第21話
深夜の東名高速を東へと疾走するSUVの車窓からは、遠く立ち上る朱色の燐光がはっきりと見えていた。
「……おいおい師匠、ありゃ冗談じゃねえぞ。観測班が言うには、地下深層部からのエネルギー流出が止まってねえらしい」
ハンドルを握る獅子王凱が、バックミラー越しに後部座席を伺いながら引きつった声を漏らす。派手な金髪をかき上げるその指先には、いつもの軽薄な余裕が微塵も感じられない。
「獅子王さん、車内では静かにしてください。愛海が起きてしまいます」
俺は助手席から振り返り、後部座席でブランケットに包まってすやすやと寝息を立てる娘の寝顔を確認した。小さな手には、昨日からずっと離さずに持っている温泉旅館のパンフレットが握られている。
「いや、静かにって言われてもよ! あんな規模の魔力反応、首都圏じゃここ十年観測されてねえんだぞ? ギルドの本隊も召集かかってるらしいし、俺たちだけで突っ込むのは——」
「予約を取り消す気はありません」
俺は即座に遮った。
「三ヶ月前からこの日を心待ちにしていたんです。料理長おすすめの特選会席プラン、露天風呂付き離れ、チェックインは午後三時。全て予定通りに進行します」
「温泉のために世界の危機に突撃するやつがあるかよ……!」
獅子王の頭を抱えるような愚痴を聞き流しながら、俺は左手首の時計に目を落とした。亡き妻が初任給で買ってくれた、日に数秒ほど遅れて進む古い革ベルトの時計。チクタクと刻まれる秒針の音だけが、深夜の車内に規則正しいリズムを保ち続けていた。
夜明けを迎える頃、車は目的地である山間の温泉街へと滑り込んだ。
朝霧の立ち込める街並みは、一見すると長閑な観光地の風情を保っているように見えた。だが、路地を行き交う地元住民や観光客の足取りはどこか落ち着かず、空気の端々に焦げたような硫黄の匂いと、微かな地鳴りが混ざり合っている。
「うーん……パパ、もう着いたの?」
目を擦りながら、愛海がもぞもぞと起き上がった。二つに結んだ長い髪が寝癖で少し跳ねている。
「おはよう、愛海。予定通り到着したよ。まずは宿に荷物を預けて、それから足湯に行こうか」
「わあ、ほんと!? パパ、わたしパンフレットで見た温泉たまご食べたい!」
満面の笑みを浮かべる愛海を見て、俺の頬も自然と緩む。この笑顔を見るために、俺は今週のノルマを定時内で全て片付け、徹夜同然で車を走らせてきたのだ。誰にも邪魔はさせない。
「はいはい、愛海ちゃんのお荷物は俺が全部持ちますよっと。……ほら師匠、あそこが宿の玄関だ」
獅子王が荷台から大型のトランクケースを軽々と担ぎ上げ、俺たちの前を歩く。彼が荷物持ち兼護衛としてついてきたのは、ギルド本部への報告を先延ばしにしてでも俺の動向を見届けたいという下心からだろうが、無償のポーターとしては非常に優秀だ。
木造の重厚な佇まいを見せる老舗旅館の暖簾をくぐろうとした、その刹那だった。
——ドォォォォンッ!!
