第23話
湯煙と硝煙が混ざり合う中、あたりを埋め尽くしていた魔獣の群れは、目に見えて数を減らしていた。
愛海が放つ光の奔流が空を薙ぎ払い、取りこぼされた巨躯の獣たちを、俺が手元の油性ペンで淡々と処理していく。空中に引いた幾筋もの不可視の切断線が、迫り来る脅威をサイコロステーキのように均等に切り分けて地面へと沈めていく。長年培った仕分けの要領だ。乱雑な書類の山を片付けるのと何ら変わりはない。
「……すげえ。本当に、親子揃って化け物かよ」
膝をついていた獅子王が、震える声でそう呟いた。黄金の髪を汗で濡らし、愛用の大剣を杖代わりにしながら、呆然とこちらを見上げている。
周囲に展開していた探索者たちも同じだった。つい先ほどまで死を覚悟していた屈強な男たちが、武器を下ろし、ぽかんと口を開けて立ち尽くしている。彼らの瞳に宿っていた絶望の色は、いつの間にか絶対的な安心感と畏怖へと塗り替えられていた。
「パパ、あっちの広場のも全部お片付けしたよ!」
愛海が両手を広げて駆け寄ってきた。お気に入りのパーカーの裾を揺らし、息一つ乱れていない。髪を結んだゴムが少しだけ解けかけていたので、俺はしゃがみ込んで直してやった。
「よくやったな、愛海。丁寧に仕分けできていたぞ」
「えへへ、パパに教えてもらった通りにやったもん」
得意げに胸を張る娘の頭を軽く撫でる。周囲の探索者たちが「あんな大魔法を『お片付け』だと……?」「あのお父さん、何者なんだ……」とざわめいているが、今はそんな雑音を気にしている場合ではなかった。
俺は左手首の時計に目を落とす。文字盤の針は、午後四時二十五分を指していた。五分ほど遅れる癖のある安物だが、それを差し引いても猶予はあまりない。
予約した旅館のチェックイン予定時刻は午後五時だ。夕食の開始時間は午後六時半。もしこのまま遅延が発生すれば、楽しみにしていた豪華な会席料理の提供順序が狂い、宿のスタッフに多大な迷惑をかけることになる。
社会人として、予約時間を無断で破ることなど断じて許されない。
「おい、獅子王さん」
俺が声をかけると、獅子王はビクッと肩を跳ね上がらせて直立不動の姿勢を取った。
「は、はいっ! 何でしょうか師匠!」
「宿に一本、電話を入れてもらえないだろうか。『少し道が混み合っておりまして、三十分ほど到着が遅れそうです』と。フロントの方に角が立たないよう、丁重に伝えてほしい」
「……へ? や、宿の予約ですか?」
獅子王は目を白黒させ、顎が外れそうなほど口を開けた。
「この未曾有の大災害の真っ只中で、何を気にしてるんですかあんたは!? 今まさに日本を救った英雄なんですよ!? 国中がお二人を救世主として崇めるレベルの偉業なんすよ!?」
「救世主だろうが何だろうが、客側の都合で無断キャンセルや遅刻をするのはマナー違反だ。それに、温泉の源泉がこんな騒ぎで濁ってしまっては困る。効能が薄れたら何のために有給を申請したのか分からなくなるだろう」
大真面目に答えると、獅子王は頭痛に耐えるように額を押さえた。
「温泉の効能……。いや、確かにこの湧き出たばかりの湯は素晴らしいですけど、今それどころじゃ……」
その時だった。
ドォォォォン……!
大気を揺るがす重低音が、新源泉の真下、大地にぽっかりと開いた超大型ダンジョンの奈落から響き渡った。先ほどまでの振動とは比較にならない。立っている足元から、ビリビリと痺れるような衝撃が伝わってくる。
温泉街の石畳が蜘蛛の巣状に割れ、噴き出す湯気が一瞬で黒い瘴気へと染まっていく。
「な、なんだ……!? まだ何かが這い上がってきやがるのか!?」
獅子王が慌てて大剣を構え直した。周囲の探索者たちにも、再び緊張が走る。
奈落の奥底から姿を現したのは、山のように巨大な甲殻を纏った異形の王だった。黒光りする六本の剛腕と、禍々しい紅蓮の瞳。空間そのものが軋みを上げるほどの圧倒的な魔力圧が、あたり一帯を押し潰すように広がっていく。吸い込む空気すら重く、息苦しさを覚えるほどだ。
「うそだろ……。災害指定レベルを遥かに超えてやがる……。こんな怪物を前にして、俺たちは……」
獅子王の足が震えていた。歴戦の探索者たちすら、その圧倒的な存在感を前にして戦意を削がれ、後退りを始めている。
だが、俺の意識にあったのは、別のことだった。
ボスの足元から噴き出す黒い瘴気が、せっかくの新鮮な源泉を黒く濁らせていく。さらには、周辺の舗装道路が派手に崩落し、宿へと続く唯一の進入路を塞ぎかけていた。
「……困るな」
俺は小さく溜息をついた。
「これ以上道路を壊されたら、車が通れなくなる。夕食どころか、今夜の宿泊自体が危うくなるじゃないか」
「パパ、あのでっかいの、温泉をいじめてるよ! それに道路も壊しちゃってる!」
愛海がぷくっと頬を膨らませて怒りを露わにした。我が家にとって、楽しみにしていた家族旅行を邪魔されることほど重大な損失はない。
「ああ、許しがたい暴挙だな。迅速に片付けよう」
俺が油性ペンのキャップを外そうとした、その時だった。
チチチ……と、微かな金属の駆動音が左手首から響いた。
「……ん?」
視線を落とすと、左腕に巻きつけられた愛用の腕時計が、ジワリと熱を帯び始めていた。亡き妻が遺してくれた、少し狂いやすい安物の時計。
巨大なボスの放つ超高密度の魔力圧に呼応するように、文字盤の奥で何かの機構がカチリと外れるような音がした。
(……熱い?)
ただの金属の熱伝導ではない。皮膚を通して、体内の奥深くへと何かが流れ込んでくるような感覚。いや、逆だ。俺の体の内側に澱のように溜まっていた、自分でも把握していなかった異常な力が、時計のリミッターを押し広げて外へと溢れ出そうとしていた。
空気が震える。
俺の足元を中心に、無色透明の波紋が同心円状に広がっていった。ボスの放つ禍々しい瘴気すら、その波紋に触れた瞬間に綺麗さっぱりと掻き消えていく。
「し、師匠……? あんた、一体何を……」
背後で獅子王が掠れた声を漏らす。
ボスの紅蓮の瞳が、初めて明確な警戒と恐れを帯びて、こちらを凝視した。六本の剛腕が振り上げられ、空気を切り裂く轟音が鳴り響く。
だが、俺の手首の熱は、さらにその温度を増していた。
「愛海、少し下がっていなさい」
「うん! パパ、やっつけちゃって!」
娘の元気な声に背中を押され、俺は油性ペンを握り直した。文字盤の秒針が、普段の狂いを忘れたかのように、恐ろしいほどの精密さで時を刻み始めている。
宿のチェックインまで、あと三十五分。
夕食のステーキを美味しくいただくためにも、これ以上の残業は一分たりとも許されない。




