第27話
湯けむりの漂う石畳を踏みしめながら、俺たちは緩やかな坂道を上っていた。
背後を振り返ると、数分前まで大地を揺るがしていた巨大な魔力反応は跡形もなく消え去り、静寂が街を包み込んでいる。
「……師匠、本当に……本当に終わったんすね」
数歩後ろを歩いていた獅子王凱が、擦り切れた大剣を杖代わりに突き立て、その場に膝をついた。
肩で荒い息をつきながら、金髪の間から汗と涙の混ざった滴をぽろぽろと零している。
普段の自信満々な態度がすっかり抜け落ち、くしゃくしゃになった顔で俺たちを見上げていた。
「ああ。もう魔獣の気配はない。怪我の具合はどうだ、獅子王さん」
「俺の体なんてどうでもいいっすよ……! あの数の魔獣と、暴走した大元の核を、親子二人だけで一瞬で片付けるなんて……。俺たちギルド総出でも全滅を覚悟したってのに……あんたたち、マジで何者なんすか……」
獅子王は震える拳を地面に押し当て、嗚咽を漏らした。
生き残れたことの安堵と、目の前で繰り広げられた桁外れの光景に対する畏怖が、彼の中で激しく渦巻いているのだろう。
「何者って、普通の会社員と小学生ですよ。それより、立ち上がれますか? 舗装道路に座り込んでいると風邪を引きますよ」
俺が手を差し伸べると、獅子王は恐れ多いといった様子で二、三度躊躇した末、その大きな手をおずおずと重ねてきた。
引き上げると、彼は鎧の重さを感じさせない軽さで立ち上がったが、足元はまだ微かにふらついている。
「パパ、見て見て! あそこの看板!」
愛海が俺の袖をくいっと引っ張り、嬉しそうに指を差した。
街角の観光案内板には、今回の旅行の目玉として楽しみにしていた『新規開拓・奇跡の秘湯』の文字が躍っている。
先ほどまで暴走していた元凶のエネルギー溜まりは、まさにこの源泉の直下に位置していた。
魔獣の発生源となっていた異常な熱量が綺麗に消滅したことで、地脈から湧き出る温泉は、危険な超高温から心地よい適温へと落ち着いたようだった。
「なるほど……。ガイドブックに小さく載っていた新源泉の正体は、あれだったわけか」
トラブルの元凶が温泉の熱源そのものだったとは呆れた話だが、結果として湯加減が極上になったのなら文句はない。
これで宿の温泉が熱湯風呂になって入れない、という最悪の事態だけは避けられた。
「パパ、早く行こう! お腹ぺこぺこだよ!」
「そうだな。フロントで待たせるのも申し訳ないし、急ごう」
俺たちは再び歩き始めた。
背後では、獅子王がスマートフォンを取り出し、本部のギルドやダンジョン庁との緊急連絡に追われ始めている。
「……あ、もしもし本部!? 現場の獅子王だ! 災害指定は解除! 繰り返す、スタンピードは完全鎮圧された! え? 討伐部隊の増援? いらねえよ、もう一匹も残ってねえ! 信じられねえだろうが……たった二人が、全部消し飛ばしたんだ……!」
大声を張り上げる獅子王の声が夜風に乗って遠ざかっていく。
通信の向こう側でどれほどの混乱と騒ぎが起きているか想像に難くないが、今の俺には関係のないことだ。
何より優先すべきは、チェックインの手続きと、夕食の配膳時間に遅れないことである。
◆ーーーー◆
予約していた老舗旅館『湯乃華亭』の玄関をくぐると、帳場から宿の主人が転がるように飛び出してきた。
「お、お客様方! ご無事で……本当によかった! 外のけたたましい地響きと警報で、一体何が起きたのかと生きた心地がしませんでしたよ!」
主人は額に汗を浮かべ、俺たち親子の姿を見るなり深々と頭を下げた。
「途中で少し足止めを食らいましてね。遅れてしまってすみません。予約していた結城ですが、まだ夕食には間に合いますか?」
「えっ……夕食、ですか!?」
主人は目を丸くし、俺と愛海の顔を交互に見つめた。
無理もない。街中を揺るがす異常事態が起きていた直後に、何食わぬ顔でチェックインして夕食の心配をしている客など、前代未聞だろう。
「ええ。もし厨房の準備に支障が出ているようでしたら、少し遅らせていただいても構いませんが」
