第15話
氷川を無力化し、残るは元凶である黒崎巌のみ。俺は最奥の部屋へと向かう。
薄暗い廊下を進みながら、俺はネクタイの結び目を少しだけ緩めた。
深夜の冷気が、スーツ越しに肌を刺す。
静まり返ったアジト内には、俺の革靴の音だけが規則正しく響いていた。
なぜ俺がこんな時間まで、見知らぬ建物の奥深くを歩いているのか。
事の発端は、今日の昼間に遡る。
◆ーーーー◆
有給休暇を取得して同行した、娘のダンジョン探索。
そこでの愛海は、まさに規格外だった。
「えいっ!」
可愛らしい掛け声とともに放たれた魔法は、巨大な火球となって迷宮の通路を舐め尽くす。
群がるモンスターたちは悲鳴を上げる間もなく、一瞬で消し炭に変わっていった。
周囲を固めていたプロ探索者たちが、口を開けて呆然としている。
彼らの出番は全くなく、ただの引率者のようになっていた。
だが、油断が生じたその一瞬だった。
天井の死角から、四つ腕の巨大な蜘蛛型モンスターが音もなく落下してきたのだ。
鋭い牙が、無防備な娘の背中へと迫る。
プロたちの反応は遅れていた。
俺は反射的に動いていた。
胸ポケットから愛用のボールペンを引き抜き、空中に数本の直線を引くように振るう。
日々の業務で染み付いた、書類を裁断する時の手首のスナップ。
ただそれだけの動作で、空間そのものに目に見えない刃が走った。
巨大な蜘蛛は空中でピタリと静止し、次の瞬間、サイコロ状に細断されてボトボトと地面に崩れ落ちる。
血の一滴すら跳ねない、完璧な処理だった。
「パパ、すごい!」
無邪気に笑う娘の背後で、プロの探索者たちは完全に平伏していた。
「あ、あの動き……見えなかったぞ」
「娘さんだけじゃない。あの父親、本物のバケモノだ……!」
娘以上の異常な存在に、彼らの顔は恐怖と畏敬で引きつっていたのだ。
特に、護衛として同行していたトッププロの一人は、膝をついて震えていた。
「まさか、あれほどの高位モンスターをペン一本で……。あなた様は、一体何者なのですか」
「ただの付き添いの保護者です。それより、怪我がなくてよかった」
俺はボールペンを胸ポケットに戻し、愛海の頭を撫でた。
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だが、その圧倒的な力の噂は、すぐに厄介な事態を引き起こした。
愛海の才能に目をつけた悪徳ギルドや海外の裏組織が、彼女を拉致しようと暗躍を始めたのだ。
俺は歩みを進めながら、手元のスマートフォンのカレンダーアプリを開く。
有給の残日数が、また一日減ってしまった。
『結城、お前また急な有給申請を出してきたな。俺の胃に穴を開ける気か』
山田課長のぼやき声が脳裏に蘇る。
画面を見つめていると、胃の奥がじわじわと重くなるのを感じる。
左腕にはめられた、亡き妻が遺した銀色の時計。
秒針が時折不自然に止まるその古びた文字盤を指でなぞりながら、俺は深く息を吐いた。
自分の手の届かないところで愛海を失ってしまうこと。
それだけは、絶対に避けなければならない。
娘の平穏を脅かす敵対勢力。
あの子の笑顔を奪おうとする連中に対して、俺の腹の底では静かな怒りが燃えていた。
今週末には、ガイドブックで見つけた最近湧き出たばかりの温泉へ行く予定がある。
家族旅行の予定に穴を開けるわけにはいかない。
だからこそ、愛海が寝静まったこの深夜に「残業」として単身で敵対組織のアジトを強襲したのだ。
廊下の突き当たり。
重厚なマホガニーの扉の前に立つ。
ここが、首謀者である黒崎の部屋だ。
俺は小さく息を吐き、ノックを三回叩いた。
「失礼します」
ドアノブを回し、室内へと足を踏み入れる。
部屋の中央には、革張りのソファに深く腰掛ける大柄な男がいた。
高価なスーツを着崩し、顔に大きな傷跡がある。
黒崎巌。
この悪徳ギルドのマスターであり、娘を狙う計画の元凶だ。
「お前が結城誠か」
黒崎は立ち上がり、威圧的な眼光でこちらを睨みつけた。
