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第40話

大気を焼き焦がす轟音とともに、竜の口腔から放たれた超高熱の白光が一直線に殺到した。


数千度を超える熱線は、触れるものすべてを分子レベルで消滅させる破壊の奔流だ。大空洞の石床が瞬時に液状化し、逃げ場のない熱波が全方位へと膨張していく。背後では、防護障壁を展開しようとしたレオンハルトの悲鳴じみた怒号がかすかに聞こえた。


俺は視線を逸らさず、腕時計の秒針を確認した。午後一時十五分。強制転移による脱出期限である十五時まで残り一時間四十五分、そして駅前スーパー『サトウストア』で国産合挽肉の夕方特売が始まる十七時半まで、残された猶予は決して潤沢とは言えない。安全マージンを確保した脱出経路の移動、地上での手続き、さらには帰宅後の夕食の下準備の手間を逆算すれば、ここで竜の排除に許される滞在時間は一分が限度だった。


俺は右手に握った百円均一の油性ボールペンを、ごく自然な角度で前方へと突き出した。


目指すのは、熱線が集中して放出される中心節点――いわば、膨大な魔力が最も薄く引き伸ばされた『継ぎ目』の部分だ。会社で山積みの書類から誤字脱字を拾い上げるのと同じ要領で、俺はその歪んだ核へ向けて、ペン先をミリ単位の精度で滑り込ませた。


パチン、と乾いたプラスチックの衝突音が響く。


ただそれだけの接触で、大空洞を埋め尽くしていた数千度の火炎が、まるで消しゴムで擦り取られたように中央から左右へと霧散した。凝縮されていたはずの破壊エネルギーは、ペン先から放たれた極小の衝撃波によって魔力循環を乱され、無害な熱風へと分解されて天井の亀裂へと吸い込まれていく。


「な……っ!? 馬鹿な、神話級の熱線を……素手同然の筆記具で……!?」


背後から、レオンハルトの掠れた叫びが上がった。黄金の魔導重装甲に身を包んだ巨漢が、目を見開いたままその場にへたり込んでいる。隣に立つ特使のマーガレットもまた、整った顔を青ざめさせ、落下の衝撃で眼鏡を失った青い瞳を、信じられないものを見るように震わせていた。


先ほど背中越しに告げた通り、長引かせるわけにはいかない。


ブレスを強制霧散させられた古代竜は、自らの絶対的な一撃を阻まれた屈辱に猛り狂い、大空洞全体を揺るがす咆哮を轟かせた。漆黒の巨躯がしなり、建物の柱ほどもある超重量の鉤爪が、空気を切り裂く風切り音を伴って振り下ろされる。


回避する隙など存在しない面制圧の打撃。だが、俺の目には、その初動も筋肉の収縮も、すべてが机上の書類めくりのように緩慢に映っていた。


爪先が鼻先をかすめる数ミリの軌道を見切り、俺は半歩だけ右へスライドした。頭上を通過した爪が岩盤を粉々に粉砕し、衝撃波が吹き荒れるが、俺のスーツの裾をわずかに揺らすに留まる。間髪を入れずに繰り出された尾の薙ぎ払いも、膝をわずかに曲げて重心を沈めるだけでやり過ごした。


怒濤の連続打撃をすべて紙一重でかわしながら、俺は古代竜の懐へと滑り込む。


「一分以内で片付けます」


呟きとともに、ボールペンのペン先を走らせた。


それは、会社で日々こなしているシュレッダー作業と何ら変わらない。乱雑に散らばった不要書類を、機械の投入口へ淀みなく滑り込ませて均等に細断する。あの単調で無駄のない事務作業のリズムを、そのまま空間に投影するだけだ。


シュッ、と鋭い摩擦音が三度、密閉された大空洞に走った。


一閃目は、右翼の付け根にある魔力腱。

二閃目は、左翼を支える骨格の関節部。

そして三閃目は、喉元から心臓部へと続く主循環ラインの結合点。


寸分の狂いもない裁断ラインが刻まれた瞬間、古代竜の巨躯がピタリと硬直した。咆哮を上げる暇すら与えられず、両翼が自重に耐えかねて滑り落ちるように左右へ切断され、次いで巨大な頸部が定規で引いたような直線を描いて胴体から滑落した。


ドォォォォン……!


