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第20話

低級ダンジョンに、本来いるはずのない上位モンスターが出現した。生態系の異常は、もはや確定的だ。

裏組織の連中は片付けた。目の前の脅威も排除した。

だが、この異常事態の根本原因はいったい何なのか。旅行先の安全を確保するためには、まだ片付けなければならない仕事が残っているようだ。俺は小さくため息をつき、愛海の手をしっかりと握り直した。


「師匠……いや、あんた……」


背後で膝をついていた獅子王が、震える声で絞り出した。派手な金髪は土埃にまみれ、筋骨隆々の肉体は小刻みに震えている。トップギルドの若きエースとして名を馳せる彼が、完全に腰を抜かしていた。


他のプロ探索者たちも同様だ。完全に言葉を失い、地面に額を擦りつける勢いで平伏している。


「ただのプラスチックのペンで、上位のキマイラを一撃って……一体何者なんだよ」


「ただの会社員だよ。それより、痛いところはないか。無事なら早く帰ろう。明日は仕事が詰まってるんだ」


俺は胸ポケットにペンを戻し、呆然とする彼らを残してダンジョンを後にした。


プロの探索者から見れば、俺の行動は理解の範疇を超えているらしい。だが、俺にとって重要なのはモンスターの強さではなく、明日の業務を定時で終わらせるためのスケジュール管理だった。


「パパ、すごかったね!」


愛海が無邪気な笑顔で見上げてくる。


「ああ。でも、パパの強さは秘密だぞ。目立つと、また面倒な手続きが増えるからな」


「うん、わかった!」


結んだ髪を揺らして頷く娘の手を引きながら、俺は明日の業務の段取りを頭の中で組み立てていた。


◆ーーーー◆


翌日。週末の家族旅行を明日に控え、俺は総務部のデスクで猛烈な勢いで残務を処理していた。


未決書類の山を左手で掴み、右手でインデックスへ滑り込ませる。指先が空気を切り裂くような速度で動き、紙の束が次々と五十音順のファイルに吸い込まれていく。


「結城……君、手がブレて見えないぞ……」


背後から、山田課長が胃のあたりを押さえながら声をかけてきた。少し薄くなった頭髪には、冷や汗が滲んでいる。


「気のせいです。明日の午後から有給をいただいているので、今日中にすべて終わらせておかないと」


「いや、処理速度が異常だろ。細断機もさっきから悲鳴を上げてるし……」


課長の言う通り、俺の無意識のスキルが発動しているらしい。不要な書類を指先で弾くだけで、空間そのものが断裂し、均等なサイズに裁断されてゴミ箱へ落ちていく。業務で培った手際にすぎないが、週末の予定を死守するためには、ここで手を止めるわけにはいかない。


「課長、来週分の会議資料も机に置いておきました。備品の棚卸しリストも更新済みです。これで心置きなく休めます」


「お、おう……助かるが、あまり無理はするなよ。君が倒れたら、あの子が悲しむぞ」


山田課長は引きつった笑顔で頷いた。優秀だが有給を取りすぎる部下として迷惑をかけている自覚はある。それでも、家族との時間は何物にも代えがたい。


伴侶を失ったあの日から、男手一つで育ててきた愛海の笑顔を守ることが、俺の最優先事項なのだ。父親として十分やれているかという不安は常に付き纏うが、せめて週末の旅行くらいは完璧にこなしたい。


定時まで残り十分。完璧な退社準備が整ったところで、デスクの電話が鳴った。


表示された番号はダンジョン庁。嫌な予感がして受話器を取る。


「あ、結城様でしょうか。窓口の佐藤です」


「お世話になっております。何か不備がありましたか?」


「いえ、手続きではなく……実は、ご予定の旅行先周辺のダンジョンが、明日から『立ち入り制限』になる可能性が高くなりまして」


「……はい?」


電話口の佐藤さんは、明らかにパニックを起こしていた。普段はマニュアル通りの業務的な敬語を崩さない彼女が、早口でまくしたてる。


「生態系の異常が観測されたことに加え、海外の非合法ギルドが周辺に潜伏しているという情報が入ったんです。彼ら、娘さんの規格外の才能に目をつけ、拉致を企てているという噂もあって……どうしましょう、私、マニュアルにない事態で……!」


