もしも明日が雨ならば 1
雨が降っていた、土砂降りの雨だ。
幌布一枚を隔てた外界に絶え間なく降る雨粒は、底冷えのするような寒気と耳につく雨音とを竜車の荷台に運んでくる。
旅に望む身分には非常に喜ばしくない天候であったが、それに構わず竜車は泥をはねながら街道を進んでいた。
別段に、強行軍を進めているというわけではなく、元来竜車というものはそういうものであるらしく、また御者を担っているポーリーも先天的な体質から雨も風もあまり障害にならない体をしておりそこに文字通り人外のスタミナが輪をかけ、こうして雨風を無視するような進行になっていた。
ざわざわと騒ぐ幌布の音に耳を澄ましながら、ダミーは水の入った樽に背中を預け、ぼんやりと視線を宙にさまよわせていた。
半日がけの退屈が思考を酷く茫洋としたものにしていた。死者の宮殿で、否、このいかにもおファンタジックな世界で目覚めてから息をつく暇もなく連続していたトラブルが一応の沈静化を見せ、やっと訪れた平穏だった。現状への疑問、今後の展望、考えるべきことは多くある筈なのだが、どうにも思考がまとまらない。
―――混乱、しているのだろうか。
人でないものと戦った、人に似たものを殺した、人間が死ぬのを見た、そして自分自身の手で人間を殺した。おおよそ、平常に生きる人間の感性を歪ませるような出来事ばかりを体験した。だというのに、自分はそれに何も感じていないように思える。この寄る辺もない異郷の地でゴミクズのように死ぬかもしれないという不安も、その後も続いていた筈の誰かの命を、その可能性をその手で摘み取ったという後悔も、何も、何も無いのだ。
自分は、どうなってしまったのだろうか。こんな無感情な人間であっただろうか。自問の答えを、記憶に求めようとしても、その記憶すら曖昧な部分が多く、それがダミーの心をじりじりと苛む。
自身の胸を焼く熱を吐き出すように、ダミーは大きく息を吐きだした。
無性に煙草が吸いたかった。喉を焼き肺を蝕む毒の煙を胸一杯に吸い込んでこの苛立ちを吐き出してしまいたかった。
だが、それでも荷台の閉じた空間でぷかぷかと紫煙を吐き出さない程度の分別がダミーにもあった。だからこそ、どうもいらいらとする。
天布を眺める視線を何気なく戻すと、ダミーの対面でアイリと共に一つの毛布にくるまって船をこいでいた筈のエウナの青い瞳がダミーを見つめていた。
「驚いた。眠っていると思っていたよ」
「眠っていましたわ、さっきまでは」
そう答え僅かに身じろきをするとエウナの肩によりかかり寝息を立てていたアイリの頭がエウナの膝の上にころりと滑り落ちた。乱れた毛布を改めてアイリの上にかけなおし、エウナはまだ少しとろりとした表情ででアイリの髪を撫で始めた。
「子供、好きなのか?」
退屈混じりに荷台の沈黙の中にそんな言葉を投げる。
「そう、なのかしら。でもこのくらいの年頃の子供に優しくしてあげたくなるのは、そこまで珍しいことではないのではなくて?」
言われてみれば、と沈黙するダミーに、エウナは、でも、と言葉を接いだ。
「殊にそう見えるというのなら、それは多分私に姉妹が多かったからでしょうね」
「ほう?」
「私、これでも良いところのお嬢様なんですよ」
目を細めるエウナに、ダミーはなるほどと短く呟いた。
変わった喋り方をする人間だとは思っていたが、そういう出自の人間というなら納得がいく。
「と、なるとツァリーベってのはお前さんの実家か何かかい」
直後、エウナの顔に浮かんだ何とも形容し難い表情にダミーは思わず口を噤んだ。
眉を寄せ、唇を引き結び、まるで何か嫌な事を想起するように表情を暗くするエウナは、沈黙したダミーに一瞥を投げると、すぐにそれを霧散させ曖昧な微笑を浮かべた。
「少し、惜しいですわね。あの街にいるのは私の妹ですわ」
そう語るエウナの表情の陰りにダミーは気づいていたが、先ほどの事もあり殊にそれを指摘することもなく黙ってエウナの言葉に耳を傾けていた。その沈黙をどうとったのか、エウナは何かを思案するように、いや、より正確にはそれを言うべきか否かを迷うように間を置き、しかしやがて再び口を開いた。
「妹は、ツァリーベの街で商会の会長をやっていますの。メティス商会というのですけど、とても大きな商会ですわ」
「優秀なんだな」
「ええ、とても。私が人里離れたあの小屋で長らく薬師の真似事がしていられたのもあの娘のおかげですの」
紡ぐ言葉には誇らしげな色がにじんでいたが、反面その表情はどこか硬い。何か、複雑な事情があるのだろうか。
「それにしても、どんどん雨足が激しくなるな。このあたりはいつもこうなのか?」
なんともない風にそう話を振ると途端にそれまで見せていた緊張した雰囲気をふわりと溶かし、そうですわね、と天布に視線を向けた。
「雨自体はそう珍しくはありませんが、ここまで激しく降るのは流石に稀ですわね。嵐でも起きているのかしら」
「案外、我らの誇るトラブルメーカー殿の呼び寄せたトラブルかもなあ」
突然二人の会話に割って入った声に、ダミーは苦笑して肩をすくめてみせた。
「そのトラブルから俺を守るのがお仕事だろうよ、お前さんは」
御者台と荷台とを隔てる幌布をめくり、水の滴る豚頭がのぞいていた。
「何かありましたか?」
ポーリーに手ぬぐいを渡しながらエウナが問う。
手ずからの気遣いに相好を崩しつつ、ポーリーは荷台に積まれた荷物の内から大きな布切れを取り出すとダミーに投げてよこした。
「この先で検問をやっているようだ。この面相が御者台に座っているのは少し都合が悪い」
酷く端的な表現に、ダミーは首を傾げたが、エウナの方はそれで意味が通じたのかダミーの手から布切れを抜き取るとそれにするりと頭を通した。それは、フード付きのローブのようだった。
「だったら私が代わりますわ。一応、あの街のギルドにはツテがありますから」
そう告げると、未だ事情の掴めないダミーと止めようとするポーリーの横をするりと抜けて幌布の向こうに消えてしまう。
「……いまいち、状況がわからないんだが」
枕をなくして寝ぼけ眼のままふらついていたアイリを捕まえ自分の胸に抱き込みながら呟かれたダミーの言葉に、ポーリーは大仰に溜息をついてこう答えた。
「俺様は超絶賢いってことだよ」
はぐらかしているのか、それともジョークのつもりなのか、からかわれているのか。
冗談めかしたポーリーの言い様にダミーは鼻を鳴らすと、目を閉じ寝の姿勢に入った。
「養豚場に着いたら起こしてくれ」
ポーリーの悪態を騒々しい雨音に溶かし、ダミーは一度大きく息を吸い込むとそのまま寝息を吐きだした。




