第29話
月曜日の朝を告げるアラームが、枕元で小気味よく鳴り響いた。
俺は寝返りを打って止め、ゆっくりと上体を起こす。カーテンを開けると、初夏の柔らかな陽光がリビングを照らし出していた。ベランダの外からは鳥のさえずりと、遠くの幹線道路を走る車の走行音が微かに届いてくる。
「……よし、今週も始まるな」
小さく伸びをしてからキッチンへ向かい、エプロンを身につける。冷蔵庫から卵と牛乳、食パンを取り出し、手際よくフレンチトーストを焼き始めた。フライパンからバターの甘い香りが立ち上ると、廊下の奥からパタパタと小走りの足音が近づいてくる。
「パパ、おはよー!」
パジャマ姿の愛海が、目をこすりながらリビングに入ってきた。寝癖のついた髪を揺らし、まだ半分夢の中にいるような足取りでテーブルの椅子によじ登る。
「おはよう、愛海。顔を洗っておいで。朝ごはんできてるぞ」
「はーい!」
元気よく洗面所へ駆けていく後ろ姿を見送り、俺は皿のトーストへたっぷりとメープルシロップを回しかけた。
あの週末、旅行先を襲った出来事は、世間から見ればまさに未曾有の大災害だった。
突如として湧き出した日本最大級の魔獣暴走――スタンピード。山を覆い尽くすほどの黒い津波となって押し寄せた無数の魔獣群は、トップギルドの探索者たちが築いた防衛線を瞬く間に飲み込み、ふもとの街や温泉旅館にまで牙を剥こうとしていた。避難警報が鳴り響き、誰もが絶望的な敗北を予感した瞬間だった。
だが、俺にとって何より許せなかったのは、せっかく数ヶ月前から計画し、娘が心待ちにしていた家族旅行のスケジュールが台無しにされかけたことだ。
公の場であることなど気にする余裕もなかった。俺は初めて全力で足元の空間を切り拓き、愛海と呼吸を合わせた。愛海が空いっぱいに展開した純白の広域殲滅魔法が魔獣の群れを足止めし、その隙間に俺が事務処理の要領で不可視の切断線を走らせる。親子二人の連係によって、数万と膨れ上がっていた魔獣の軍勢は、ほんの数分のうちに塵となって霧散した。
後から駆けつけたダンジョン庁の職員や探索者たちは、跡形もなく消え去った魔獣の残骸と俺たちを見て、まるで神仏でも拝むかのように呆然と立ち尽くしていた。日本の救世主だの、歴史を塗り替える特級覚醒者だのと騒がれかけたが、当時の俺の頭にあったのはただ一つ――旅館の夕食の提供時間に間に合うかどうか、それだけだった。
結果として宿の夕食には滑り込みで間に合い、露天風呂も卓球も存分に満喫することができた。世間がどれほど大騒ぎしていようと、俺たちにとっては「無事に予定通りの旅行を楽しめた」という結果こそがすべてだったのだ。
「パパ、いただきまーす!」
洗面所から戻り、黄色い小学校の制服に着替えた愛海が、両手を合わせてトーストを頬張る。
「おいしい! やっぱりパパのご飯が一番好き!」
「そうか、しっかり噛んで食べなさい。今日は月曜日だから、忘れ物のないようにな」
「うん! 宿題も筆箱もちゃんとランドセルに入れたよ!」
満面の笑みで答える娘の姿に、俺の口元も自然とほころんだ。
朝食を終え、食器を洗い終えると、愛海は真っ赤なランドセルを背負って玄関に向かった。靴を履き、帽子を被る仕草の一つひとつが、ごく普通の小学生そのものだ。
「パパ、行ってきます!」
「いってらっしゃい。車には気をつけるんだぞ」
玄関のドアが閉まり、軽やかな足音が階段を駆け下りていくのを見送ってから、俺は時計を確認した。出社までにはまだ少し時間がある。俺はリビングの窓から、通学路を歩く愛海の小さな背中を静かに見守った。
◆ーーーー◆
初夏の爽やかな風が吹き抜ける校門前には、登校してくる児童たちを迎えるために白鳥麗子が立っていた。
「おはようございます! 今日も元気に頑張りましょうね」
一人ひとりに丁寧にお辞儀をしながら声をかける。眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、教育熱心な彼女にとって、子供たちの安全と笑顔を守るこの時間は何よりも尊いものだった。
