第16話
始発の電車に揺られて帰宅し、すっかり明るくなった窓の外を横目に浴室へ直行する。
冷たいシャワーを浴びて昨夜の血と埃を洗い流し、パリッと糊の効いた新しいシャツに袖を通す。
鏡の前でネクタイを締め直すと、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
そのままいつも通りの時間にオフィスへ向かい、自分のデスクに座る。
オフィスの片隅で、シュレッダーの単調な稼働音が響いている。
パソコンを立ち上げ、未決書類の山に手をつける。指先で紙の端を弾き、空気を滑らせるようにして五十音順のインデックスへ吸い込ませていく。
分厚い企画書の束も、ホッチキスで留められたままの資料も、俺の指先が触れた瞬間に抵抗なく細断されていく。
これも長年の会社員生活で培った、ただの事務処理スキルだ。
「結城、お前少し顔色が悪いぞ。無理するなよ」
背後から声をかけられ、俺はキーボードを叩く手を止めた。
振り返ると、総務部課長の山田健太が胃のあたりを押さえながら立っている。彼の顔色も決して良くはない。
「ご心配をおかけしてすみません、課長。ただの寝不足ですから」
「また夜泣きか? いや、もうそんな年齢じゃないか。午後は半休だったな」
「ええ。娘の授業参観と、その前に少し野外活動の付き添いがありまして」
「そうか。父親業も大変だろうが、倒れない程度にな。お前が倒れたら、この部署の書類処理が回らなくなる」
山田課長はポンと俺の肩を叩き、自分のデスクへと戻っていった。
優秀な上司の気遣いに胸を打たれつつ、俺は残りの書類を猛スピードで片付けた。
午後。俺は正当な権利である有給を行使し、ダンジョン庁が管轄する中級ゲートへ足を運んだ。
愛海が所属するトップギルドの探索に、保護者として同行するためだ。
薄暗い洞窟型のダンジョン内を、俺たちは慎重に進んでいく。
「いっくよー! えいっ!」
愛海が小さな杖を振るうと、巨大な炎の渦が巻き起こり、群がっていたオークの群れが一瞬で灰に変わる。
圧倒的な火力。同行しているプロの探索者たちが、呆然と立ち尽くしている。
だが、油断は禁物だ。
前回の探索で蜘蛛型モンスターの奇襲を受けた際、俺が瞬殺してしまったせいで愛海自身の経験にならなかったという反省があった。だから今回は、よほどのことがない限り手を出さず、彼女の成長を静かに見守るつもりでいたのだ。しかし、岩陰から気配を完全に殺した四つ足の獣——ブラッドハウンドが、愛海の死角を突いて跳躍した瞬間、父親としての過保護な本能が理屈をあっさりと凌駕してしまった。
鋭い牙が、娘の華奢な肩に迫る。
俺はスーツの胸ポケットから、愛用のボールペンを引き抜く。
空間に直線を引くように、ペン先を一閃させた。
音もなく、ブラッドハウンドの胴体が空中で真っ二つに分断される。
血の一滴すらこぼれる前に、獣は光の粒子となって消滅した。
「またお父様が……」
「見えなかったぞ。ただの会社員ってレベルじゃないだろ……」
プロの探索者たちが、畏怖の視線をこちらに向けて平伏する。
俺はボールペンをポケットにしまい、何事もなかったかのように愛海へ歩み寄った。
「怪我はないか、愛海」
「うん! パパ、見ててくれた?」
「ああ、完璧だったよ」
娘の笑顔を守るためなら、これくらいのサポートは造作もない。
探索を早々に切り上げ、俺たちは小学校へ向かった。
今日は保護者会の日だ。
教室に入ると、クラス担任の白鳥麗子が丁寧なお辞儀で迎えてくれた。
「お忙しい中、お越しいただき感謝します」
「こちらこそ、いつもお世話になっております」
白鳥先生は手元の資料をめくりながら、眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
「愛海さん、学校でもとても元気に過ごしていますよ。図工の時間には、お友達と一緒に大きなダンジョンの模型を作って遊んでいました。ダンジョン探索との両立も問題ないようです」
