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第31話

トーストのこんがりと焼けた香りが、朝のダイニングに漂っていた。


「パパ、見て見て! 昨日もらったやつ、全部ここに並べたの!」


テーブルの向かい側で、愛海が満面の笑みを浮かべながら両手を広げた。


広げられたテーブルの上には、昨日学校から持ち帰ってきた『夏休みの友』の分厚い冊子、図画工作の募集要項、そして黄色いプリントの『地区プール当番表』が几帳面に並べられている。小学三年生の夏休み。子どもにとっては果てしなく広がる冒険の季節であり、親にとってはスケジュール管理という名の戦場が幕を開ける合図だ。


「どれどれ……朝のラジオ体操カードに、読書感想文、それに植物の観察日記か。なかなかのボリュームだな」


俺はマグカップのブラックコーヒーに口をつけながら、ポケットから年季の入った黒革の手帳を取り出した。


手帳を開くと、有給休暇の残日数がマス目ごとに几帳面な数字でびっしりと書き込まれている。先日の温泉旅行で二日ほど消化したものの、まだ手元には十分なストックがある。問題は、愛海の行事と会社の繁忙期をどう擦り合わせるかだ。


「プール当番は八月の第一週と第三週の火曜日か。よし、ここには半休を充てよう。学童の弁当作りが必要な日は……」


ボールペンの頭をカチリと鳴らし、カレンダーの余白に極小の文字で日程を書き込んでいく。父親の仕事は、娘が何不自由なく宿題を片付け、笑って新学期を迎えられるように退路を確保することだ。そこに一切の妥協は許されない。


「あ、パパ! 一番大事なやつ、まだ見せてなかった!」


愛海が椅子の背もたれに掛けてあったランドセルから、真新しい自由研究用のノートを取り出して、両手で高々と掲げた。表紙には、色とりどりのサインペンで愛海の丸っこい文字が躍っている。


『パパとのお出かけかんさつノート』


「お出かけ観察ノート……?」


「うん! パパとお休みの日にお出かけしたところを、ぜんぶ絵と文章で書くの! パパがお仕事で使ってるすごいやつとか、一緒に食べた美味しいものとか、ぜーんぶ記録するんだよ!」


無邪気に胸を張る娘の姿に、思わず目元が緩むのを止められなかった。


母親が旅立ってから、男手一つでこの子を育ててきた。不器用で、至らないところばかりの父親のはずなのに、愛海はいつだって俺との時間を宝物のように扱ってくれる。


「そうか。じゃあ、特別なカラーペンと定規を買いに行かないとな。観察記録は線が歪むと見にくくなるから、パパが真っ直ぐ引ける道具を用意してあげるよ」


「ほんと!? やったー! 約束だよ、パパ!」


ハイタッチを交わす小さな手のひらは、柔らかくて温かい。


この子の夏休みを、何があっても守り抜かなければならない。会社に多少の迷惑をかけようとも、有給という正当な権利を全力で行使して、完璧な思い出を作ってやるのだ。


◆ーーーー◆


昼休みの終わりを告げるチャイムが、オフィス内に気だるげに鳴り響いた。


俺はクリアファイルに収めた三枚の有給休暇取得申請書を手に取り、フロアの奥にある役職席へと足を向けた。


「山田課長、少々お時間よろしいでしょうか」


デスクでパソコン画面を睨みつけていた上司が、のっそりと顔を上げた。少し薄くなった頭髪を気にしながら、山田課長は俺の手元にあるクリアファイルを目ざとく見つけると、露骨に眉を八の字に曲げた。


「……結城。頼むから、その白い紙の束を見せる前に、俺の胃をいたわってくれないか」


「ご安心ください。課長の胃腸に負担をかけないよう、前倒し業務報告書も同封しております」


俺は澄ました顔で申請書をデスクへ差し出した。


山田課長はおそるおそる書類を受け取り、内容に視線を走らせる。八月の火曜日ごとの午前半休、そして中旬の連休に合わせた三連休の申請。当然ながら、一般の社員が見れば眉をひそめるような過密な休暇スケジュールだ。


