第28話
澄み切った朝の空気が、開け放たれた窓から心地よく流れ込んでいた。
温泉旅館の朝は早い。昨晩、あれほどの大騒動があったというのに、山あいの温泉街は何事もなかったかのように穏やかな朝餉の香りに包まれていた。焼き魚の香ばしい匂いと、炊き立ての白米の湯気。朝食を綺麗に平らげた俺と愛海は、浴衣の袖をまくり上げ、旅館の奥にある卓球場へと足を運んでいた。
「パパ、いくよっ! えーいっ!」
「おっと、いいコースだ」
パコン、と小気味よい乾いた音が板張りの室内に響き渡る。
愛海が放ったピンポン球は、小学生とは思えない鋭い回転を帯びて卓球台の角をかすめた。だが、俺は手首のスナップを最小限に利かせ、木製ラケットの芯で的確に捉えて打ち返す。球は放物線を描き、相手コートの白線ぎりぎりへと吸い込まれていく。
「わあっ、パパすごーい! ちゃんと返ってきた!」
「愛海のサーブが良かったからな。さあ、もう一本いくぞ」
「うんっ!」
二つに結んだ愛海の髪が、軽やかに跳ねる。
昨夜の魔獣騒ぎなど嘘のように、卓球台を挟む時間はどこまでも穏やかだった。
左手首には、長年つけていた腕時計の重みがない。けれど、不思議と胸の中は軽やかだった。自分の内側で暴れそうになる力を抑え込む必要はもうなく、愛海と一緒に過ごすこの静かな時間を、ただ純粋に楽しむことができている。
パコン、パコンと、卓球台を挟んで軽快なラリーが続く。
平穏で、温かくて、何物にも代えがたい休日のひとときだった。
その静寂を破るように、遠くの空からバラバラバラとけたたましいプロペラ音が響いてきた。
宿の窓の外を見上げると、ダンジョン庁のロゴが刻まれた大型ヘリコプターが、温泉街の臨時駐車場に着陸するのが見えた。土煙が舞い上がり、中からスーツ姿の役人たちが血相を変えて飛び出してくる。
「……ん? パパ、あれ、窓口のお姉さんじゃない?」
愛海がラケットを握ったまま、窓の外を指さした。
目を凝らすと、先頭を切って駆け出してくる女性の姿がある。ダンジョン庁の測定窓口でいつもお世話になっている佐藤真由美さんだった。手には分厚いバインダーとタブレット端末を抱え、今にも転びそうな勢いでこちらへ走ってくる。
「ずいぶん慌てているな。まあ、昨日の今日だから確認に来たんだろう」
俺は小さく息をつき、ピンポン球を手のひらで受け止めた。
ドタドタと慌ただしい足音が廊下に響き渡り、やがて卓球場の引き戸が勢いよく開け放たれた。
「ぜぇ……はぁ……っ! ゆ、結城さんっ! 愛海ちゃんっ!」
息を激しく乱し、肩を上下させながら佐藤さんが突っ立っていた。額にはびっしりと汗が浮かび、眼鏡が少し斜めにずれている。彼女の後ろには、完全武装した護衛の探索者たちが数名控えていたが、彼らもまた宿ののどかな空気に気圧されたように立ち尽くしていた。
「おはようございます、佐藤さん。朝早くから出張ですか? ご苦労様です」
俺がペコリと頭を下げると、佐藤さんは目を白黒させて固まった。
「お、おはようございます……じゃなくて! 結城さん、ご無事だったんですか!? 昨夜、この一帯で発生した広域災害級の事象……数万体規模の異常発生が観測されたと警報が鳴り響いて、首都圏詰めの部隊も総動員で駆けつけたんです! なのに……なのに現地の反応が忽然と消滅していて……!」
「ああ、その件ですか。ええ、無事に解決しましたよ」
「無事に解決って……! 一晩で数万の魔獣が消滅して、しかも温泉街どころか周囲の森林すら無傷だなんて、物理法則どうなってるんですか!? 現場に残されていたのは、綺麗に仕分けされた魔石の山と、信じられないほど澄み切った大気だけなんですよ!?」
佐藤さんは半泣きになりながら、手に持ったタブレットを振り回した。画面には、赤く染まっていた危険地帯のマップが、現在では真っ青な『完全安全領域』に塗り替わっているグラフが表示されている。
「佐藤のお姉さん、こんにちは! パパと温泉入って、ご飯いっぱい食べたよ!」
愛海が無邪気に手を振ると、佐藤さんはその場に崩れ落ちそうになりながら両手で頭を抱えた。