「落ち着いてください、佐藤さん。深呼吸を」


俺は努めて冷静な声で応じた。


「す、すみません……でも、このままでは旅行どころか、娘さんの身に危険が……」


「情報提供、助かります。あとの対応はこちらで引き受けますので、ご安心を」


電話を切った後、俺は深くため息をついた。


海外の裏組織。愛海を狙う連中が、よりにもよって俺たちの旅行先周辺で暗躍している。そのせいで立ち入り制限がかかれば、宿はキャンセル、愛海が楽しみにしている湧いたばかりの温泉もパーだ。


これに加えて、俺の貴重な有給まで無駄になる。


娘の平穏と休日の予定を脅かす連中に対し、俺の奥底で静かな怒りが沸点に達した。


◆ーーーー◆


その日の深夜。


愛海がベッドで寝静まったのを確認し、俺はスーツに着替えて家を出た。


向かった先は、情報屋の根津から事前に得ていた非合法ギルドの潜伏先——都内郊外の廃工場だ。


「残業代は出ないが、これも家族サービスの一環だ」


打ちっぱなしの壁に囲まれた空間へ足を踏み入れる。鉄扉を蹴り開けると、武装した男たちが一斉にこちらを振り向いた。


「なんだお前は! どこから入ってきた!」


リーダー格と思われる大柄な男が、怒鳴り声を上げる。


「ただのクレーム処理です。あなた方の事業計画は、我が家の週末の予定と競合しまして」


「ふざけるな! 殺せ!」


男たちが銃や魔法を構えるより早く、俺は手元のバインダーを振り抜いた。


空気が圧縮され、見えない刃となって工場内を駆け抜ける。放たれた炎の魔法も、飛来する銃弾も、すべてが未決書類として処理され、真っ二つに両断されていく。


「な、なんだこいつは……バケモノか!」


「失礼な。ただの会社員ですよ」


俺は胸ポケットからボールペンを引き抜き、空間に直線を引くように腕を振るった。


目に見えない斬撃が走り、男たちの持っていた武器だけが正確に切断される。彼らは一瞬で壁に叩きつけられ、次々と気を失っていった。


「ば、化け物め……俺たちのバックには、海外の巨大シンジケートが……」


リーダー格の男が震える声で命乞いをするが、俺は冷徹に見下ろした。


「どこの組織だろうと関係ない。俺の有給を邪魔する奴は、すべて等しく処理対象だ」


俺は会社員仕込みの事務処理能力をフル稼働させ、アジト内の通信設備や罠を次々と解体していく。パソコンのデータは物理的に粉砕し、残された書類は指先で細断する。一晩もかからず、海外組織の脅威は完全に沈黙した。


工場を出たところで、スマートフォンを取り出し、獅子王に連絡を入れる。


「エース、悪いが今から車を出してくれないか」


『師匠!? こんな夜更けにどうしたんだよ』


電話口から、寝起きの不機嫌そうな声が響く。


「旅行先の安全確保だ。制限がかかる前に、現地へ向かう」


『はあ!? 明日出発じゃなかったのかよ!』


「予定が前倒しになった。急ぎの案件だ」


『無茶苦茶言うなよ……わかった、すぐ行く』


文句を言いながらも、彼はすぐに車を回してくれるだろう。


三十分後、指定した場所に横付けされたSUVの助手席に乗り込む。


「で、一体何があったんだよ」


ハンドルを握る獅子王が、欠伸を噛み殺しながら尋ねてきた。


「少し厄介なことになってね。旅行先周辺のダンジョンが、明日から立ち入り制限になるかもしれないんだ」


「マジかよ。じゃあ旅行は中止か?」


「いや、何としても防ぐ。制限が発令される前に、原因を物理的に排除する」


俺の言葉に、獅子王は呆れたようにため息をついた。


「あんたの家族サービス、命懸けすぎだろ……」


だが、事態は俺の想定よりも早く動いていた。


夜空を見上げると、旅行先の方角——遠くの山間部から、不気味な赤黒い光が微かに漏れ出ているのが見えた。


立ち入り制限が迫る中、超大型ダンジョンのコアが覚醒の兆しを見せている。


果たして、制限が発令される前に原因を排除し、無事に宿のチェックイン時間を守ることができるのか。


俺はネクタイを締め直し、アクセルを踏み込む獅子王の横で、静かに闘志を燃やした。


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