第6話「初任務」
2036年5月16日、金曜日。
大阪の空には朝から低い雲がかかっていた。雨は降っていなかったが、湿った風が街路樹を揺らし、夕方が近づくにつれて空気は重くなっていった。
午前9時。大阪市大正区にあるOZ大阪本部の一室に、現場へ向かう5人が集まっていた。
浅瀬誠にとって、これが初めての実任務だった。加入してから数週間、訓練を続けてきた。
身体は少しずつ動くようになったが、任務の話が現実になるたび、訓練室で覚えた動作とは別の緊張が胸に広がった。
襲撃に加わるのは、現場リーダーを含む4人だった。
リーダー以外の3人には誠も含まれており、誠を除く3人はいずれも場数を踏んだベテランだった。
これとは別に支援担当者が1人同行し、その支援担当者も現場に慣れたベテランだった。
誰も無駄口をたたかず、必要な確認だけを進めていた。
「今日は、見たものをそのまま受け止めろ」
出達しんは、出発前に誠へそう告げた。作戦の承認者である出達は、現場には同行しない。大柄な身体に無駄な動きはなく、声にも高ぶりはなかった。
初任務の誠に細かい励ましをすることも、恐怖をあおることもない。
「現場では、予定どおりに進まないことがある。判断が必要になったら、状況を見ろ。命令だけを待つな」
誠は頷いた。ハーフヘルメットを手に取る。訓練では何度も身につけた装備なのに、今日は重さが違うように感じられた。
現場リーダーが、作戦の対象について説明した。
「今回の対象は、愛知県岡崎市の天野老人ホームにいる高齢者全体だ。特定の個人を対象にする訳ではない。やることはシンプルだ。施設内で遭遇した高齢者を殺害する」
天野老人ホームは、入居者80人を想定した地上2階建ての施設だった。
実際には約76人が暮らし、職員は約45人。食堂や談話スペース、廊下、階段、建物の外周や駐車場などを含め、施設内外には合計14台ほどの防犯カメラが設置されていた。
周囲には住宅地と農地が混在し、夜になると交通量は少なくなる。襲撃対象は、ここで暮らす高齢者全体だった。
「なぜ岡崎なんですか?」
誠は、口に出してから、自分が質問したことに少し驚いた。
「関西だけで事件を起こし続ければ、本部の地域を推測されやすくなる。標的の選定は、組織全体の動きも考えて行う」
リーダーはそう答えた。施設そのものに特別な不正があったわけではない。
OZは、入居者の年齢や施設の利用状況を理由に、そこに暮らす高齢者を一括して標的にしていた。特定の入居者を個人として調べ、事前に選び出した作戦ではなかった。
誠は資料を見ていたが、なぜ施設単位で高齢者全体が対象となったのか、その根拠をすべて理解していたわけではない。
数字と判断理由が並んでいても、そこに暮らす人々の人生とどう結びつくのか、誠には分からなかった。
午前9時の集合後、5人は大阪を離れ、名古屋の拠点へ向かった。
移動中、会話はほとんどなかった。窓の外の景色が変わっていくのを見ながら、誠は何度も手のひらを握っては開いた。
自分がこれから何をするのか、理解しているつもりだった。だが、頭で理解することと、実際にその場に立つことは同じではない。
名古屋拠点に着くと、隊員たちは改めて作戦概要を共有し、互いの役割と連絡事項を確認した。
現場リーダーは、想定と異なる状況では無理に進めないこと、標的以外の人間を巻き込まないことを繰り返した。
細部の確認が続く間、誠は周囲の落ち着いた様子を見ていた。彼らにとっては、経験してきた任務の1つなのだろう。自分だけが、これから起きることを想像しきれていない。
大阪本部では、新田目とおるが通信設備の前に座り、現場からの連絡に備えていた。
彼は今回の5人には含まれていない。プログラミングや情報管理、通信に強いとおるは、現場へ出るよりも本部から支援する役割を任されていた。
誠は出発前に短く言葉を交わしたが、とおるはいつもの軽口を控え、ただ「無事に戻れよ」と告げた。その声が、誠の耳に残っていた。
夜が近づくころ、誠はハーフヘルメットを装着した。顔の大半が隠れ、息の音が内側にこもる。仲間たちの姿も、見慣れた人間というより、黒い装備をまとった集団に見えた
。
「確認しておく。天野老人ホームの入居高齢者が標的だ。それ以外の人間には手を出すな」