「愛海ちゃん……よかった、本当に無事で……って、やっぱりお二人の仕業なんですね!? いえ、現場に残された痕跡の几帳面すぎる切断面を見た瞬間から、嫌な予感はしていたんですけれど! あんな天変地異を一晩で片づけるなんて、一体どういうことなんですか!?」
「どういうことも何も、家族旅行の予定が入っていましたから」
俺はタオルで首筋の汗を拭いながら、至極当然のこととして答えた。
「せっかく取った有給と宿の予約を、あんな突発的なトラブルで潰されるわけにはいきません。夕食の時間までに間に合わせる必要がありましたし」
「家族旅行のために国家非常事態をねじ伏せないでください!!」
佐藤さんの絶叫が卓球場に木霊した。
後ろに控えていた探索者たちも、信じられないものを見る目で俺を凝視している。だが、俺にとっては国家の危機よりも、娘と交わした旅行の約束を守ることの方が遥かに重要だった。父親として、そこは絶対に譲れない一線だ。
「それで……その……」
佐藤さんは荒い呼吸を整えようと胸元を押さえ、深呼吸を繰り返した。ようやく落ち着きを取り戻したのか、抱えていた分厚いバインダーから大量の書類を取り出し、俺の前に差し出してきた。
「結城さん。事態が事態です。政府上層部もギルド連合も、この一件の真相解明に血眼になっています。日本の救世主として正式に表彰する動きも出ていまして……まずはこの事後処理報告書と、緊急事態対応に関する確認書、それから特別功労賞の申請書にサインと捺印を――」
差し出された書類の山を一瞥し、俺は穏やかに微笑んで首を横に振った。
「佐藤さん。大変申し訳ないのですが、俺は今、有給休暇の真っ最中なんです」
「……はい?」
「会社の規定でも、労働基準法でも、休日に業務関連の対応を行う義務はありません。ダンジョン庁の書類仕事も、公的な手続きも、すべて月曜日の朝九時以降にお願いできますか? 今は娘との大切なプライベートの時間ですので」
「ええっ!? でもこれ、国家レベルの重要書類なんですよ!? 総理大臣への報告も含まれてるんです!」
「有給中に仕事をしないのは、社会人としての基本ルールです。緊急連絡先にも、休日は連絡しないでくれと書いて提出してありますしね」
きっぱりと言い切る俺の態度に、佐藤さんはぽかんと口を開けたまま硬直した。
世界を救った力を持つ男が、有給休暇という紙切れ一枚の権利を盾にして、国家の最高機密書類を平然と先送りにしている。そのギャップに、彼女の処理能力が完全に限界を迎えたようだった。
「パパ、卓球の続きしよ! 次は愛海のサーブからね!」
愛海がラケットを構え直し、楽しそうに笑いながら声をかけてくる。
「よし、今度はどんな球でも打ち返してみせるぞ」
俺がラケットを握り直すと、佐藤さんは深いため息をつき、肩の力を抜いた。手にした書類の束をゆっくりと胸元に引き戻し、苦笑いを浮かべる。
「……わかりましたよ。月曜日の九時ですね。必ずダンジョン庁の受付でお待ちしていますから」
「ええ、出社前に必ず立ち寄ります。お手数をおかけしてすみません」
「本当ですよ……。上層部への言い訳を考える私の身にもなってください」
佐藤さんはぶつぶつと愚痴をこぼしながらも、その表情にはどこか安堵の色が混ざっていた。彼女は愛海に向かって優しく微笑みかけ、小さく手を振る。
「愛海ちゃん、旅行楽しんでね」
「うん! 佐藤のお姉さんも、温泉入っていくといいよ! すっごく気持ちいいんだから!」
「ふふ、仕事が終わったらそうさせてもらうわね」
佐藤さんは護衛たちに合図を送り、静かに卓球場を後にした。引き戸が閉まり、再び心地よい静寂が部屋を包み込む。
窓の外を見れば、朝の陽光が温泉街の屋根を黄金色に染め上げていた。遠くの山々からは鳥のさえずりが聞こえ、川のせせらぎが穏やかに響いている。
ピンポン球の弾む音とともに、愛海の屈託のない笑い声が広がった。
月曜日になれば、また書類の山と格闘する忙しい日常が戻ってくるだろう。ダンジョン庁からの呼び出しや、上司への説明など、面倒な課題は山積みだ。
けれど、この笑顔を守るためなら、どんな業務だって平然とこなしてみせる。
俺はラケットを振るいながら、心の中で静かに、確かな決意を噛み締めていた。