数万トンもの質量が、完全に均等な三つの部位へと分断され、大地を激しく震わせながら崩れ落ちる。傷口からは一滴の血液すら飛散しなかった。極小の切断面があまりにも滑らかに圧縮されたため、細胞の断面が瞬時に圧着されてしまったからだ。


深層の主たる神話級の古代種は、目覚めてからわずか数十秒で、完全に無力化された肉塊となって沈黙していた。


静寂が、広大な大空洞を支配した。


天井から落ちる細かな砂利の音だけが、パラパラと虚しく響く。あれほど荒れ狂っていた熱気は完全に消え去り、生ぬるい風が吹き抜けるばかりだった。


俺は息を乱すこともなく、手首の時計に目を落とした。午後一時十六分。予定のタイムスケジュール通り、一分以内で完全に処理を完了できた。


「……パパ、すごい! ぴったり三分割だね!」


避難境界線で待機していた愛海が、リュックを背負ったまま駆け寄ってきた。その手には夏休みの自由研究ノートが開かれており、ボールペンの軌跡とドラゴンの解体部位が、カラフルな色鉛筆で見事にスケッチされている。


「怪我はないか、愛海。埃っぽくてすまなかったな」


「うん、ぜんぜんへいき! パパのお仕事、すっごくかっこよかったよ!」


愛海が満面の笑みで見上げてくる。その無邪気な笑顔を見た瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。娘が笑っていれば、どんな残業も苦にはならない。


だが、そんな親子のやり取りを、まるで悪夢でも見ているかのような表情で見つめている人物がいた。


マーガレット・カーターだ。


彼女は胸元に抱えた銀色の端末――すでに過負荷で基板が焼き切れ、黒く煤けた液晶画面のまま沈黙している最新鋭解析器の残骸を抱きしめたまま、彫像のように固まっていた。機械はすでに動かない。だが、超一流の魔導士である彼女自身の研ぎ澄まされた知覚器官が、眼前の空間に残された異常すぎる痕跡を、痛烈なまでに捉えてしまっていた。


「あ……ありえない……。古代竜の魔力障壁、推定硬度ランクSSS……それを、単一の物理筆記具で……? 残留魔力反応すら残っていない……? 違う、これ、は……魔力なんかじゃない……空間そのものを……均等に……!?」


マーガレットの細い指先が、ガタガタと激しく痙攣した。エリート官僚としての冷静沈着な仮面は完全に剥がれ落ち、眼鏡を失って露わになった青い瞳は恐怖で極限まで見開かれている。


先ほど焼き切れた端末の排気スリットから、焦げた異臭が微かに漂っていた。もはや数値を測る道具など残っていない。しかし、道具などなくとも、目の前の事象が人類の築き上げてきた魔導工学の法則を根底から踏み躙っていることくらい、彼女には痛いほど理解できていたのだ。


「あ、ああ……」


マーガレットはその場に力なく両膝をついた。冷たい石畳に膝を打ち付ける痛みすら感じていない様子だった。彼女の視線は、抱えた鉄くずではなく、目の前に立つくたびれたスーツ姿の男――この俺へと注がれていた。


連盟が警戒し、査察の対象としていたのは、規格外の才能を発現させた小学生・結城愛海だったはずだ。だが、現実は違った。この少女の背後に控えていた、どこにでもいる平凡な父親こそが、人類の測定基準を根底から覆す正体不明の怪物だったのだ。


レオンハルトに至っては、もはや言葉すら発することができず、両手で頭を抱えたまま岩陰で小刻みに震えていた。己の武力と世界ランキングを絶対視していた男の矜持は、ボールペン一本の事務処理によって完全に粉砕されていた。


「マーガレットさん」


俺はカチリと音を立ててボールペンの芯をノックで収納し、胸ポケットへと戻した。そして、膝をつく彼女を見下ろし、穏やかなビジネストーンで声をかけた。


「これにて、今回の査察における実地試験および安全確認は終了ということでよろしいですね。合意書類へのサインは、後日ダンジョン庁経由で郵送していただければ幸いです」


「あ……、は……」


マーガレットの喉から、掠れた空気の抜けるような音しか漏れてこない。彼女は俺の顔を見上げることすらできず、ただ恐怖に竦んで硬直していた。


「それじゃあ、行こうか愛海。十七時半からの特売には、万全の態勢で臨みたいからな」


「うん! きょうのばんごはんは、ハンバーグだよね!」


「ああ、愛海の大好物の特大サイズを作ろうな」


俺は愛海の小さな手をしっかりと握り、優しく微笑みかけた。


煙を上げる古代竜の亡骸と、完全に沈黙した解析器の残骸を背後に残し、俺たちは足早に地上ゲートへと歩みを進める。


怪物の正体を確信した特使マーガレットが呆然と見送る中、脱出期限である十五時、そして夕方の駅前スーパー『サトウストア』の特売開始に向けて、俺たちのスケジュールは寸分の狂いもなく動き出していた。

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