上げないまま、事務的に口を開いた。


「五分遅れです、ダンジョン庁窓口担当官。極東支部の時間感覚には毎度辟易させられます」


「も、申し訳ありません! こちらが対象者の結城愛海さんと、保護者の結城誠さんです」


佐藤さんが縮こまりながら頭を下げた。マーガレットはようやく端末を操作する指を止め、品定めするように俺たちへ視線を移した。


その視線は、愛海の手元、そして俺のくたびれたスーツへと向けられ、微かな失望の色を含んで細められる。


「挨拶は不要です。時間が惜しい。単刀直入に本題へ入りましょう」


マーガレットは手元の端末を軽く叩いた。テーブルの中央に薄青いホログラムスクリーンが展開され、先日の温泉街周辺の地形図と、赤く脈打つ膨大な魔力痕跡の衛星観測データが浮き上がる。


「先月、箱根山系一帯で観測されたダンジョン異常反応。公称ではトップランカーたちの共同作戦による鎮圧とされていますが、連盟の軍事衛星が捉えた熱源データは異なる真実を示しています。広域殲滅結界、および空間歪曲を伴う単一魔力源の爆発的解放。その起点は、極東の小学生――結城愛海、あなたの座標と完全に一致しました」


淀みのない英語混じりの日本語。感情を一切交えない、機械的な事実の列挙だった。


「……あの、お姉さん、だあれ?」


愛海が俺の後ろからそっと顔を出し、不思議そうに尋ねる。マーガレットは愛海に視線を合わせることなく、冷淡に宣告した。


「国際ギルド連盟特例規約第四条に基づき、結城愛海を『危険指定覚醒者』に認定します。貴女の保有する魔力量は、単独で一国家の防衛網を灰燼に帰せしめる戦略兵器に等しい。よって本日付で日本の管轄を離れ、スイス・ジュネーブに設置された連盟直属の深層管理施設へ即時移送となります」


「じ、ジュネーブ……!? そんなの聞いていません!」


佐藤さんが机にすがりつくようにして叫んだ。


「愛海ちゃんはまだ義務教育下の児童ですよ! 国内のダンジョン管理法においても、未成年の国外移送には家庭裁判所と関係省庁の許可が必須です! 勝手な連行など国際法上も許されるはずが――」


「ダンジョン庁の一職員が、世界秩序の合意形成に口を挟まないでいただきたい」


マーガレットは冷え切った声で佐藤さんの言葉を切り捨てた。


「災害規模の個体を野放しにすることは、人類全体に対する背信行為です。拒否権はありません」


机の上に置かれた専用端末が、淡い光を放ちながら移送承認書のホログラムを投影する。そこにはすでにジュネーブ本部の電子署名が刻印されていた。


「これは査定ではありません。国際連盟による絶対命令です」


有無を言わさぬ宣告だった。冷たい絶対的な権威の壁が、逃げ場を塞ぐように立ちはだかる。


愛海が不安そうに俺の袖をきゅっと握りしめた。見上げられた瞳に、微かな怯えが揺れている。パパが怒られるんじゃないか、自分が何か悪いことをしたんじゃないかという、幼い心特有の恐れ。


俺は息を深く吸い込み、娘の小さな手を優しく包み込んだ。そして、もう片方の手で通勤鞄のファスナーを静かに引き開ける。


「特使の方。少々、認識のすり合わせをさせていただいてもよろしいでしょうか」


俺は鞄の中から、透明なクリアファイルに整然と綴じられた書類の束を取り出した。


マーガレットは不快そうに眉を寄せ、値踏みするような視線を投げかけてくる。


「……一般市民の陳情を聞く時間は設けていません」


「陳情ではありません。純然たる法的手続きと、権利の行使についての確認です」


俺は卓上へ、一枚の書類を滑らせた。完璧な角度でマーガレットの正面にピタリと止める。


「ご提示いただいた国際連盟特例規約ですが、日本政府が批准している条約の付属書第七項に基づき、未成年者を対象とする保全措置には『所在国の基本的人権擁護規定および親権者の書面による同意』が絶対的な前提条件とされています。同時に、国内ダンジョン管理基本法第二十二条第二項、ならびに児童福祉法第三十三条の定めにより、親権者の合意を欠く身柄の拘束および国外退去処分は、即座に不法監禁罪を構成します」


マーガレットの表情が、わずかに硬直した。眼鏡の奥の瞳が、俺の差し出した条文の抜粋を追う。


「……形式的な法解釈など、超法規的緊急措置の前には無力です」


「無力ではありませんよ。法治国家において手続きを省略した国際機関の決定は、単なる組織的暴行未遂と見なされます。もし無理に連行なさるおつもりなら、即座に法務省および国際司法裁判所へ保全異議申し立て書を提出します。書式はすでに作成済みで、送信ボタンを押すだけの状態にしてあります」