耳を劈くような爆発音が、温泉街の背後にそびえる渓谷から響き渡った。
足元の大地が激しく波打ち、敷き詰められた石畳が悲鳴を上げて軋む。愛海が小さく悲鳴を上げて俺の裾を掴んだため、俺は即座に重心を落とし、娘の肩をしっかりと抱き寄せた。
「地震……!? いや、違う、この揺れ方は!」
獅子王が鋭い目つきで荷物を置き、背中の大剣の柄へと手を伸ばす。
温泉街の最奥、立ち入り禁止の看板が掲げられていた「最近湧出が確認された新源泉」の方角から、黒煙混じりの巨大な間欠泉が天を衝くように噴き上がっていた。
いや、それは湯気などではなかった。
大気中に立ち込めるのは、鼻を突く猛烈な瘴気と、赤黒い魔力の奔流。ガイドブックに『美肌効果抜群の奇跡の湯』と小さく紹介されていた新源泉の正体は、湧き水などではなく、地下で異常発達を遂げた超大型ダンジョンコアが放熱していたエネルギーそのものだったのだ。
「う、うそだろ……源泉の真下、丸ごとダンジョンの吹き抜けになってやがったのか!?」
獅子王が蒼白な顔で叫ぶ。
源泉の岩肌が粉々に弾け飛び、地底から巨大な空洞が口を開けた。
そこから漏れ出す魔力の圧迫感は、周囲の木々を一瞬で枯らし、空を不気味な暗雲で覆い尽くしていく。
「きゃああっ!」「逃げろ、モンスターだ!!」
宿のロビーから飛び出してきた宿泊客や、土産物屋の店主たちが一斉に悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。温泉街の穏やかな静寂は、一瞬にして完全な狂乱へと塗り替えられる。
空洞の奥底から、無数の紅い光が灯った。
ギチギチと硬質な甲殻を擦り合わせる不快な音。ドロドロとした熱泥を撒き散らしながら這いずり出てくる巨大な甲虫型モンスターの群れ。その数は数十、数百ではきかない。地底の闇を埋め尽くすように、無尽蔵の黒い津波となって溢れ出してくる。
「日本最大級のスタンピードだ……! 冗談じゃねえ、こんなのトップギルドの主力部隊が総出で迎撃しても防衛線を維持できるかどうか怪しいぞ!?」
獅子王が歯を食いしばり、大剣を引き抜いて構える。その筋肉が過度の緊張で強張っていた。
モンスターの群れは、飢えた獣のように温泉街へと雪崩れ込んでくる。建物の木壁が容易く薙ぎ倒され、土煙が視界を遮る。最前線にいた観光客の数名が腰を抜かし、迫り来る巨大な鋏を前に絶望の叫びを上げていた。
「パパ……あの人たち、あぶないよ……!」
愛海が俺の腕の中で、恐怖を堪えながら必死に訴えかけてくる。その瞳には、誰かを助けたいという強い光が宿っていた。
俺は愛海の頭にそっと手を置き、優しく微笑みかけた。
「大丈夫だよ、愛海。パパがついている」
愛海から手を離し、立ち上がって正面を見据えた。
観光客の悲鳴。破壊される温泉街の風情ある建物。そして何より、あと数時間でチェックインするはずだった老舗旅館の看板が、モンスターの巨体によって無残にも踏み折られる光景。
俺の胸の奥底で、冷え切った事務的な怒りが静かに、だが確実に点火した。
この旅行のために、俺はどれほどの調整を重ねてきたと思っているのか。
有給申請を課長に頭を下げて通し、溜まった書類を規定の三倍の速度で片付け、愛海と何度もガイドブックを読み込んで楽しみにしていたのだ。
それを、得体の知れない虫ケラどもの突発的な不祥事で台無しにされてたまるか。
「獅子王さん」
「は、はいっ!?」
俺の平坦な声に、獅子王がびくりと背筋を伸ばした。
「愛海から目を離さないでください。荷物の防衛も頼みます」
「え? あ、おい師匠、まさか一人で前に出る気か!? あの数を見ろよ、一万や二万じゃ済まねえぞ!」
俺は答えず、スーツの内ポケットから一本の黒い油性ボールペンを取り出した。会社のデスクから持参した、替芯を三回交換して使い倒している愛用品だ。
カチリ、と静かなノック音が響く。
左手首の古い時計が、チクタクと狂いのない秒針の音を刻んでいる。そのリューズに指先を添え、僅かに緩めるような感覚を意識する。体内で淀んでいた魔力の奔流が、皮膚の下で規則正しい水流へと整えられていく。
「業務に支障をきたす突発的なトラブルは、発生源から迅速に処理するのが基本です」
大地を揺らし、すべてを呑み込もうと迫り来るモンスターの大津波を前にして、俺はペン先を水平に構え、静かに一歩を踏み出した。




