第7話「数字の向こう側」
5月17日、土曜日。
大阪では夜明け前に雨が上がり、空には薄い青が戻っていた。道路の端には水たまりが残り、朝の光がそこに反射していた。誠はほとんど眠れないまま目を覚ました。
昨夜の任務は終わった。報告も済んだ。仲間たちは次の仕事へ戻っている。だが、誠の中では何も終わっていなかった。
食堂で朝食を取っていると、とおるが向かいに座った。
「眠れた?」
「少しだけ」
「初任務だったからな。きつかっただろ」
誠は箸を止めた。
「お前は、ああいうことをどう考えてる?」
「どう、って?」
「昨日の老人のことだ。資料では、高齢者を社会保障の負担として一括りにしている。でも、昨日の人は……ここで普通に暮らしていた」
とおるは、すぐには答えなかった。食堂の向こうでは、別の構成員が味噌汁を飲みながらニュースを見ていた。
テレビには高齢者施設の事件とは関係のない政治討論が映っている。
社会保障の負担をどう分かち合うか。現役世代の手取りを増やすには何が必要か。聞き慣れた言葉が流れていた。
「俺も、全部を正しいと思っているわけじゃない」
とおるは言った。
「でも、問題そのものはある。医療費も介護費用も増えている。政府の対策が遅いのも事実だ。そこまで否定したら、何も考えられなくなる」
「問題があることと、誰かを殺していいことは別だろ」
「そうだよ」
その返事に、誠は顔を上げた。
「そうだと思ってるなら、どうしてここにいる?」
とおるは視線を落とした。
「俺は、ここで何が起きているか見たいんだ。外から批判するだけなら簡単だ。でも、中の人間が何を根拠に判断しているのか、どんな情報を使っているのか。
それを知った上で考えたい」
「知るために、加わる必要があったのか」
「それは、今でも分からない」
とおるの声には、初めて聞く迷いがあった。誠は、その迷いを責める気にはなれなかった。
自分もまた、見学に来た時点では、何をすることになるのか分かっていなかったのだ。
午前中、誠は自分にできることを探した。訓練室へ行く気にはなれなかった。
通信室の前を通りかかったとき、とおるが画面に向かって作業していた。誠は扉の外から声をかけた。
「内部資料って、見られるのか?」
とおるは振り返った。
「何を見たい?」
「襲撃対象の決め方。天野老人ホームの高齢者を、どうしてまとめて標的にしたのかが知りたい」
とおるは数秒考えたあと、答えた。
「正式な権限がないと、全部は見られないけど、閲覧できる範囲の資料なら案内できるよ。」
午後、誠は許可された範囲の内部資料を読み始めた。資料には年齢構成、医療費、介護の必要度、施設の利用状況、過去の行政記録がまとめられていた。
個々の入居者の名前を挙げた標的リストはなかった。OZは複数の資料を施設単位で組み合わせ、そこにいる高齢者を一括して襲撃対象にしているようだった。
説明は一見合理的に見えたが、数字の選び方や何を重視するかは資料を作る側の判断に左右される。
誠は、大学の図書館で読んだ統計資料を思い出した。ひとつの数字だけを見れば、現象は単純に見える。別の指標を加えると、意味が変わることがある。
平均値は、個々の事情を隠すことがある。
相関があるからといって、原因が確定するわけではない。そうしたことは、大学の講義でも習っていた。
誠は、OZの資料に記載された数値を、政府が公開している統計と照らし合わせた。医療費の増加、高齢者人口の比率、現役世代の負担。
大きな傾向そのものは、政府の資料にも見られた。
だが、OZが結論を導くために使っている指標は、都合のよい部分だけを抜き出している可能性があった。
入居者一人ひとりの生活や家族関係、地域での役割など、数字にしにくい要素はほとんど見えなかった。
夕方、誠は図書館を出た。日差しは弱まり、雲の影が建物の壁をゆっくり移動していた。
彼はスマートフォンでニュースを検索した。政府の発表、専門家の解説、一般の人々の投稿。そこには互いに矛盾する意見が並んでいた。
「高齢者を切り捨てるな」
「若い世代だけに負担を押しつけるな」
「制度を変えるべきだ」
「殺人で解決するな」
それぞれの言葉の背景には、生活の苦しさや恐怖、怒りがある。誠は、自分がどの意見に同意するのかを考えた。高齢者が社会の負担になるという言い方には抵抗があった。
だが、現役世代の負担が増え続けていることも否定できない。制度を変える必要があるという主張には賛成できる。しかし、OZが選んだ方法を受け入れることはできなかった。
夜、本部へ戻ると、誠は出達に会い、資料を調べたことを伝えた。
「OZの数字は、全部が間違っているわけじゃない。でも、結論に合わせて選んでいるように見えます」
出達は椅子に座ったまま、誠を見た。
「そう思った理由は?」
「政府の統計と比べました。高齢化や医療費の増加は事実です。でも、個々の人間を標的にする根拠としては足りない。資料にない情報を、どう扱っているのかも分からない」
「なら、もっと調べろ」
出達の答えは簡潔だった。
「疑問を持つなとは言わない。自分で考えろ。ただし、考えた結果を他人のせいにするな。ここにいるのも、お前自身の選択だ」
誠はその言葉を受け止めた。出達は、誠の疑問を封じようとはしなかった。だからといって、疑問に答えたわけでもない。結局、選ぶのは誠自身なのだ。
部屋を出たあと、誠は窓の外を見た。夜の街には明かりが並び、車が道路を流れていた。人々はそれぞれの暮らしを続けている。社会は確かに問題を抱えている。
政府は遅く、数字は重く、将来への不安は消えない。それでも、誰かを数字に変え、命を奪うことが解決だとは思えなかった。
誠はOZを離れることも考えた。しかし、とおるがここにいる。出達の考えも、まだ理解できていない。そして、問題そのものから目をそらしたくはなかった。
彼は、すぐに結論を出さないことを選んだ。OZの主張を信じ切ることも、すべてを否定して去ることもせず、調べ続ける。その選択が正しいのかは分からない。
ただ、誠は初めて理解した。数字は現実を映すことがある。しかし、数字だけで現実のすべてを語ることはできない。




