第25話
地鳴りのような唸りを上げ、中心部で赤黒い光球が膨張を続けていた。
空気が焼ける異臭が鼻腔を突き、周囲の木々が一瞬で炭化していく。地面に亀裂が走り、地下深くから吹き上がる熱波が視界を陽炎のように揺らしていた。
「師匠、愛海ちゃん、早く逃げてくれ!」
大剣を杖代わりに突き立て、肩で息をしていた獅子王凱が叫んだ。額から流れる血を乱暴に腕で拭い、必死の形相でこちらへ手を伸ばしてくる。
「あんなもん、人間がどうにかできる規模じゃねえ! ダンジョンコアの自爆だぞ! ここ一帯の山も温泉街も、全部吹き飛ぶ!」
プロの探索者たちが次々と武器を投げ出し、後方へ雪崩を打って撤退を始めていた。彼らの判断は合理的だ。数万に及ぶ魔獣の群れをなんとか退けた直後、残された核が過負荷で暴走を始めたのだから、退避以外に選択肢はない。
だが、俺には退けない理由があった。
「……温泉街が吹き飛ぶ?」
俺はくたびれたビジネスバッグを左手で持ち直し、低く呟いた。
胸ポケットに押し込んである旅行の予約確認書。そこには、二ヶ月前から予約を入れていた老舗旅館の名称と、本日宿泊の旨が印字されている。露天風呂付き客室、夕食の懐石料理は十八時半から。
もし今ここでこの山が消し飛べば、宿は消滅する。それだけではない。無断不泊扱いとなれば、宿泊代金の百パーセントがキャンセル料として請求されるのだ。
「ふざけるな……」
有給を勝ち取るためにどれほどの調整を重ねてきたか。休日出勤を回避するため、どれだけの書類を片付けてきたか。
俺の眉間に、深い皺が刻まれた。
「せっかくの家族旅行を、こんな理不尽な理由で潰されてたまるか」
「師匠……? 何を言って……」
呆然とする獅子王の声を背に受けながら、俺は胸ポケットから一本の油性ボールペンを抜き取った。
隣で、愛海が小さく息を呑む気配がした。怯えているのではない。俺の横顔を見上げ、その瞳に強い決意の光を宿していた。
「パパ、一緒に止めよう!」
高く澄んだ声が、暴風の中で響き渡る。二つに結んだ髪を風になびかせ、愛海は小さな両手を前に突き出した。
「パパが一生懸命とってくれたお宿だもん。絶対に爆発なんてさせない!」
「愛海……」
頼もしく成長した娘の姿に、胸が熱くなる。だが親として、危険な最前線に立たせる罪悪感がないわけではない。それでも今、この子の力と俺の力を合わせなければ、大切な日常を守りきれないのも事実だった。
「よし。二人で一気に片付けるぞ。夕食の時間まで、あと三十分もない」
「うん!」
愛海が頷いたその時、俺の左手首で乾いた音が鳴った。
ピシリ。
ガラスに細い亀裂が入るような音。視線を落とすと、亡き妻から贈られた安物の腕時計の風防に、幾筋もの白い線が走っていた。秒針が狂おしい速度で回転を始め、内部から淡い燐光が漏れ出している。
妻が遺した、俺の過剰な魔力を抑え込むための制御具。それが、俺の怒りと決意に呼応して限界を迎えつつあった。
手首から全身へと、堰を切ったように熱い奔流が駆け巡る。視界が研ぎ澄まされ、空間に漂う魔力の流れが、細い糸のように鮮明に見え始めた。
「愛海、まずは外枠を固定しろ。拡散を防ぐ!」
「任せて! ――『光条結界、展開』!」
愛海が叫ぶと同時に、彼女の足元から巨大な幾何学模様の魔法陣が広がった。眩い純白の光の柱がコアの周囲を取り囲むように幾本も立ち昇り、膨張しようとする赤黒い熱エネルギーを力づくで押し留める。
『ギギギギギッ!』
コアがきしむような異音を立て、光の檻の内側で激しく暴れ回る。衝撃波が幾重にも押し寄せ、愛海の小さな足がズザザと後方へ押し戻された。
「くっ……すごい力……!」
愛海が歯を食いしばる。額に玉の汗が浮かんでいた。
「よく耐えた。次は俺の番だ」
俺はボールペンのキャップを弾き飛ばし、右腕を軽く引いた。
会社で日々こなしている、膨大な不要書類の細断処理。刃の隙間に紙を通し、均等な幅で瞬時に切り刻むあの感覚を、脳裏に思い浮かべる。
ペン先を空間に向けて、水平に一閃させた。
不可視の切断線が虚空を走り、大気を両断する。愛海の結界の内側で暴れ狂う高密度の熱波が、寸分違わぬ幅で幾重にもスライスされ、エネルギーの凝縮度が強制的に削ぎ落とされていく。
「な、なんだあれは……!?」
後方でへたり込んでいた獅子王が、目を見開いて叫んだ。
「空間そのものを細切れに刻んでやがる……!? コアの放出した熱量が、均等に裁断されて霧散していく……!」
「獅子王さん、見ている暇があるなら旅館に連絡を!」
俺はペンを振るい続けながら怒鳴った。
「チェックインが少し遅れると伝えてくれ! 夕食の配膳は予定通りでいいとな!」
「この状況で旅館の心配をしてんのかよ!?」
獅子王のツッコミを聞き流し、俺はさらに手首の回転を速める。縦、横、斜め。空中に網目状の切断格子を張り巡らせ、コアから噴き出す膨大な魔力を片っ端から処理していく。
愛海の結界が外枠を支え、俺の切断が内側の圧力を逃がす。完璧な連携だった。暴走していた赤黒い光球は徐々にその輪郭を縮め、収束へ向かっているように見えた。
これならいける。あと少しで完全に沈静化できるはずだ。
そう確信した矢先だった。
『――ゴォォォォォッ!!』
耳を塞ぎたくなるような重低音が、大地の底から響き渡った。
縮小しかけていたコアの中心部が、禍々しい紫色へと変色する。ダンジョンの深部から、地上へ向けてさらなる魔力が奔流となって吸い上げられていた。
「しまっ……! 地下の脈動と直結しているのか!?」
コアの出力が、先ほどまでの倍以上に跳ね上がる。膨れ上がったエネルギーの塊が、愛海の光の檻を内側から猛烈な勢いで押し広げ始めた。
バリバリと、空間が割れる不穏な音が響く。
「きゃあっ!?」
愛海が衝撃に耐えきれず、膝をつきそうになった。結界の光に無数の亀裂が走り、漏れ出した高熱の風が俺たちの服を焦がす。
俺の腕時計のガラスが、さらに派手な音を立てて砕け散った。破片が夜風に舞う。
「パパ、抑えきれない……! 押し戻される……!」
愛海が必死に腕を伸ばすが、紫色の光球は二人の防壁を紙屑のように押し破りながら、破滅的な膨張を再開していた。
周囲の岩盤が飴細工のように溶け落ち、凄まじい熱量が俺の全身を焼きにかかる。
あと数秒で結界が完全に崩壊する。そうなれば、この山はおろか、愛海と過ごすはずだった週末のすべてが、一瞬で消し炭になる。
「キャンセル料を満額取られて……たまるかぁっ!」
俺は折れそうな身体を踏みとどまらせ、砕けた腕時計の手首を強く握りしめた。だが、荒れ狂うコアの熱量は、依然として俺たちの力を呑み込もうと膨れ上がり続けていた。