俺はもう一枚、今朝刷り上がったばかりの鮮烈な赤インクの書類を卓上へ追加した。


「そして、これが私の勤務先である株式会社東西商事総務部が発行した、有給休暇申請の正式承認書です」


「……は? 有給……?」


マーガレットが、これまでの怜悧な仮面を崩し、心底わけがわからないという顔をした。


俺は胸を張り、くたびれたネクタイを指先で整えながら、凛とした声で告げた。


「愛海はまだ小学三年生です。夏休みの宿題もあれば、学校のプール当番も控えています。いかなる査察や能力測定を行おうと勝手ですが、保護者の合意がない単独の連行は一切認められません。同行するならば私も全日程、全秒単位で立ち会います。日本の労働法規と有給休暇の権利を、軽視していただいては困ります」


静まり返る応接室。


佐藤さんが口をあんぐりと開けて固まり、マーガレットの背後に立つ屈強な護衛二名が、どう対応すべきか迷うように顔を見合わせている。


「労働法規……? 何を馬鹿な……世界規模の危機管理事案に対し、平社員の休暇などという矮小な私情を持ち出すつもりですか」


「私情ではありません。労働者に保障された正当な権利です。課長の胃薬と引き換えに正式に勝ち取った、極めて重みのある承認印ですよ」


「ほら、ここです」

俺は朱肉の鮮やかな『山田』の印影を、マーガレットの目の前に突きつけた。


「娘の平穏な夏休みを守ることは、親権者としての義務です。貴女方がジュネーブへ連れて行こうが、地球の裏側へ運ぼうが、私が有給を取得して全行程に同伴する以上、それは『家族旅行』の延長線上に位置づけられます。すべての工程において、娘の心身の安全を脅かす行為があれば、即座に保護者の権限で査察を中断させます」


マーガレットの額に、青筋が微かに浮かび上がった。


彼女は規律と合理性を信奉する官僚だ。だからこそ、完全に適法かつ正規の手続きで組み上げられた分厚い書類の壁を前にして、即座に暴力で突破するという短絡的な選択肢を選べない。


数秒の沈黙の後、マーガレットは忌々しそうに息を吐き捨てた。


「……よろしい。親権者の同行を認めます。ただし、現地での査定結果次第では、貴方の同行権など一瞬で吹き飛ぶと知りなさい」


「ええ、規則に従ってくださるなら何よりです」


俺は愛海に向き直り、微笑みかけた。


「大丈夫だったろ、愛海」


「うん! パパ、すっごくかっこよかった!」


愛海は目を輝かせ、膝の上で広げていた観察ノートへ、サラサラと鉛筆を走らせ始めた。


『きょうのパパ:ゆうきゅうのちからで、こわいおねえさんをたおした』


微笑ましいが、自由研究の提出先である担任の白鳥先生に見られたら少々説明に困るタイトルだった。


◆ーーーー◆


応接室を出た俺たちは、マーガレットの先導でダンジョン庁の中庭へと移動した。


強い朝の日差しが照りつけるアスファルトの上に、異様な威容を誇る機材が鎮座していた。連盟の専用輸送機から降ろされたばかりの大型特殊コンテナ。その内部から運び出されたのは、従来の測定器とは根本から設計思想が異なる、禍々しい装置だった。


高さ三メートルを超える、黒曜石のような光沢を放つモノリス型の測定器。


外殻には幾重もの銀色の方陣が刻まれ、大気中の魔力を吸い上げるようにして周囲の熱を奪っている。中庭の蝉の鳴き声が、その機械の周囲だけすっぽりと消え去っていた。


「……あれは、何ですか?」


佐藤さんが喉を鳴らしながら後ずさりする。


「連盟が極秘裏に開発した、深層災厄級専用の超高密度魔力解析器です」


マーガレットが氷のように冷たい視線を愛海へ向けた。


「極東の玩具のような測定器とは次元が違います。あの装置は魔力を検知するだけでなく、測定対象の内面に眠る最大出力を強制的に励起・抽出する。誤魔化しは一切通用しません」


マーガレットが制御コンソールの操作パネルへ手を伸ばした。


チ、と微かなノイズが手首から響いた。


俺は左腕に視線を落とした。袖口から覗く、古びた金属製の腕時計。亡き妻から贈られた、少し時間の遅れる安物のクォーツ時計だ。その秒針が、黒い測定器から発せられる微細な周波数と共振するように、小刻みに震えている。


金属の裏蓋を通して、手首の皮膚にわずかな熱が伝わってきた。


マーガレットがふと足を止め、怪訝そうにこちらを振り返った。彼女の手元にある解析端末のインジケーターが、一瞬だけ不可解な乱数を示して明滅したからだ。


「……何の雑音ですか?」


「さあ。古い時計ですから、電池の寿命かもしれませんね」


俺は腕時計を反対の手でさりげなく覆い、穏やかに返した。


マーガレットはわずかに目を細め、値踏みするように俺の全身を一瞥したが、すぐに興味を失ったように背を向けた。ただの疲れた会社員の身なりに、これ以上の関心を払う価値はないと判断したのだろう。


彼女は黒光りするモノリスの前に立ち、冷徹な笑みを口元に刻んだ。


「さあ、始めましょうか。結城愛海。貴女のその異常な力が、世界の脅威であるという動かぬ証拠を、白日の下に晒して差し上げます」


マーガレットの細い指先が、解析器のメイン起動スイッチへと伸ばされた。


黒い巨躯が低く唸りを上げ、大気中の光を吸い込むようにして不気味な紫色の光芒を灯し始める。

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