第30話
自動ドアをくぐり、会社のフロアに足を踏み入れると、週明け特有の気だるい空気が漂っていた。パソコンのファンが低く唸り、電話のベルが遠くで鳴っている。どこにでもある、いつものオフィスの朝だ。
「おはようございます」
自席に向かいながら声をかけると、総務部のデスクのあちこちから控えめな挨拶が返ってきた。席に着き、パソコンの電源を入れる。
壁に掛けられた大型テレビでは、朝のニュース番組が同じ映像を何度も繰り返し流していた。画面の隅には『週末の危機、奇跡の鎮圧』という仰々しいテロップが躍っている。
「よう、結城。有給明け早々悪いが、週末はとんでもない騒ぎだったな」
マグカップを手にした山田課長が、のんびりとした足取りで近づいてきた。少し薄くなった頭頂部を気にしながら、テレビの画面を見上げる。
「ええ、ニュースで見ました。大変だったみたいですね」
俺は適当に相槌を打ちながら、ディスプレイに立ち上がった社内メールの未読件数に目を落とした。百件近く溜まっている。まずはこれらを仕分けるところから始めなければならない。
「大変なんてもんじゃないぞ。日本最大級のスタンピードだ。超大型の魔獣の群れが街のすぐそこまで押し寄せて、名立たるトップランカーたちですら壊滅寸前まで追い込まれたらしい。もし防衛線が突破されてたら、俺たちの住むこの街まで被害が及んでたって話だ」
山田課長はそう言って、胃薬の包みを机の上に置いた。まだ起きていない事態を想像して胃を痛めているらしい。
画面の中では、現場にいた探索者たちが興奮気味にインタビューに答えていた。『空が割れるような光が見えた』『謎の親子が魔獣の群れを一瞬で吹き飛ばした』と、誇張交じりの証言が飛び交っている。
俺はそっと息を吐き出し、左手首の時計に目をやった。亡き妻から贈られた、少し時間の遅れやすい安物の腕時計。週末の激戦を経て、今は何事もなかったかのように秒針を刻んでいる。
あの日、現地で起きたことは、彼らにとっては天変地異のような奇跡に見えたのかもしれない。
だが、俺にとっての理由はもっと切実で、単純なものだった。
数万を超える異形の軍勢が地鳴りを立てて押し寄せ、周囲の探索者たちが絶望に顔を歪めていたあの瞬間、俺の頭を占めていたのはただ一つのことだけだった。
——ここで足止めを食らえば、苦労して予約を取った旅館の夕食に間に合わなくなる。
それだけは何としても避けたかった。愛海が何週間も前から楽しみにしていた家族旅行だ。カレンダーに花丸をつけ、毎日指折り数えて待っていたあの子の笑顔を、魔獣の群れごときに台無しにされるわけにはいかなかった。
『パパ、みんな困ってるよ』
そう言って不安そうに俺の服の裾を引いた愛海の手を握り返し、俺は腹を括った。人前で目立つ行動は避けるのが俺の信条だったが、背に腹は代えられない。
『愛海、深呼吸をして、教えた通りに魔力を束ねてごらん。一番広い範囲を照らすイメージだ』
『うん!』
愛海が小さな両手を掲げると、空が昼間のように白く染まった。規格外の超広域殲滅魔法。視界を埋め尽くしていた魔獣たちが一斉に光に呑まれ、動きを止められる。
そして、光の檻に閉じ込められた無数の敵に向け、俺はポケットから取り出した一本のボールペンを振るった。
ただ、空間の余分な情報を切り落とすように。溜まった不要書類を一気に断裁する時の要領で、指先から不可視の切断線を走らせる。
十万に迫る魔獣の群れは、愛海の光と俺の事務的な処理作業の前に、文字通り一瞬で塵へと還った。
周囲にいた歴戦の探索者たちが何が起きたのか理解できず、腰を抜かして呆然とする中、俺が真っ先に行ったのは携帯電話の確認だった。
電波が繋がったのを確認し、すぐに旅館のフロントへ電話をかけた。
『もしもし、本日予約している結城です。交通の乱れで少し遅れそうですが、夕食の時間には間に合いますので……ええ、よろしくお願いします』
