第18話
オフィスの窓から差し込む西日が、デスクの上の書類の山をオレンジ色に染めていた。
俺は手元のキーボードを叩き終え、プリントアウトした一枚の紙を持って立ち上がる。向かった先は、フロアの奥にある管理職の席だ。
「課長。今週末の金曜ですが、お休みをいただきたく」
提出した有給申請書を見て、山田課長は深くため息をついた。引き出しから胃薬の瓶を取り出し、水なしで数粒を飲み込む。
「またか結城。今月、もう三日目だぞ」
「申し訳ありません。どうしても外せない家族の予定がありまして」
「……まあいい。たまにはゆっくり休んでこい。お前がいない間の書類はどうにかしておく」
山田課長は渋々といった様子でハンコを押してくれた。温厚で部下思いの上司には、本当に頭が上がらない。
席に戻りながら、俺は小さく息を吐いた。週末には愛海と約束した温泉旅行が控えている。楽しみではあるが、有給の残日数が心許なくなってきたのは事実だ。
◆ーーーー◆
翌日の午後。俺は半休を使い、愛海のダンジョン探索に同行していた。
薄暗い洞窟型のエリアで、愛海は元気いっぱいに杖を振るう。
「えいっ!」
可愛らしい掛け声と共に放たれた極大の火球が、前方に群がっていたゴブリンの集団を一瞬で灰に変えた。熱風が吹き荒れ、洞窟が微かに揺れる。
「えへへ、パパ、見てた?」
「ああ、すごいな愛海」
俺が笑顔で手を振り返すと、後方で護衛についていたプロの探索者たちが、信じられないものを見るような目で愛海を見つめていた。
「おいおい、冗談だろ……あんな火力、トップギルドの主力級でも出せないぞ」
彼らが呆然と呟いた、その時だった。
前回の探索でステルスマンティスに奇襲された一件以来、俺はあらゆる事態を想定して動くようにしていた。週末の温泉旅行を控えた今、万が一にも愛海に怪我をさせるわけにはいかない。突如、洞窟の天井が不自然に脈動したかと思うと、膨張した岩盤を突き破り、異常な魔力溜まりから変異したと思われる異形の魔獣が姿を現した。隠れる気など微塵もない凶悪な咆哮を轟かせながら、その巨体が愛海の頭上へと落下してくる。
「危ないっ!」
プロの探索者が叫んだが、彼らの反応では到底間に合わない。
俺はスーツの胸ポケットから、愛用のボールペンを抜き取った。
親指でノック部を押し込み、カチリと音を鳴らす。そのまま空中に向かって、素早く『×』の字を書き込んだ。
「不採用だ」
ボールペンのペン先が描いた軌跡に沿って、空間そのものが十字に断裂する。
落下してきた魔獣は、愛海に触れる直前で四つの肉塊に分断され、ドサリと地面に落ちた。血の一滴すら跳ねることはない。完璧な裁断処理だった。
「……え?」
プロの探索者たちは、何が起きたのか理解できないという顔で、地面に転がる魔獣の残骸と俺を交互に見た。
やがて彼らは、震える膝をつき、俺に向かって深く頭を下げた。規格外の娘をさらに凌駕する理不尽な暴力の前に、彼らは完全に平伏していた。
「い、今のは一体……」
「ただの事務作業ですよ。害虫の駆除です」
俺はボールペンの芯を引っ込め、再び胸ポケットにしまった。
◆ーーーー◆
その翌日の朝。
小学校の教室では、朝の会が始まる前の賑やかな時間が流れていた。
「先生! わたし、今週末にパパと温泉に行くの!」
愛海が担任の白鳥先生の元へ駆け寄り、満面の笑みで報告する。
「まあ、温泉ですか。いいですね、愛海ちゃん」
白鳥先生は優しく微笑み、愛海の頭を撫でた。ダンジョンという過酷な環境に身を置きながらも、こうして子供らしい無邪気な笑顔を見せてくれることに、彼女は深い安堵を覚えているようだった。
同じ頃。俺は会社の給湯室で、スマートフォンに届いた暗号化されたメッセージに目を通していた。
裏ルートの情報網から送られてきたその内容は、俺の胃の奥を冷たくさせるものだった。
『先日壊滅させた海外裏組織『ブラックシンジケート』の残党が、結城愛海の拉致計画を未だ諦めず、新たな実行部隊を国内の仮アジトに再集結させている』
