第22話
地鳴りが温泉街の石畳を容赦なく揺らし、湯煙の立ち上る風情ある街並みを一瞬で蹂躙していった。
「ぐあっ……くそっ、キリがねえぞ!」
前方で、獅子王凱が怒声を響かせながら大剣を薙ぎ払っていた。
巨大な刀身が黒光りする甲殻を叩き割り、甲高い破砕音とともに甲虫型の異形を三体同時に吹き飛ばす。だが、仕留めた端から背後の湯滝を突き破り、数十、数百という黒い波が雪崩のように押し寄せてくる。
逃げ惑う観光客の悲鳴が谷間に反響していた。土産物屋の看板がへし折れ、名物の温泉饅頭の蒸し器が無残に転がる。平和だった行楽地は、わずか数分で阿鼻叫喚の坩堝へと姿を変えていた。
「おい、避難誘導を急げ! 俺がここで食い止める!」
獅子王の全身から立ち上る紅蓮の闘気が、群がる魔獣を焼き払う。トップギルドの主力として恥じない見事な太刀筋だ。しかし、相手は万を超える大軍勢である。個々の実力で勝っていても、面で押し寄せる暴力の前にはじわじわと後退を余儀なくされていた。分厚い鎧の隙間から、獅子王の荒い息遣いが漏れ聞こえる。
このままでは数分と持たずに防衛線が決壊し、温泉街そのものが地図から消滅するだろう。
俺は右手に握ったボールペンの軸を、親指で軽く弾いた。
視界の隅に映る温泉旅館の看板を見つめる。樹齢数百年のヒノキ風呂。夕食に出るはずの極上黒毛和牛の陶板焼き。娘と一緒に選んだ、窓から山並みが一望できる最上階の和室。
数週間前から業務を前倒しで片付け、完璧なスケジュールを組んで手に入れた、かけがえのない休日だった。
「せっかくの温泉旅行が……」
思わず口から漏れ出た呟きは、周囲の喧騒にかき消されるほど小さかったはずだ。
だが、すぐ隣にいた愛海にはしっかりと届いていた。
「パパ、私がやっつける!」
愛海がぎゅっと小さな両手を握りしめ、力強く宣言した。
その瞳には恐怖の色など微塵もない。父親と一緒に過ごす大切な時間を理不尽に奪われそうになっていることへの、純粋な怒りと使命感が宿っていた。
いつもなら、危険な現場に子供を立たせるなど言語道断だと止める。だが、いま目の前に広がっているのは、我が家の平穏な旅路を力ずくで踏みにじろうとする巨大な業務妨害そのものだ。
「……よし、愛海」
俺は娘の頭に優しく手を置き、静かに告げた。
「定時までにすべてのトラブルを片付けるぞ。夕食の時間は厳守だ」
「うんっ!」
愛海が満面の笑みで頷いた瞬間、周囲の大気が一変した。
幼い身体から解き放たれたのは、戦場すべての熱量を奪い去るほどの超高密度な魔力だった。青白い燐光が渦を巻き、彼女の背後に幾重もの巨大な魔法陣が重なり合って展開していく。精密な幾何学模様が天を覆い尽くし、谷間を昼間のような輝きで照らし出した。
「な……なんだ、この魔力量は……!?」
前線で踏みとどまっていた獅子王が、思わず後ろを振り返って目を見張る。
「みんな、どいてー!」
愛海が可愛らしい声で叫びながら、空に向けて両手を掲げた。
展開された魔法陣から、無数の光の槍が生成される。一本一本が上位魔法に匹敵する威力を秘めた光線が、雨のように、いや滝のように降り注いだ。
轟音が谷を埋め尽くす。
先頭を走っていた甲虫の群れが、悲鳴を上げる間もなく光の奔流に呑み込まれた。大地が爆熱で赤く染まり、強固な外殻を誇っていた魔獣たちが、文字通り影も残さず蒸発していく。たった一撃で、前線数百メートルの敵影が消滅した。
だが、ダンジョンコアから湧き出る敵の総数はあまりにも膨大だった。愛海の広域魔法の着弾地点を迂回し、左右の岩肌を這い上がった別動隊が、鋭い鎌を振り上げて愛海の頭上へと急降下してくる。
射程外からの死角を突いた挟撃。
「愛海ちゃん、危ねえ!」
獅子王が叫び、剣を引こうとするが間に合わない。