日本の存亡をかけた戦いとして世間が騒ぎ立てる中、俺たちの最大の関心事は、チェックインの時間と温泉の湯加減だったのだ。
「……まあ、どこの誰だか知らないが、その救世主様のおかげで、俺たちもこうして普通に仕事ができるわけだしな。ありがたい話だよ」
山田課長がコーヒーをすすりながら、しみじみと呟いた。
「本当ですね。平穏が一番です」
俺は苦笑を浮かべながら応じ、マウスを握り直した。
救世主などという大層な肩書は、俺には荷が重すぎる。日本を救ったとか、世界を守ったとか、そんなことはどうでもいい。愛海が安心して暮らせる街があり、温かいご飯を一緒に食べられる場所があれば、それで十分だ。
「よし、じゃあ結城、今週も頼むぞ。先週分の処理がかなり溜まってるからな」
「了解しました。定時までに終わらせます」
「おいおい、無理はするなよ。この山を一人で一日で片付けるなんて不可能……」
課長が言い終わる前に、俺の指先が動き始めていた。
デスクに積まれた分厚い書類の束を手に取り、素早く目を通す。内容を瞬時に判別し、指先をわずかに滑らせるだけで、書類は滑らかに五十音順のファイルへと収まっていく。
「……神速だな、相変わらず」
課長は目を丸くし、自分のデスクへと戻っていった。
キーボードを叩く乾いた音が、心地よいリズムを刻む。満員電車に揺られ、上司の小言を聞き、書類を整理して、夕方には娘を迎えに行く。この退屈で愛おしい日常こそが、俺が何としても守りたかったものだ。
時計の針が午後五時半を指すと同時に、オフィスに定時を告げるチャイムが鳴り響いた。
俺はパソコンをシャットダウンし、机の上を綺麗に片付ける。愛用しているボールペンを胸ポケットに挿し、椅子から立ち上がった。
「お先に失礼します」
「お疲れ、結城。……本当に全部終わらせて帰りやがった」
背後からの呟きを聞き流し、エレベーターの下降ボタンを押した。
ビルを出ると、夕暮れの柔らかな風が頬を撫でた。西の空が茜色から薄紫へとグラデーションを描いている。
駅までの道を少し早足で歩く。スーパーの店先には夕食の買い出しをする人々の姿があり、部活帰りの高校生たちが笑い声を上げながら自転車で通り過ぎていく。
誰もが、それぞれの日常を生きている。週末に世界が終わりかけたことなど、もう遠い出来事のようだ。
電車に揺られて最寄り駅に着き、いつもの通学路を歩いて学童保育の施設へと向かう。
扉を開けると、中から元気な子供たちの声が聞こえてきた。
「あ、パパ!」
部屋の奥から、ツインテールを揺らしながら愛海が駆け寄ってきた。背中には少し使い込まれたランドセルが揺れている。
「お待たせ、愛海。宿題は終わったか?」
「うん! 算数のプリント、ぜんぶ満点だったよ!」
「そうか、偉いな」
誇らしげに胸を張る愛海の頭を、俺は優しく撫でた。小さな、温かい手のひらが、俺の指をきゅっと握り返してくる。
「先生、今日もありがとうございました」
指導員の方に軽く頭を下げ、俺たちは手を繋いで施設を後にした。
並んで歩く影が、夕暮れの歩道に長く伸びていく。
「パパ、今日の夜ごはん、なに?」
「愛海の好きなハンバーグにしようか。途中でひき肉を買って帰ろう」
「やったー! わたし、玉ねぎ刻むのお手伝いする!」
「ああ、でも涙が出ないように気をつけないとな」
娘の他愛のないおしゃべりに耳を傾けながら、俺は歩幅を合わせる。
世界最強の才能を持つ小学生と、どこにでもいるただの会社員の父親。
特別な力があろうとなかろうと、俺たちの関係は何一つ変わらない。明日もまた朝が来て、愛海を学校へ送り出し、俺は満員電車に乗って会社へ向かう。
守るべき日常がある限り、俺はこれからも有給とボールペンを手に、父親としての仕事を全うするだけだ。
「パパ、早く行こ! お腹すいちゃった!」
「はいはい、走ると危ないぞ」
茜色に染まる街の中を、二人の足音が並んで響いていった。




