第19話
胃の奥に冷たいものを感じながら、俺は愛海に向かって無理に笑顔を作った。
「ああ、パパも楽しみにしてるよ」
朝食のトーストをかじりながら、頭の中では有給の残日数を弾き出していた。壁掛けテレビからは、ニュースキャスターの深刻そうな声がリビングに響き続けている。
『——ダンジョン庁の発表によりますと、魔力溜まりの規模は過去最大級となる恐れがあり、現在、警戒レベルの引き上げが検討されています。周辺地域への立ち入りが制限される可能性も……』
異常な魔力溜まり。それが単なる自然現象なのか、誰かの意図的なものなのかは分からない。ただ一つ確かなのは、俺たちの週末の予定に暗い影を落としているということだ。
山田課長に頭を下げて勝ち取った有給だ。宿の予約も、愛海が楽しみにしている温泉の貸し切り風呂も、すべて手配済みである。それをこんな得体の知れない現象で台無しにされるわけにはいかない。
「パパ、どうしたの? 難しい顔してる」
愛海が小首を傾げて覗き込んでくる。ツインテールに結われた髪が、朝の光を受けて柔らかく揺れた。
「いや、仕事の段取りを少し考えていただけだよ。さあ、遅刻する前に準備しなさい」
娘の頭を撫でて送り出しながら、俺はネクタイを締め直した。どんな脅威が迫っていようと、この子の笑顔と週末の家族旅行は絶対に守り抜く。
◆ーーーー◆
昼休み。オフィスの喧騒から逃れるように、俺は会社の裏路地へと足を運んだ。自動販売機の影で、すっかり情報屋として寝返った根津吉太郎が待っていた。
小柄で痩せこけた体を縮こまらせ、周囲をキョロキョロと警戒している。
「あんた、聞いてますか。海外の裏組織が、お嬢ちゃんの才能に目をつけて拉致の計画を立ててるらしいっすよ」
俺が缶コーヒーを買うなり、根津は早口でまくしたてた。その額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいる。
「……またか」
俺は深くため息をつき、冷たい缶を額に当てた。有給の残りは限られている。これ以上、無駄なトラブルで家族との時間を削られるわけにはいかない。
「連中、かなりヤバい奴らです。手段を選ばないって噂で……それに、旅行先の件も気になります。ただの魔力溜まりじゃなくて、もっと巨大な何かが動いてるんじゃないかって、裏の連中もビビッてますよ」
根津の言葉に、俺の視線が鋭くなる。朝のニュースで報じられていた魔力溜まりの件と合致する。
娘の平穏を脅かす敵対勢力、そして旅行を邪魔する不確定要素。俺の胸の奥で、静かな怒りがふつふつと湧き上がってきた。周囲の空気が、急激に温度を下げる。
「ヒッ……」
根津が短く悲鳴を上げ、後ずさった。
「根津。その海外組織のアジトの場所は?」
「えっ、まさか一人で……了解っす。すぐ送ります!」
俺の冷たい視線に、根津は顔を引きつらせてスマートフォンを操作した。画面に表示された地図を確認し、俺は無言で踵を返した。
◆ーーーー◆
その日の深夜。愛海が規則正しい寝息を立てているのを確認し、俺はスーツ姿のまま家を出た。
向かった先は、港湾地区にある寂れた倉庫街。海外から進出してきた悪徳ギルドの隠れ家だ。潮の香りに混じって、微かな血と魔力の匂いが漂ってくる。
「残業手当も出ないのに、勘弁してほしいですよ」
独り言を呟きながら、俺は正面の鉄扉を蹴り開けた。
「な、なんだお前は!」
見張りの男たちが慌てて銃や魔導具を構える。俺は手元のバインダーを無造作に振り抜いた。
空気を切り裂くような衝撃波が走り、男たちの武器が寸分違わぬ均等なサイズに切断されていく。
「ひっ……化け物!」
「ただのクレーム対応です。あなたたちの存在は、我が家の予定表には不要ですので」
俺は倉庫の奥へと歩を進めた。圧倒的な暴力と、会社員生活で培った事務処理能力の応用。飛びかかってくる凶悪な魔獣も、魔法を詠唱する幹部たちも、すべて未決書類を処理するのと同じ手順で片付けていく。
「ふざけるな! 撃て、撃ち殺せ!」
奥から現れた重武装の男たちが、一斉に魔力弾を放ってくる。俺はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、指先で弾いた。