俺はため息を一つ吐き、左腕の安物の腕時計に意識を向けた。リューズを微かに緩め、体内で規則正しく循環していた力を、指先のボールペンへと滑らかに流し込む。
空中に向けて、ただペン先を水平に滑らせた。
オフィスの書類を仕分けするように、横一直線に、迷いなく。
音が消えた。
愛海めがけて落下していた数十体の魔獣が、空中でピタリと静止する。次の瞬間、引かれた直線の軌跡に沿って空間そのものが綺麗にズレを生じさせた。
スパッと、均等な厚みで裁断される肉体。
断面は寸分の狂いもなく平滑で、落ちてきた魔獣たちは血の一滴すら流すことなく、細断された紙屑のようにサラサラと灰へと崩れ去っていった。
「え……?」
獅子王の喉から、間の抜けた声が漏れる。
「愛海、十時の方向から増援が来ている。少し散らばっているから、面で焼いてくれ」
「はーい! えーいっ!」
俺の指示に合わせ、愛海が指先を向ける。再び空が発光し、山腹を覆い尽くしていた魔獣の群れが黄金の爆炎に包まれた。
吹き飛ばされて残った強靭な大型種が、傷だらけになりながらも地を蹴って突進してくる。それに対し、俺はペン先で空中に素早くチェックマークを描いた。
不可視の切断刃が交差し、突進してきた大型種の巨体が縦横に四等分され、勢いのまま滑り落ちて消滅する。
「二時の方向、岩陰に三匹隠れている」
「見つけた! パパ、いっくよー!」
愛海が放つ光弾が岩盤ごと標的を粉砕し、跳ね上がった破片を俺が最小限のペンの動きで粉微塵に切り刻む。
完璧な連携だった。
愛海が広大な範囲を圧倒的な出力で薙ぎ払い、撃ち漏らした細かな残敵や死角からの奇襲を、俺が的確に処理していく。無駄な動きは一切ない。溜まった未決書類の山を、上から順番に高速で片付けていく作業と何ら変わりはなかった。
数万と見立てられた絶望的な大軍勢が、まるでベルトコンベアに乗せられた不良品のように、次から次へと塵に還されていく。
「う、嘘だろ……なんだよこれ……」
大剣を構えたまま立ち尽くす獅子王が、震える声で呟いていた。
彼だけではない。後方で避難を急いでいた探索者たちや街の人々も、足を止めて呆然とこの光景を見上げていた。
小学生の少女が天変地異のような魔力を操り、くたびれたスーツ姿の父親がボールペンを振るうだけで空間を切り刻んでいる。それは常識で測れる戦いなどではなく、理不尽なまでの圧倒的な制圧力だった。
黒く塗りつぶされていた視界が、みるみるうちに晴れ渡っていく。
谷間を埋め尽くしていた魔獣の大半が消え去り、焦土と化した大地に、久しぶりの青空が覗いた。
「ふふん、パパ! わたし、上手にできたでしょ?」
愛海が両手を腰に当て、胸を張って見上げてくる。
「ああ、満点だ。よく頑張ったな」
俺が微笑んで頭を撫でてやると、愛海は嬉しそうに目を細めた。
戦場を支配していた絶望の空気は完全に霧散し、あたりには確かな希望の光が差し込んでいた。周囲の探索者たちからも、信じられないものを見るような、それでいて救われたことへの安堵の息が漏れ始める。
だが、俺たちの戦いはまだ完全には終わっていなかった。
ゴゴゴゴ……と、地底の奥深くから、先ほどまでとは比べ物にならない重苦しい振動が伝わってきた。
湯滝の奥、新しく口を開けた超大型ダンジョンの深淵から、禍々しい赤い光が脈打つように漏れ出している。群れを統率していた元凶が、いまだ底で蠢いている気配があった。
「パパ、まだ奥に大きいのがいるみたい」
愛海が表情を引き締め、ダンジョンの入り口を指差した。
「そうだな。チェックインの時間まで、まだ少し余裕はある」
俺は腕時計の針を確かめ、再びペン先を静かに構え直した。
すべてを片付けて温泉に浸かるまで、父親の有給休暇防衛戦に妥協の二文字は存在しない。