「い、いえ! とんでもございません! 当館自慢の会席料理、すべて時間通りにご用意可能です! それに……先ほどダンジョン庁の方から連絡がありましてね。街を救ってくださった恩人の方々だと伺いました。今夜の宿泊費とお食事代は、町内会と宿の全額負担とさせていただきます!」
「いえ、それは困ります。福利厚生の補助券を使って正規の料金でお支払いしますので」
「パパ、補助券あるの?」
「ああ、会社の健保組合から出ている大事な権利だからな。ちゃんと使わないと損をする」
困惑する主人を押し切って宿泊カードに必要事項を記入し、鍵を受け取った。
案内された離れの客室は、手入れの行き届いた畳の香りが心地よく、窓の外には湯けむりと月明かりに照らされた日本庭園が広がっていた。
「わあ……! パパ、お部屋広いね! お布団もふかふかだよ!」
愛海は靴を脱ぐなり座敷に駆け上がり、畳の上で手足を伸ばして転がった。
移動の疲れと戦闘の緊張から解放されたのか、その表情には年相応の無邪気な笑顔が戻っている。
「愛海、まずは服を着替えて、お風呂に行こう。砂埃を落とさないとな」
「はーい!」
俺たちは用意されていた浴衣に着替え、タオルを手に取って露天風呂へと向かった。
家族風呂として貸し切りにされた岩造りの露天風呂は、周囲を竹林に囲まれ、静かな夜気に包まれていた。
湯口からは澄んだ源泉が絶え間なく注がれ、柔らかな湯気を立てている。
かけ湯をしてから、ゆっくりと肩まで湯に浸かる。
「ふう……っ」
思わず深いため息が口から漏れた。
じんわりとした温もりが、芯まで冷え切っていた体を包み込み、日頃の残業と育児で凝り固まった筋肉を優しく解きほぐしていく。
隣では、愛海が首まで湯に浸かり、気持ちよさそうに目を細めていた。
「パパ、あったかいねえ……」
「ああ、いい湯加減だ。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい」
「わたしね、パパとお風呂入るの、すっごく楽しみだったんだ。ドッジボールで壁を壊しちゃってから、いろんな人に追いかけられたり、怖い魔獣がいっぱい出てきたりして……ちょっとだけ、怖かったの」
愛海は小さな手で湯面をぱしゃりと叩き、伏し目がちに呟いた。
その横顔を見て、胸がきゅっと締め付けられる。
どれほど規格外の才能を持っていようと、この子はまだ小学三年生の子供なのだ。
突然巻き込まれた非日常の嵐の中で、不安を感じないはずがなかった。
「愛海」
俺は湯の中で手を伸ばし、濡れた小さな頭を優しく撫でた。
「もう何も心配いらない。お前の日常は、パパが絶対に守るからな」
「うん! パパ、すっごく強かったもんね! シュッてやって、バサッてして、悪い魔獣さんたちを全部お片付けしちゃった!」
「あれはただの書類整理の応用だよ」
「もう、パパったらまたそんなこと言って!」
愛海はけらけらと声を上げて笑い、湯を手ですくって俺の胸元にかけてきた。
竹林を揺らす夜風が、火照った頬を心地よく撫でていく。
空を見上げれば、満天の星が夜空に散らばっていた。
街の灯りが消え、静寂を取り戻した温泉街の夜は、息をのむほどに美しい。
手首に目を落とすと、長年愛用していた腕時計はもうそこにはない。
妻が遺してくれた大切な形見は、愛海とこの日常を守るための力となって砕け散った。
けれど、手首に残るかすかな感触と、隣で笑う娘の温もり配分は、確かにここにある。
「パパ、お風呂から上がったら、ご飯いっぱい食べようね!」
「ああ。お刺身も天ぷらも、好きなだけ食べていいぞ」
「やったー! パパ、大好き!」
満面の笑みを浮かべる愛海を抱き寄せながら、俺は静かに目を閉じた。
明日になれば、またダンジョン庁からの問い合わせや、ギルド関係者からの連絡が殺到するかもしれない。
月曜日になれば、溜まった事務処理と山田課長のため息が待っているだろう。
だが、今はそれでいい。
この温かな湯のぬくもりと、娘の屈託のない笑顔さえあれば、どんな理不尽な残業だって乗り越えられる。
湯けむりの向こうに広がる静かな夜空を眺めながら、俺たちはいつまでも心地よい温泉の温もりに身を委ねていた。