紙片は空気を切り裂き、魔力弾を相殺しながら男たちの急所を的確に貫く。
「ぐああっ!」
「なんだこの名刺は……鋼鉄より硬いぞ!?」
「ただの紙です。あなたたちの頭が柔らかすぎるだけでしょう」
俺は歩みを止めず、次々と襲いかかってくる敵を無力化していく。幹部らしき魔術師が、巨大な炎の槍を生成して投げつけてきた。
俺は手元のボールペンを構え、空中にバツ印を描く。炎の槍は不可視の壁に衝突したかのように四散し、その余波が魔術師自身を吹き飛ばした。
「ば、馬鹿な……我々の精鋭が、こんなスーツの男一人に……」
組織のリーダーらしき男が、床に這いつくばりながら呻いた。
「娘の日常を脅かす者は、例外なく排除します。この件は、これでクローズとさせていただきます」
俺は冷徹に言い放ち、最後の一撃を下した。一晩のうちに、裏社会の新たな脅威は完全に解体された。
これで、拉致の心配はなくなった。あとは旅行先の安全確保だけだ。
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数日後の休日。俺は愛海のレベルアップと旅行先の安全確認を兼ねて、温泉地方面にある低級ダンジョンを訪れていた。
「師匠! 今日もご一緒できて光栄っす!」
派手な金髪を揺らしながら、獅子王凱が元気よく頭を下げてくる。筋骨隆々の肉体を包む防具が、薄暗い洞窟の中で鈍く光っていた。
「凱さん、今日はよろしくお願いします」
「おう、任せとけ! 俺がしっかりサポートするからな!」
愛海も嬉しそうに笑っている。ツインテールの髪を揺らしながら、小さな杖を握りしめる姿は、どこからどう見ても普通の小学生だ。
ダンジョン内部は湿った土の匂いが充満していた。壁面には発光する苔が群生し、足元にはぬかるんだ土が続いている。本来なら、初心者探索者が経験を積むための安全な場所のはずだった。
「えいっ!」
愛海が杖を振るうと、先端から眩い光の球が放たれる。それは空中で無数の光の矢に分裂し、群がってくるゴブリンたちを正確に射抜いていった。
「すげえ火力だ……それにあの精密なコントロール。さすが師匠の娘さんっすね」
獅子王が感嘆の声を漏らす。プロの探索者である彼から見ても、愛海の才能は規格外なのだろう。
順調な進行。これなら旅行先の安全も問題ないかと思われた。
だが、洞窟の奥から異様な咆哮が響き渡った。ビリビリと空気が震え、発光する苔が一斉に明滅する。
岩壁を砕きながら姿を現したのは、全身を赤黒いオーラで包んだ巨大な四つ足の獣だった。蛇の尾に、獅子の頭。禍々しい魔力が周囲の空気を歪めている。
「なっ……なんでこんな低層に、上位のキマイラが!?」
獅子王が顔を青ざめさせる。狂暴化した獣は、血走った目で周囲を見渡し、一番魔力の強い愛海に向かって一直線に跳躍した。
「パパ……っ!」
愛海が恐怖に目を見開く。
俺はスーツの胸ポケットから、愛用のボールペンを抜き取った。安物のプラスチック製だが、使い慣れた相棒だ。
獣の鋭い爪が娘に届く直前、俺は空間に一本の直線を引くようにペン先を走らせた。
空気がズレるような錯覚。目に見えない刃が、キマイラの巨体を両断する。断面は鏡のように滑らかで、一滴の血すら流れる間もなかった。
ドスッという重い音を立てて、獣は左右に分かれて地面に転がった。
「……怪我はないか、愛海」
「うん。パパ、ありがとう」
愛海を抱き寄せると、背後で獅子王たちプロの探索者が膝をついていた。
「一撃で……上位モンスターを……」
彼らは次元の違う強さに平伏し、言葉を失っている。
俺は転がった獣の死骸を見下ろした。赤黒いオーラが霧散し、異常な魔力の残滓が空気中に溶けていく。
低級ダンジョンに、本来いるはずのない上位モンスターが出現した。生態系の異常は、もはや確定的だ。
裏組織の連中は片付けた。目の前の脅威も排除した。
だが、この異常事態の根本原因はいったい何なのか。旅行先の安全を確保するためには、まだ片付けなければならない仕事が残っているようだ。俺は小さくため息をつき、愛海の手をしっかりと握り直した。