「モニターで見ていたが、ただのチンピラかと思えば、ずいぶんと平凡なツラをしてやがるな」
「夜分遅くに申し訳ありません」
俺はビジネスバッグを開け、クリアファイルから一枚の書類を取り出した。
「本日は、貴組織の解体手続きに参りました。こちらにサインをお願いします」
「舐めているのか?」
黒崎の声が一段低くなる。
「俺は昔、力を持たずに泥水を啜って生きてきた。だからこそ、誰よりも力を渇望し、この地位を築き上げたんだ。お前のような、温室育ちのサラリーマンに見下される謂れはない!」
黒崎の全身から、濃密な魔力が立ち上る。
部屋の空気が重くなり、窓ガラスがビリビリと震え始めた。
重力操作のスキル。周囲の空間が歪み、俺の肩にずしりと重圧がかかる。
だが、俺にとっては、月末の決算期に押し付けられる未処理書類の山に比べれば、そよ風のようなものだ。
「あのガキの力は、俺が有効活用してやる。裏社会も表の産業も、すべて俺が支配するんだ!」
黒崎は咆哮とともに床を蹴り、弾丸のような速度で迫ってきた。
その腕には、岩をも砕くほどの魔力が込められている。
俺は迫り来る拳を避けず、ただ右手をスッと前に出した。
未決書類をインデックスに振り分ける、ファイリングの動作。
俺の指先が黒崎の拳に触れた瞬間、彼の纏っていた魔力が音を立てて霧散した。
力のベクトルを完全に逸らされ、黒崎の体勢が大きく崩れる。
「なっ……!?」
黒崎の顔が驚愕に歪む。
すかさず、俺は左手で手刀を作る。
日々の業務で染み付いた、不要な書類をシュレッダーにかける動作。
空間を切り裂く見えない刃が、黒崎の着ていた高価なスーツを寸分違わぬ均等なサイズで細断していく。
「ひっ!?」
肌には一切傷をつけず、衣服だけを完璧に処理する。
黒崎は半裸の状態で、無様に床へ転がった。
「ふ、ふざけるな……!」
黒崎は這いつくばりながら、ソファの裏から黒光りする大剣を引きずり出した。
高密度の魔力が込められた、特級のアーティファクトだろう。
「俺のすべてを、こんなところで終わらせてたまるかぁっ!」
大剣が空を切り裂き、俺の頭上へと振り下ろされる。
俺は再び胸ポケットからボールペンを引き抜き、下から上へと軽く弾いた。
金属同士がぶつかる甲高い音が響く。
次の瞬間、特級アーティファクトの大剣は、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
「あ、がっ……」
黒崎は柄だけになった剣を取り落とし、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。
自分が絶対的な強者であるという前提が崩れ去った瞬間。
手も足も出ない本物の化け物に蹂躙される恐怖が、彼の瞳にありありと浮かんでいた。
「ば、化け物め……」
「ただの会社員ですよ」
俺は床に落ちた書類を拾い上げ、黒崎の目の前に突きつけた。
「さあ、サインを。それとも、物理的な説得を続けますか?」
「ひ、ひぃぃっ……!」
黒崎は震える手でペンを握り、書類に乱雑なサインを書き殴った。
これで、この組織は完全に解体された。
娘の日常を脅かす裏社会の脅威は、一晩の残業によって処理されたのだ。
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夜明け前。
ボロボロになったアジトの建物を背に、俺はネクタイを締め直した。
東の空が、うっすらと白み始めている。
冷たい朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、そして深く吐き出した。
「はぁ……明日の仕事に響くな」
有給は減り、睡眠時間は削られ、疲労だけが蓄積していく。
だが、ポケットの中に入っている週末の温泉宿の予約票に触れると、少しだけ心が軽くなった。
小さな前進。
娘との平穏な日常を守るための、確かな手応え。
俺は重い足取りで、始発の電車が動く駅へと歩き出した。