週末、ニュースは地方で発生した大規模スタンピードの話題で持ちきりだった。未曾有の危機が一瞬にして何者かによって鎮圧されたという信じがたい報道に、職員室でも不安と驚愕の声が交わされていた。覚醒者や魔獣の脅威が身近に迫る社会であっても、子供たちには教室の中で穏やかな日常を過ごしてほしい――白鳥はそう強く願っていた。
「白鳥先生、おはよーございます!」
聞き慣れた元気いっぱいの声が響き、白鳥は顔を上げた。通学路の向こうから、愛海が両手を振りながら走ってくる。
「おはようございます、愛海ちゃん。走ると転んでしまいますよ」
「えへへ、大丈夫だよ! 先生、あのね!」
校門の前で立ち止まった愛海は、ランドセルの肩紐をぎゅっと握りしめ、目を輝かせながら口を開いた。
「週末ね、パパと一緒に温泉に行ったの! すっごく広くていいお湯だったんだよ!」
「まあ、温泉旅行に行ってきたのですね。結城さんもお忙しい中、しっかり愛海ちゃんとの時間を作ってくださって、本当に素敵な親御さんです」
白鳥が微笑むと、愛海はさらに得意げに胸を張った。
「それでね、温泉の近くで悪い大きなモンスターがいっぱい出たんだけど、わたしとパパでえいっ! てやっつけちゃったの! ピカピカ光る魔法でババーンって!」
身振り手振りを交えながら、愛海は無邪気に報告してくる。その小さな拳が宙を突き出す様子は、どこからどう見ても戦隊ヒーローに憧れる子供の可愛らしい誇張だった。
白鳥は思わずふふっと笑みをこぼした。
「ふふ、愛海ちゃんはパパと一緒に悪者をやっつける強いヒーローになったのね。パパも頼もしい愛海ちゃんがいて、きっと大助かりだったでしょう」
「うん! パパも『愛海のおかげで夕ご飯に間に合ったぞ』って褒めてくれたの!」
「それはよかったですね。でも、危ないところには近づかないように、これからもパパの言うことをしっかり聞くのですよ」
「はーい!」
愛海は元気よく返事をすると、昇降口に向かって小走りで駆けていった。
遠ざかる小さな背中を見送りながら、白鳥は胸の奥でほっと息を吐き出した。ニュースでどれほど物騒な事件が報じられていようと、この学校に通う子供たちはこうして純粋な笑顔を浮かべている。結城家の温かな日常が何事もなく守られていることに、担任として深い安堵を覚えずにはいられなかった。
「さあ、私も今日の授業の準備をしっかりしなくては」
白鳥は眼鏡を指先で押し上げ、爽やかな朝の光の中で気を引き締め直した。
◆ーーーー◆
愛海を送り出した自宅で、俺はワイシャツの袖に腕を通していた。
手首に巻かれた腕時計に目を落とす。少し時間の狂いやすい、安物の古い時計だ。亡き妻が遺してくれたこの時計は、かつて俺たちの間にあった温かな時間を今も静かに刻み続けている。
洗面台の鏡の前に立ち、紺色のネクタイを丁寧に結ぶ。鏡の中に映る自分は、少し目元にクマの残る、くたびれたスーツを着たどこにでもいる平凡な会社員だ。
規格外の魔力があろうと、数万の魔獣を一瞬で消し去る力があろうと、俺の肩書は何一つ変わらない。一人の会社員であり、そして何より、結城愛海というかけがえのない娘の父親だ。
愛海がどれほど規格外の才能を発揮しようとも、あの子がランドセルを背負って元気に学校へ通い、友達と笑い合い、宿題に頭を抱える普通の小学生であることに変わりはない。妻を亡くしたあの日から、俺が抱き続けてきた願いはただ一つ、あの子の平穏な笑顔を守り続けることだけだった。
「よし、今日も定時退社を目指すか」
ネクタイの結び目をきゅっと引き締め、軽く襟元を正す。鞄の中に社員証と財布、そして使い慣れた油性ボールペンが入っているのを確認し、玄関へと歩き出した。
今日からまた、満員電車に揺られ、書類の山と向き合う日常が始まる。面倒な事務手続きやダンジョン庁からの問い合わせもあるかもしれないが、そんなものは業務の一環として効率よく片付ければいい。
ドアノブに手をかけ、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。見上げた青空には一片の曇りもなく、穏やかな陽射しが街を包み込んでいた。
俺は鍵を閉め、愛海が待つ夕方の我が家へ無事に帰るため、いつもの駅へ向かって歩き出した。