「お前なあ……またこんなに取るのか! 先月も温泉に行くからって有給を取ったばかりだろうが!」


引き出しから取り出した胃薬の小瓶を振りながら、山田課長が悲鳴のような声を上げた。


「愛海の夏休みのプール当番と、自由研究の付き添いなんです。未成年の保護者として、これは義務であり責任ですので」


「お前の娘思いなところは百も承知だが、総務の業務はどうするんだ。来月は棚卸しもあれば、ダンジョン対策備品の監査もあるんだぞ」


「その件でしたら、こちらに」


俺はもう一枚、分厚いファイルをデスクの端に置いた。今朝の出社直後、始業前の誰もいないオフィスで十五分ほどかけて処理しておいた、来月分の備品台帳と監査用資料の完成品だ。


課長はファイルを開き、数ページめくったところで言葉を失った。


「……おいおい。これ、来週末までの提出予定の書類だぞ。なんで全部チェック済みでファイリングまで終わってるんだ?」


「私の事務処理速度が少々上がっただけです。突発的なトラブルが起きない限り、私の不在によって部署の業務が滞ることは一切ありません」


「お前、本当にただの会社員か……?」


呆れ果てたように吐息を漏らしながらも、山田課長の手は机の上の認印へと伸びた。朱肉の赤いインクが、申請書の承認欄にしっかりと押し込まれる。


「認める。認めますよ、ええ。その代わり、愛海ちゃんに美味しいものでも食べさせてやれ。父親がここまで必死になってるんだからな」


「ありがとうございます、山田課長」


深く一礼し、受領印をもらった控えを受け取る。これで八月のスケジュールは万全だ。安堵の息を吐きながら、俺は郵便物の仕分け棚へと向かった。


総務部の私書箱から自分宛ての郵便物を引き上げる。定期購読の業界誌、備品メーカーのカタログ。その中に紛れて、見慣れない質感の封筒が一通混ざっていた。


青と赤の縞模様で縁取られた、航空郵便用の封筒。


だが、通常の国際郵便とは明らかに異なっていた。宛名には俺の氏名と会社の所在地が流麗な英字で印字されており、差出人の欄には住所の代わりに、見慣れない紋章のシーリングワックスが施されている。


――剣と地球を模した、銀色の刻印。


そしてその下部には、朱色のインクで大きく『極秘指定』の英語スタンプが押されていた。


「海外からの手紙……? 俺宛てに?」


心当たりなどあるはずもない。親戚はおろか、海外の知人など一人もいない。海外出張のあるような部署でもないのだ。


封筒を持ち上げると、紙の奥から微かな冷気が指先に伝わってきた。夏場のオフィスであるにもかかわらず、その封筒の周囲だけ、ピンと張り詰めたような異質な気配が漂っている。


不審に思いながら封を切ろうとした瞬間、胸ポケットのスマートフォンが激しいバイブレーションを響かせた。


ディスプレイに表示された名前は、ダンジョン庁測定管理課の『佐藤真由美』だった。


◆ーーーー◆


定時を告げるチャイムと同時に会社を飛び出し、俺は電車を乗り継いでダンジョン庁の本庁舎へと向かった。


普段なら愛海を学童保育へ迎えに行く時間だが、事情を話して延長保育の手続きを取ってある。電話口の佐藤さんの声が、尋常ではない焦燥に満ちていたからだ。


案内されたのは、一般の来訪者が立ち入ることのない地下三階の特別応接室だった。


重厚な防音扉を開けて中に入ると、そこには制服姿の佐藤さんが一人、青ざめた顔でソファに腰掛けていた。机の上には、開封された何通もの公文書が散乱している。


「結城さん……急にお呼び立てして申し訳ありません」


立ち上がった佐藤さんの声は、微かに震えていた。普段のマニュアル通りで少しお堅い態度は影を潜め、隠しきれない疲労と困惑がその瞳に滲んでいる。


「いえ、大事な話だと伺いましたので。それで、一体何があったんですか?」


向かいのソファに腰を下ろすと、佐藤さんは唾を飲み込み、机の上から最も分厚いファイルを差し出してきた。


表紙には、昼休みに俺の元へ届いた不審な封筒と同じ、剣と地球の紋章が刻印されている。


「国際ギルド連盟――世界中の覚醒者とダンジョン探索を統括する最高機関から、先ほど我が国宛てに、緊急の特別通告が届きました」


「国際連盟……それが、俺たちと何か関係があるんですか?」


「大ありです」


佐藤さんは震える指先で書類をめくり、一枚のカラー写真を指し示した。そこに写っていたのは、先月起きたあの事件――温泉街の地下深くで暴走した超大型ダンジョンコアの残骸と、その一帯の魔力観測データだった。


