第17話
朝の光が差し込むダイニング。
目玉焼きの焼ける香ばしい匂いが漂う中、愛海は食卓の上に旅行ガイドブックを大きく広げていた。
「パパ、ここ! この露天風呂、すごく大きくて入りたい! ご飯もカニがいっぱい出るんだって!」
ツインテールの髪を揺らし、愛海がページの一角を指差して目を輝かせている。
そこには、山間部に最近湧き出たばかりの温泉宿の特集が組まれていた。
「新しくできた温泉らしいからな。今度の休みに絶対行こう」
俺は愛海の頭を優しく撫でながら、淹れたての温かいコーヒーを飲み干した。
平穏な朝の風景。男手一つで育ててきた大切な一人娘の、屈託のない笑顔。
母親がいない寂しさを感じさせないよう、父親として十分な思い出を作ってやりたい。
この温かな日常を守るためなら、俺はなんだってする。
ポケットの中にある予約票の感触を確かめ、俺は確かな手応えを感じていた。
◆ーーーー◆
午後。俺は貴重な有給休暇を行使し、愛海のダンジョン探索に同行していた。
未成年の覚醒者には保護者の同伴が推奨されている。いわゆる授業参観というやつだ。
「師匠! 今日も愛海の護衛は俺に任せてください!」
派手な金髪を揺らし、トップギルドの若きエースである獅子王凱が自信満々に胸を張る。
「頼むよ、凱くん。怪我だけはさせないようにね」
俺が頷くと、獅子王は気合十分で前線へ飛び出していった。
薄暗い洞窟型のダンジョン内。愛海は天真爛漫な笑顔のまま、身の丈ほどある杖を無邪気に振るう。
放たれた極彩色の光の塊が、通路を塞いでいた巨大なオークの群れをまとめて吹き飛ばしていく。
地響きとともにモンスターたちが光の粒子となって消滅する様を見て、周囲のプロ探索者たちがどよめいていた。
「すげえ……あんな小さな子が無詠唱で広域殲滅魔法を……」
「獅子王の出番すらないじゃないか」
だが、その死角。
岩陰から、周囲の景色に完全に溶け込んでいた上位モンスター、ステルスマンティスが音もなく跳躍した。
魔力探知すらもすり抜ける迷彩機能。鋭く研ぎ澄まされた巨大な鎌が、愛海の無防備な小さな背中を狙う。
「しまっ——」
獅子王が声を上げた時には、すでに凶刃は愛海に迫っていた。
俺は短く息を吐き、胸ポケットから愛用のボールペンを抜く。
空中に一本の直線を引くように、ペン先を滑らせた。
紙を切り裂くような軽い音が響く。空間そのものが断裂し、不可視の刃となって飛ぶ。
ステルスマンティスは悲鳴を上げる間もなく、空中で真っ二つに分断されて崩れ落ちた。
「……っ!」
獅子王と他のプロ探索者たちが、息を呑んで俺を見た。
「パパ、今のなに?」
愛海が不思議そうに振り返る。
「いや、ちょっと大きな虫が飛んでたから追い払っただけだよ。ほら、足元に気をつけて進もうか」
俺がボールペンをポケットに戻すと、プロたちはガクガクと震えながら、一斉に地面へ平伏した。
「あんなの、Sランクのトッププロでも無理だぞ……」
娘以上のバケモノを見るような、深い畏怖の視線。
目立つのは本意ではないが、愛海の安全には代えられない。俺は苦笑しながら、娘の後を追った。
◆ーーーー◆
同じ頃、ダンジョン庁のオフィス。
測定窓口の係員である佐藤真由美は、すっかり冷めきったコーヒーを横目に、デスクに積み上げられた報告書の山へ深い溜息をこぼしていた。
一晩で壊滅した黒崎ギルドの事後処理。
添付された現場の写真には、凄まじい惨状が写し出されていた。強固な防壁も、最新鋭の魔力兵器も、まるで巨大な裁断機にかけられたかのように均等なサイズで切り刻まれている。
「まさか、あの親子が……?」
測定器を完全に沈黙させ、規格外の数値を叩き出した結城誠の、少し疲れたような顔が脳裏をよぎる。