スマートフォンの画面を見つめる俺の視線が、自然と鋭くなる。
娘の規格外の才能に目をつけ、自分たちの利益のために利用しようとする輩は後を絶たない。
「……またか」
俺は深くため息をついた。
有給休暇は、週末の家族旅行のために残しておかなければならない。これ以上、突発的な休みを取って事後処理に追われるわけにはいかないのだ。
娘の平穏な日常を脅かし、俺の貴重な有給を削ろうとする敵対勢力に対し、静かな、しかし確かな怒りが湧き上がってくる。
「旅行の前に、片付けておくしかないな」
俺は冷めたコーヒーを飲み干し、今夜のスケジュールを頭の中で組み立て始めた。
◆ーーーー◆
深夜二時。
愛海がベッドで規則正しい寝息を立てているのを確認し、俺はスーツの上着を羽織って家を出た。
向かった先は、湾岸エリアにある使われなくなった地下駐車場だ。そこが、海外から潜入した裏組織の仮アジトになっているらしい。
「残業代の出ない深夜労働は、本当に気が滅入る」
コンクリートの階段を降りながら、俺はネクタイを少しだけ緩めた。
地下二階のフロアに足を踏み入れると、武装した数十人の男たちが一斉にこちらに銃口や武器を向けた。
「何者だ、貴様!」
リーダー格と思われる男が、鋭い声で威嚇してくる。
「夜分遅くに失礼します。結城と申します」
俺は名刺を差し出す代わりに、手元のバインダーを開いた。
「貴様ら、やっちまえ!」
男の号令と共に、無数の銃弾と魔法の炎が俺に向かって放たれる。
俺はバインダーを盾のように構え、飛来する攻撃を次々と弾き落とした。弾かれた銃弾は、まるで意思を持っているかのように男たちの足元を正確に撃ち抜き、彼らの機動力を奪っていく。
「なっ……バケモノか!」
怯む男たちに向かって、俺は静かに歩み寄る。
「書類整理の基本は、正確なファイリングです」
俺は男たちの胸ぐらを掴み、コンクリートの柱と柱の隙間へ、五十音順に寸分違わず均等に押し込んでいった。
関節を正確に外し、反撃の余地を完全に奪う。悲鳴を上げる間も与えない、徹底した事務処理能力の行使。
「ひぃっ……!」
最後に残ったリーダー格の男が、腰を抜かして後ずさる。
俺は胸ポケットからボールペンを抜き、男の目の前の空間に素早くチェックマークを刻んだ。不可視の刃が男の武器を粉々に砕き、その首筋すれすれでピタリと止まる。
「これで、今夜の業務は終了です」
一晩で、娘の日常を脅かす裏社会の脅威は完全に解体された。
俺は手首の古い時計で時刻を確認し、始発の電車に乗るべく地下駐車場を後にした。
◆ーーーー◆
翌朝。
俺はキッチンで目玉焼きを焼きながら、テレビのニュース番組に耳を傾けていた。
『続いては、昨日からお伝えしている〇〇県山間部のダンジョン震動に関する続報です。ダンジョン庁の深夜に及ぶ調査の結果、単なる微小震動ではなく、地下に異常な魔力溜まりが発生していることが新たに判明しました』
フライパンを揺する俺の手が、ピタリと止まる。
『現在、警戒レベルの引き上げが検討されており、周辺地域への立ち入りが制限される可能性も——』
そこは、まさに今週末に愛海と行く予定の温泉地だった。
「……嘘だろ」
俺は思わず独り言を漏らした。
裏組織の脅威は排除した。有給の申請も通っている。宿の予約も完璧だ。
家族旅行への期待が高まっていた矢先に、ニュースの続報が不穏な影を落とす。
異常な魔力溜まり。それが何を意味するのか、嫌な予感しかしない。
「パパ、おはよう! 旅行、楽しみだね!」
パジャマ姿の愛海が、目をこすりながらリビングに入ってきた。その無邪気な笑顔を見ると、絶対にこの予定をキャンセルするわけにはいかないと強く思う。
俺は迫り来る脅威から、週末の家族旅行を守り切れるのだろうか。
胃の奥に冷たいものを感じながら、俺は愛海に向かって無理に笑顔を作った。




