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第26話

砕け散った腕時計の金属片が、夜の帳の中へ静かに舞い落ちていく。


手首に残る鈍い痺れが消え去った瞬間、俺の身体の芯を縛りつけていた重い枷が、音もなく外れた。胸の奥底からとめどなく湧き上がるのは、普段なら決して表に出すことのない、桁外れの熱量だ。


「パパ……? これ、なに……?」


隣で必死に光の檻を支えていた愛海が、驚きに目を見張ってこちらを見上げた。


無理もない。亡き妻が俺のために遺してくれたあの安物の時計は、俺の異常な魔力を世間並みに抑え込むための制御具だった。それが完全に壊れた今、周囲の大気がまるで別の物質に置き換わったかのように濃密に震えている。


だが、そんな感慨に浸っている暇は一秒たりともない。


視界の先では、紫色に濁った巨大なコアが脈動を早め、山肌の裂け目から無数の甲虫型魔獣が雪崩のように湧き出していた。数万、いや十万を超えるかもしれない黒い群れが、麓の温泉街を目指して突進してくる。日本最大級のスタンピードだ。


「くそっ、防壁が持たねえ! もう全員終わりだ……!」


後方で大剣を杖代わりにしていた獅子王が、血を吐きながら叫ぶ。名だたるトップ探索者たちですら、地平線を埋め尽くす怪物の大波を前に戦意を失い、膝をついていた。


このままでは、街も、宿も、なにもかもが消し炭になる。


――何より、二ヶ月前から念入りに予約し、愛海とずっと楽しみにしていた家族旅行のスケジュールが、完全に破綻してしまう。


「そんな理不尽なキャンセルは、断じて認めない」


俺は右手に握った油性ボールペンを静かに構え直した。


「愛海、パパの指示に合わせて、最大の出力で広域魔法を撃てるか?」


「うんっ! パパと一緒なら、絶対にできる!」


愛海は力強く頷くと、両手を前方に突き出した。小さな身体から、透き通るような純白の魔力が螺旋を描いて噴き上がる。


娘の魔力と、俺の解き放たれた力が、空中で美しく共鳴した。互いの波長が完璧に噛み合い、夜空全体を昼間のように照らし出す。


「獅子王さん、愛海の後ろで飛散物の盾をお願いします」


「えっ……あ、ああ! 任せろ師匠!」


獅子王の返事を聞き届けるより早く、俺はペン先を空中へと滑らせた。


書類の仕分け、不要なデータの抹消、そして高速の細断処理。

長年の会社員生活で毎日欠かさず繰り返してきた事務作業の基本動作を、この空間そのものへと適応させる。


「――全件、一括裁断処理」


俺の指先が描いた無数の切断線が、愛海の放った極大の閃光と交差した。


愛海の白光が数万の魔獣群をひと息に包み込み、身動きを完全に封じる。その直後、俺の空間断裂が幾重にも重なる巨大な刃となって、空間そのものを等間隔に切り裂いていった。


ズババババッ、と。


耳を劈くような断裂音が大地を震わせる。突進していた怪物の大軍勢は、咆哮をあげる間もなく、寸分違わぬミリ単位の粒子へと解体され、夜風に乗って光の塵へと変わっていく。


一瞬だった。


山を覆い尽くしていた絶望の波が、綺麗さっぱりと掻き消えた。まるで最初から何もいなかったかのように、整然とした静寂が周囲を取り戻す。


「う、そだろ……? 十万のスタンピードを……たったの一撃で……?」


背後で獅子王が腰を抜かし、放心したように呟いた。遠巻きに見守っていた探索者たちも、口をあんぐりと開けたまま固まっている。


だが、本番はここからだ。


地脈の底で暴走を続ける紫色のコアが、自爆のエネルギーを極限まで溜め込み、眩い閃光を放ち始めていた。周囲の空間がぐにゃりと歪み、山全体が崩落の危機に瀕している。


ガイドブックを思い出す。この山に湧き出た新源泉の熱源は、このコアの過剰エネルギーそのものだ。


「コアごと消し飛ばせば、宿の温泉まで枯れてしまうな」


「パパ、どうするの?」


「必要な部分だけ残して、余計な暴走エネルギーだけをファイリングする」


俺は愛海の手を握り、ふたりで同時に前進した。


「愛海、コアの外郭を光で優しく包んで、熱だけを逃がさないように固定してくれ」


「わかった! えーいっ!」


愛海が両手を広げると、柔らかな光の球体が紫のコアを包み込んだ。暴走しかけていた熱量が、暴力を奪われて純粋な温もりの波へと変換されていく。


そこへ俺がペン先を走らせた。


過剰な地下の連結脈だけを、狙い澄ましてスライスするように細断。余分な魔力ラインをすべて切り落とし、適正な湯加減を保つための最小限の出力へと整える。


カチリ、と頭の中で何かが収まる音がした。


直後、紫色の禍々しい光は完全に消え去り、コアの残滓から立ち上った温かな蒸気が、きらきらと輝く光の粒となって山肌へと降り注いだ。


谷底から、心地よい硫黄の香りと共に、滾々と湧き出る湯のせせらぎが聞こえてくる。


「……ふぅ。これで、なんとかなったか」


俺は額の汗をスーツの袖で拭い、深く息を吐き出した。


静まり返った山頂に、遠くの街から歓声が響き渡る。通信機器からは、ダンジョン庁や各ギルドが未曾有の危機を回避した「救世主」の正体を探る混乱の無線が微かに漏れ聞こえていた。


だが、そんな英雄としての評価など、俺にはどうでもいいことだった。


「獅子王さん、いま何時ですか?」


俺が振り返って尋ねると、獅子王はまだ震える手でスマートフォンを確認した。


「え、あ……午後五時四十五分です、師匠……」


「よし。夕食の開始予定は午後七時だ。宿へのチェックインにも余裕で間に合うな」


俺は胸ポケットから丁寧に折りたたまれた旅館の予約確認書を取り出し、濡れていないことを確かめてから安堵の溜息をついた。キャンセル料を支払う必要も、せっかく取った有給を無駄にする心配も、もうない。


「パパ、やったね! 温泉、入れるんだよね!?」


愛海が満面の笑みを浮かべ、俺の腰に抱きついてきた。


「ああ、約束通り、一番風呂に入って美味しいご飯を食べよう」


「わーい! わたし、温泉卵いっぱい食べる!」


愛海が元気に右手を突き出してきたので、俺も笑顔で手のひらを打ち合わせた。


パチン、と乾いたハイタッチの音が澄んだ夜空に響き渡る。世界を救った最強の力も、我が家にとっては週末の平穏な家族旅行を守るための手段に過ぎない。


壊れた腕時計の代わりに、胸に灯る確かな温もりを感じながら、俺たちは湯けむりの立ち上る温泉街へと歩き出した。

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