「それを聞いて安心しました。普通の学校生活を大事にさせたいので」
「ええ、私どもも全力でサポートいたします。子供たちの日常を守るのが、私たちの仕事ですから」
真面目で教育熱心な先生の言葉に、俺は深く頭を下げた。
平穏な日常が、ここには確かに存在している。
しかし、学校からの帰り道。
俺の鋭敏な感覚が、遠くのビルの屋上からこちらを監視する視線を捉えた。
殺気ではない。値踏みするような、ねっとりとした不快な視線だ。
(昨夜の連中とは別口か)
愛海に気づかれないよう、スマートフォンを取り出し、裏ルートで手に入れた情報網にアクセスする。
どうやら、愛海の規格外の才能に目をつけた海外の裏組織が、新たな拉致計画を企てているらしい。
「……また有給が減る」
俺は小さく舌打ちをした。
娘の平穏を脅かす敵対勢力は、芽のうちに摘み取らなければならない。
静かな怒りが、胃の奥で冷たく燃え上がった。
◆ーーーー◆
その日の深夜。
愛海がベッドで寝静まったのを確認し、俺は再びスーツを着て家を出た。
向かった先は、港区にある廃棄された倉庫街。
海外組織の隠れ家として使われている場所だ。
「残業の時間だな」
ネクタイを締め直し、正面の分厚い鉄扉を蹴り破る。
轟音と共に扉が吹き飛び、倉庫の中にいた数十人の男たちが一斉に振り返った。
「な、なんだ貴様は!」
武装した構成員たちが、アサルトライフルや魔法の杖を構えて銃口を向けてくる。
俺は手元にあった古いパイプ椅子を掴み、事務処理の要領で放り投げる。
空間を切り裂くような速度で飛来した椅子が、男たちの武器をまとめて粉砕した。
「稟議書は通っていませんよ。不法侵入のクレーム処理を始めます」
俺は腕時計を一瞥し、始発までのタイムリミットから逆算して制圧の段取りを組んだ。
圧倒的な暴力と、会社員仕込みの徹底した効率化。
無駄な動きを一切省き、敵の急所を的確に突いて無力化していく。
魔法の障壁を展開しようとした男の首根っこを掴み、床に叩きつける。
背後から襲いかかってきた大男の拳をいなし、みぞおちに掌底を叩き込む。
さらに、逃げ出そうとした幹部らしき男の足元へ、ボールペンを投擲する。
ペンはコンクリートの床を穿ち、男の動きを完全に封じた。
悲鳴を上げる暇すら与えず、数十人の構成員を一晩で完全に沈黙させた。
「ふぅ……これで明日の朝礼には間に合うか」
埃を払い、俺は静かに倉庫を後にした。
◆ーーーー◆
翌朝。
トップギルドの専用ラウンジで、獅子王凱はテレビの画面を食い入るように見つめていた。
『昨晩、港区の倉庫街で大規模な破壊活動があり、国際的な密輸組織が壊滅状態で発見されました。警察は未知の覚醒者による犯行とみて——』
ニュースキャスターの無機質な声が響く。
獅子王は手元のコーヒーカップを震わせ、冷や汗を流した。
「間違いない……師匠の仕業だ」
一晩で裏社会の巨大組織を、たった一人で壊滅させる。
その底知れぬ力と容赦のなさに、若きエースは改めて戦慄を覚えていた。
自分があの男に逆らわなくて本当に良かったと、心の底から安堵する。
◆ーーーー◆
同じ頃、結城家のダイニング。
エプロン姿で目玉焼きを皿に移していると、パタパタと小さな足音が聞こえてきた。
「パパ、おはよう!」
寝癖をつけた愛海が、笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう、愛海。顔を洗っておいで。朝ごはんにしよう」
「はーい!」
元気よく洗面所へ向かう娘の背中を見つめながら、俺は温かいコーヒーを一口飲んだ。
ポケットの中にある、週末の温泉宿の予約票にそっと触れる。
小さな前進。
平和を取り戻した我が家に、確かな手応えを感じていた。
この平穏な時間が、いつまでも続いてほしい。
次に訪れる日常も、俺が必ず守り抜いてみせる。