しかし、一介の会社員が武闘派ギルドを単身で壊滅させるなど、常識的に考えてあり得ない。監視カメラの映像もすべて物理的に破壊されており、証拠は一切残されていなかった。
「私のような末端の公務員が考えることじゃないわね……」
彼女は小さく首を振り、パニックになりそうな思考を強引に抑え込む。マニュアル通りに書類の処理を再開した。想定外の事態に慌てふためくより、目の前の仕事を片付ける方が精神衛生上良いのだ。
◆ーーーー◆
数日後。俺は会社のデスクでパソコンの画面を睨んでいた。
「結城、お前最近クマがひどいぞ。ちゃんと寝てるのか?」
背後から声をかけてきた山田課長に、俺は愛想笑いを浮かべる。
「娘の夜泣き……じゃなくて、ちょっと調べ物がありまして。有給の申請書なら、もう提出しましたよ」
「またか。まあ、仕事は早いから文句は言わんがな」
課長が去った後、俺は再び画面に視線を戻した。
裏ルートで手に入れた情報網から、新たな不穏な動きを検知したのだ。
海外の裏組織『ブラックシンジケート』が、愛海の規格外の才能に目をつけ、海外の研究所へ拉致する計画を立てているらしい。
「またか……」
俺は卓上カレンダーを見る。
度重なる授業参観と保護者会で、有給の残日数が心許なくなってきている。
これ以上、家族との時間を奪われるわけにはいかない。
愛海の笑顔を奪おうとする者たちへの怒りが、静かに腹の底で湧き上がった。
その日の深夜。
愛海がベッドでスヤスヤと寝息を立てているのを確認し、俺は暗闇の中でスーツを着込んだ。
「ちょっと残業してくるからな」
眠る娘の額にそっと触れ、俺は家を出る。
単身で向かったのは、海外組織の隠れ家となっている湾岸の廃倉庫だった。
錆びついた鉄扉を蹴り開けると、武装した男たちが数十人、一斉にこちらへ銃口を向ける。
「誰だお前は!」
「クレーム処理に来ました。結城と申します」
俺はボールペンとバインダーを手に、静かに歩み寄る。
「ふざけやがって! あのガキは高く売れるんだ、邪魔する奴は殺せ!」
男の言葉に、俺の視線が冷たくなる。
「それは、重大なコンプライアンス違反ですね」
銃弾の雨が降り注ぐ。
俺はバインダーを振るい、飛来する弾丸を未決書類として処理していく。
空間の断裂が走り、男たちの武器が不要な添付ファイルとして次々と切り捨てられた。
「な、なんだこいつは……化け物か!」
「いつもの事務作業の応用ですよ」
高速の裁断。正確無比なファイリング。
会社員仕込みの事務処理能力が、圧倒的な暴力となって倉庫内を蹂躙する。
男たちが放つ魔法も、特殊な暗器も、俺のボールペンの前ではただの紙屑と同義だった。
一晩で、海外の裏組織は完全に解体された。
戦意を喪失し、床に這いつくばる男たちを一瞥し、俺は手首の古い時計で時刻を確認する。
「よし、始発には間に合うな」
これで、今度の休みの予定は守られた。
確かな前進の手応えを感じながら、俺は夜明け前の街を歩き出した。
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翌日の夕方。
獅子王凱は愛海のサポートを終え、一人で帰路についていた。
街頭ビジョンから、ニュースキャスターの無機質な声が流れてくる。
『続いてのニュースです。昨日から、〇〇県の山間部にて微小なダンジョン震動が観測されています。現在のところ被害はありませんが、ダンジョン庁が警戒を呼びかけており——』
そこは、誠たちが今度の休みに向かう予定の、新しくできた温泉の周辺エリアだった。
獅子王は足を止める。
「あの場所……師匠が旅行に行くって言ってたところじゃねえか?」
微小な震動。
それが何を意味するのか、まだ誰も知らない。