「先日のスタンピード鎮圧時、ダンジョン庁の観測衛星が捉えた異常魔力の残滓を、連盟の情報部が感知しました。十万に迫る魔獣群を数分で消滅させ、臨界点に達したコアの暴走エネルギーを瞬時に無力化した……その出力源を、彼らは調査したんです」


「……」


俺は何も言わず、ただ佐藤さんの言葉の先を促した。


「現地に残された高密度の魔力痕跡。それが、過日ダンジョン庁で愛海ちゃんが測定器を破損させた際の波形と、完全に一致してしまったんです」


佐藤さんは喉を詰まらせるようにして、一枚の書状を突き出した。


そこには、厳格な文体でこう記されていた。


『対象者:結城愛海。未登録の超規格外戦力、ならびにダンジョン崩壊を引き起こしかねない特異危険魔力の保持者として、連盟規定に基づき緊急査察の対象に選定する』


「査察……?」


思わず声が低くなった。室内の空気が、わずかに重く沈み込む。


「はい。連盟は愛海ちゃんを、国家の枠組みを超えた『危険指定覚醒者』として認定する構えです。もし危険性が高いと判断されれば、強制的に連盟の直轄施設へ移送され、厳重な監視下に置かれることになります」


「ちょっと待ってください」


俺は書類から目を離し、佐藤さんをまっすぐに見据えた。


「愛海は小学三年生です。ただの、普通の子どもなんですよ。それを危険指定だの、海外の施設に移送だの……そんな馬鹿げた話、認めるわけにはいきません」


「分かっています! 庁としても、獅子王さんたちトップランカーも全力で抗議しました! ですが、連盟は査察の手続きを強行すると通告してきたんです。国内法を盾に拒絶すれば、日本に対するダンジョン資源の輸出入を全面凍結するとまで脅迫して……」


佐藤さんは悔しそうに拳を握りしめ、机を叩いた。


救世主として日本を救ったはずの少女が、今度はその力ゆえに、世界の巨大な権力組織から標的にされている。理不尽という言葉すら生ぬるい現実に、俺の中で静かな、底冷えのするような感情が広がっていくのが分かった。


愛海は朝、嬉しそうに自由研究のノートを見せてくれたのだ。


パパとお出かけした記録をつけたいと、無邪気な笑顔で語ってくれたのだ。


その大切な時間を、顔も知らない海外の連中が踏みにじろうとしている。


「……査察官は、いつ来るんですか」


「それが……」


佐藤さんは引きつった表情で、書類の末尾を指差した。


「連盟本部から派遣されるのは、『氷の特使』と呼ばれる査察官のエリートです。すでに本国の命令を受けて極東へ向かっており……明朝には、日本へ到着する予定です」


明朝。


あまりにも早すぎる。こちらの防衛体制を整えさせる隙すら与えない、完全な奇襲だ。


手首に巻かれた、古びた腕時計に視線を落とす。亡き妻から贈られた、少し時間の狂う安物の時計。


その文字盤が、佐藤さんから差し出された査察書面に触れた瞬間、微かに、熱を帯びるようにして共振した気がした。金属の冷たさとは違う、内側から押し寄せるような微かな違和感。


俺は手首を静かに撫で下ろし、息を整えた。


「佐藤さん。査察の立ち会いに、保護者の同伴は認められますね?」


「え? ええ、未成年覚醒者の権利として、保護者の全行程同伴は連盟の規約でも拒否できませんが……」


「分かりました。明日の午前中、有給休暇の変更届を出してから向かいます」


「結城さん……?」


困惑する佐藤さんを残し、俺は静かに席を立った。


娘の平穏な夏休みを脅かす者が誰であろうと、関係ない。


父親として、そしてただの会社員として。俺は正当な権利をすべて行使して、娘の日常を守り抜くだけだ。

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