混沌よりいづるもの6
「そういうわけで、道中でツァリーベの街に寄ることになった」
少女との晩餐を終え、未だ寸劇を続ける二人を横目に近くの水辺に少女と来ていたダミーは、暫くして現れたポーリーの言葉に、ふうん、と気のない返事を返した。
「なんだ、反応が薄いな」
「元々ヴェリエル領とやらに行くのはお前さんに言われてのことだ。それがなくても俺は根無し草の身だからな、まあ舵取りのお前がそうするって言うなら、そうすればいい」
「そうか、ところでお前何してるんだ?」
「見て分からないか?」
ダミーは桶に汲んだ水に手を浸しながらそう答えた。水気を帯びた両手を膝の上の少女の髪に通し、ほつれほつれた長い黒髪を少しづつほぐしていく。
少女は、水の冷たい感触に時々ぴくりと身を震わせるが、それ以外では特に動きもなくダミーの胡座の上に座り大人しくしていた。
「髪は女の命だってのにあの様じゃあんまりに酷いだろう」
「なるほど、な」
そう頷いたものの、ポーリーの表情は釈然としない。
ダミーは少女の髪と格闘しながら、横目にその表情を一瞥した。
「なんだ、俺がいたいけな少女の世話を焼くのがそんなに不思議か?」
「意外ではあるな」
心底にそうであるというその声にダミーは微かに苦笑をもらした。
「……歳の離れた妹がいたんだよ」
端的な表現であったが、ポーリーの側ではそこに一応の答えを得たのか、なるほどな、と呟いた。
「その娘も髪が長かったのか?」
「いや、どうだろうな……そこまで細かいところは思い出せない」
「おいおい、自分の家族のことだろう」
怪訝そうな表情を浮かべるポーリーに、ダミーは彼が自分の境遇についてそう詳しく知らないのではないかと察した。堕星天という言葉が招いたトラブルの記憶からあえて自分から積極的に話してはいなかったが、これまでのやりとりからもそのような様子はあったように思える。
「なあ、そういえばお前さんは、お前さんがいうところのお嬢から俺って人間についてどう説明されているんだ」
唐突ともいえる話題の変化に、ポーリーは少し考えるような仕草をしてからやがて口を開いた。
「恩人が聖堂騎士団に捕まって護送されるからそれを救出してこい、と言われたな。あとは少し世情に疎いところがあるからよく助けるようにと」
「それだけか?」
「聖堂騎士団に喧嘩売るようなマネするってんだから準備に関してはもっと色々あったがな、お前に関して聞いてるのはそれと背格好くらいだ」
―――なんとまあ、
そんな適当な説明しか受けていないような相手を助けるために一週間もかかるような道のりをやってきたというのだろうか。半ばの呆れを顔に表すダミーに、ポーリーはにっと笑ってみせた。
「宮仕えってのはそういうことだ。ましてやお嬢の言うことだからな、間違いはないさ」
そう誇らしげに語る。忠誠心というのか、信頼というのか、そんなあやふやなものに自分の身を捧げる感性はダミーには理解しがたいものだった。
だが、これまでの短い間に、この豚頭の怪人が見た目よりも義侠心というものに厚いことはダミーも薄々と感じていたことでもあった。お人好し、とまでいっていいものかどうかはまだ判断がつかないが、それに近い性分をしているのだろう。
ポーリーの性質について内心で感心をしていたダミーに、ポーリーは、それで?、と言葉を接いだ。
「わざわざそれを聞くって事は謎多きダミー様の秘密を明かしてくれる気になったんだろう」
「なかなか鋭いな」
ダミー自身のそれを真似るような言い回しに苦笑しながら、ダミーは首肯した。
「少し前まで、名前をなくしていたんだ」
「それが妹の髪型が思い出せないことと関係があるのか」
「親切な知り合いによれば、そうらしい。名前を失くしたものは自己が曖昧になっていく、と。実際の所はどうなのかについては、まだよくわからんがね」
「なかなかややこしい人生送ってんな、お前も」
「間近で見てたんだからそのややこしさなんて今更だろう」
「たしかにな」
からからと笑うポーリーを眺めていたダミーは、あごに触れた小さな手のひらの感触に、自分の膝の上に視線を下ろした。
少女の紅い瞳が、間近からダミーを見上げていた。
「おっさんがダミーだったのか」
いつかの偽りを咎めるでなく、しかし確信に満ちた声で少女はそう言った。
「ああ。お嬢ちゃんの探してるダミーかどうかは知らんがね」
内心に気まずさを感じながらそう返すと、少女は、そうかと頷き、ダミーの首にしがみついた。
「―――やっと見つけた」
幼げな少女のものとは思えない力による締めつけに呻くダミーの耳元に唇を寄せ、少女は低い声でささやいた。抑揚はなく、しかしその平坦な声には何か得体の知れない重さがあった。
「なあ、ダミー。名前をくれないか」
熱い吐息と共にそんな言葉が吐き出される。
「名前……?」
「私は何もないところから来たから名前が無いんだ、だから名前が欲しい」
苦しげな息のなかで紡がれる言葉に、ダミーは未だ混乱する頭で前後を考えた。
少女の名前がないという話は聞いていた。未だ正体のわからないこの少女は、何故かダミーを探していて、そしてダミーに名前が欲しいと要求している。
尋常でない少女の様子に戸惑いながら、ダミーは首にかじりつく少女の体をなんとか引き離し思考を巡らせる。名前、名前、名前、と。
「―――アイリ、というのはどうだろうか」
ぴたりと、少女の動きがとまった。
「それが私の名前か……?」
「お嬢ちゃんが嫌じゃなければ」
拘束の緩んだ頚に酸素を通しながらダミーが言うと、少女の顔がふわりと緩んだ。
「そうか、だったら私はアイリだ」
これまで感情の希薄だった少女の紅い瞳に明らかな喜色が浮かんだ。
「そんな顔も出来るんだな」
呟くダミーの耳に、唐突にごぽりと何か重いものが泡立つような奇妙な音が響いた。
音の元、アイリに目を向けたダミーは、見た。そして、理解してしまった。これまで素性の知れなかった少女の正体の一端を。
濃い血の香り、目の前に広がる黒と、ポーリーの叫び声を最後に、ダミーの意識は暗闇に沈んだ。
―――獣の咆哮が、遠く聞こえた。
『混沌よりいづるもの』 了




