第24話
地鳴りのような咆哮とともに、六本の剛腕が一斉に振り下ろされた。
空気が圧縮され、逃げ場のない衝撃波となって俺たちの頭上へ叩きつけられる。周囲のアスファルトはめくれ上がり、後方に待機していた防衛隊の車両が木の葉のように吹き飛んだ。トップギルドの精鋭たちですら膝をつき、立ち上がることすらできない。数万のモンスターの群れが街の境界線を押し破り、温泉街全体が壊滅の危機に瀕していた。
「危ないッ、愛海ちゃん!」
倒れ伏した獅子王が叫ぶ。
だが、愛海は逃げなかった。俺の背中を信じるように、しっかりと足を踏みしめている。
「……業務妨害もいい加減にしなさい」
俺は右腕を軽く横に振った。安物の腕時計からじわりと熱が広がり、皮膚の内側で抑え込まれていた力が外の世界へと解放される。
振り下ろされた巨大な六つの拳に対し、俺は油性ペンを握った右腕をただ垂直に跳ね上げた。
パァン、と乾いた破裂音が響く。
衝撃波は真っ二つに裂け、ボスの剛腕は手首から先をごっそりと刈り取られて中空を舞った。紫色の体液が噴き出す暇すら与えず、断面はガラスのように平滑に切断されている。
ボスの赤い複眼が信じられないものを見るように見開かれた。
「ぎゃあああああっ!?」
「パパ、すごい! わたし、足止めするね!」
愛海が愛用の杖を高く掲げた。小学生とは思えない濃密な黄金の光が、彼女の小さな体から溢れ出す。
「天の網、ぜんぶ捕まえて! ライト・プリズン!」
愛海の高らかな詠唱とともに、大地から無数の光の鎖が噴き出した。暴れ狂うボスの巨体だけでなく、周囲を取り囲んでいた無数の配下モンスターたちまでもが一瞬にして拘束される。神聖な光が魔獣たちの足元を焼き、動きを完全に封じ込めた。
「うそだろ……あの規模の広域拘束魔法を、ノータイムで……!?」
獅子王が愕然と目を見張り、呻くように声を絞り出す。
「愛海、ナイスサポートだ」
「えへへ、パパ、今だよ!」
愛海が満面の笑みで振り返る。その笑顔を曇らせるわけにはいかない。
俺は息を深く吸い込み、油性ペンのキャップをカチリと鳴らした。普段なら絶対に人前で見せない、全力の事務処理だ。
「——大量廃棄処理、一括実行」
俺は空中に向かって、ペン先を縦横無尽に走らせた。指先が描く黒い軌跡は、そのまま空間そのものを切り刻む刃となる。
一閃、二閃、三閃。
目に見えぬ幾何学模様が夜空に刻まれた瞬間、拘束されていた数万のモンスター群が一斉に均等な立方体へと細断された。肉片すら残らない。塵のように細かく分解された魔獣の群れは、夜風に煽られてサラサラと光の粒子となって消滅していく。
残されたボスモンスターは、圧倒的な蹂躙を前に恐怖で後退しようとした。六本の腕を失い、傷口から黒煙を噴き上げながら、必死にダンジョンコアの方向へ逃れようとする。
だが、もう遅い。
俺はすでにボスの懐へと踏み込んでいた。
「週末の予定を狂わせた罪は、残業代程度じゃ購えないぞ」
冷徹に言い放ち、ペン先をボスの眉間へ突き刺す。空間を断絶する力がボスの頭部から胴体へと一気に走り抜け、巨大な肉体を内側から完全に解体した。
ズズゥン……と重い地響きを立てて、災厄の巨躯が崩落し、そのまま黒い霧となって霧散していった。
静寂が訪れる。
あれほど立ち込めていた瘴気は跡形もなく消え去り、周囲の空間には夜空の澄んだ星明かりだけが戻っていた。
「た、助かったのか……? 俺たち……」
「あの化け物どもが、たった二人で……」
へたり込んでいたトッププロたちが、信じられない面持ちで俺たちを見上げている。獅子王に至っては、両手を地面についたまま、神仏を拝むような目でこちらを凝視していた。
「師匠……いや、結城さん……あんた、一体どれだけの化け物なんだよ……」
「獅子王さん、怪我人を先に救護班へ。あと、瓦礫の撤去も急いでください」
俺は事務的に指示を出しながら、急いで胸ポケットからスマートフォンを取り出した。画面をタップし、旅行サイトの予約確認ページを開く。
「パパ、お疲れ様! かっこよかったよ!」
愛海が駆け寄ってきて、俺の腰にしがみついた。小さな手の温もりが、張り詰めていた神経を急速に緩めてくれる。
「愛海もお見事だったぞ。あのタイミングの拘束は完璧だった」
「本当!? パパのお役に立ててよかった!」
娘の頭を撫でながら、俺はスマートフォンの時計表示に目を落とした。
チェックイン予定時刻まで、あと二十五分。
「よし、道路の安全は確保された。車に戻って旅館へ向かえば、夕食の開始時間にはギリギリ間に合うな」
「やったー! 温泉、間に合うんだね!」
愛海がぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ。周囲の探索者たちが「日本が救われたのに、旅館の心配……?」「あの人たち、本気で言ってるのか……?」とざわついているが、俺にとっては国家の存亡よりも愛海との旅行のほうが遥かに重要だ。
俺は油性ペンを胸ポケットにしまい、愛海の手を取って歩き出そうとした。
その時、足元から不気味な重低音が響いた。
グラリと視界が揺れる。
「……地震?」
愛海が不安そうに俺の袖を握りしめた。
いや、違う。自然の揺れではない。地面の奥底から、刺すような魔力の波動が間欠泉のように噴き上がっている。
振り返ると、ボスが消滅したはずの中心部——ダンジョンコアが鎮座していた大穴の底が、禍々しい赤黒い光を放ちながら膨張を始めていた。
「おい、嘘だろ……!? コアが、収縮せずに膨らんでるぞ!」
獅子王の悲鳴に近い声が響く。
ボスを失ったダンジョンコアは、本来なら徐々に魔力を失って活動を停止するはずだ。しかし、目の前のコアは制御を失った原子炉のように脈打ち、周囲の空間を激しく歪ませていた。
『キュイイイイイン』という耳障りな高周波が夜空に木霊する。
「コアの臨界暴走だ……! ボスを倒されたショックで、溜め込んだ全エネルギーを自爆させようとしてやがる! この規模じゃ、温泉街どころか山一つ消し飛ぶぞ!」
探索者たちから絶望の叫びが上がった。
赤黒い光球はみるみるうちに巨大化し、大気を焦がす熱波がここまで届いてくる。ガイドブックに載っていた『最近湧き出たばかりの秘湯』の源泉は、まさにこのコアの直上に位置していた。
もしこれが爆発すれば、街が消えるだけでなく、予約した旅館も、楽しみにしていた温泉も、愛海との週末のすべてが灰燼に帰す。
「パパ……」
愛海が不安げに俺を見上げる。
俺の手首で、腕時計の秒針がチクタクと無慈悲に時を刻んでいた。夕食の開始時間まで、猶予はほとんど残されていない。
「大丈夫だ、愛海」
俺は愛海の手を優しく握り返し、暴走するコアを静かに見据えた。
「パパが、絶対に温泉旅行を守ってみせる」