現場リーダーが言った。
「職員や外部の人間を傷つけるな。想定外のことが起きても、周囲を見失うな」
その言葉を聞いて、誠は少しだけ気持ちが軽くなった。だが、標的の命を奪うことが正当化されるわけではない。その疑問は、胸の中に残ったままだった。
20時15分ごろ。愛知県岡崎市の天野老人ホームで、襲撃が始まった。夕方から降り出した雨が、施設の窓や玄関先を絶え間なく打っていた。
施設は地上2階建てで、窓のいくつかに明かりが残っていた。誰かがテレビを見ているのだろう。建物の中では、夜勤の職員が入居者の様子を確かめていた。
誠は目の前の建物を見つめた。病院や老人ホームは、ニュース映像の中では事件現場になる。
だが、現実の場所には、食事の匂いも、眠る人の気配も、家族からの手紙もある。
隊員たちは短い合図を交わし、施設内へ入った。現場リーダーの指示は簡潔で、ほかの隊員も迷いなく動いていた。職員が突然の物音に振り返り、驚いた声を上げる。
隊員たちは相手の動きを制し、周囲の状況を確かめた。誰も大声で騒ぎ立てず、必要な言葉だけが交わされていく。誠には、その落ち着きがかえって恐ろしく感じられた
。
施設内外には14台ほどの防犯カメラがあった。
隊員たちは記録装置を含む監視設備を意識して行動していたが、古い機器も混在しており、すべてを把握できていると断言できる者はいなかった。
彼らは経験に基づいて手順を進めていた。それでも、現場のすべてを見通せるわけではなかった。
誠は、仲間たちとともに2階へ向かった。個人名を挙げた指示はなく、隊員たちは施設内で遭遇した高齢者を襲い、殺害していた。
誠は仲間たちの動きから離れ、2階の開いた個室の前を偶然通りかかった。
テレビの音が廊下に漏れている。部屋の中に老人の姿が見え、誠は足を止めた。
横田孝明は、ベッドの上で読みかけの本を開いていた。テレビの音を聞き流しながら、枕元のコップに手を伸ばそうとしたとき、廊下の物音が耳に入った。
普段の夜勤の職員が来る足音とは違う。いくつもの足音が重なり、知らない声が短く飛び交う。
何が起きているのか分からず、横田は本を閉じた。胸の奥が落ち着かない。
助けを呼ぶべきか、それとも様子を見るべきか。答えを決められないまま、彼は部屋の入口を見つめた。
誠は目の前にいる老人を見た。
痩せた身体に白い髪。枕元には水の入ったコップと、読みかけの本が置かれていた。
老人は、ハーフヘルメットを着けた誠たちを見て、しばらく言葉を失った。
「……何だ、あんたたちは」
誠は答えられなかった。任務前の説明では、施設にいる高齢者が個々の事情に関係なく、社会保障に負担をかける存在としてひとまとめにされていた。
だが、目の前にいる横田は驚きと恐怖で眉を寄せ、シーツを握りしめていた。
誠は動けなかった。任務の前に何度も想像した場面だったはずなのに、頭の中で用意した言葉も判断も、目の前の光景の前では役に立たなかった。
「浅瀬」
仲間が低く呼んだ。
誠はようやく息を吐いた。自分がためらっていることを、ほかの隊員は気づいている。ここで止まれば、任務に支障が出る。動かなければ、仲間に疑われる。
だが、動けば、自分はこの老人の命を奪う側に回る。
「家に帰りたいな」
横田の口からこぼれたのは、問いではなく、そんな言葉だった。
ここが今の自分の暮らす場所だと分かっていても、長く生きた人間にとって、帰る場所とは建物だけを指すものではない。
横田は、若者の目を見ようとした。何かを伝えられる気がしたが、その前に、誠が一歩近づいた。
誠は拳銃を両手で構えた。訓練で教わった姿勢を取ろうとする。手は震えていたが、銃口を横田の頭部へ向けた。目の前の老人は、ハーフヘルメットの奥にある誠の顔を見られない。
誠もまた、横田の目から視線をそらせなかった。
一瞬、誠の動きが止まった。
ためらいは、ほんの数秒だった。だが、誠には時間が引き延ばされたように感じられた。老人を「負担」という言葉に置き換えようとしても、目の前の姿がそれを拒んでいた。
枕元の水。読みかけの本。シーツを握る手。どれも、作戦資料には書かれていなかった。
それでも、誠は引き金を引いた。
銃声が室内に響いた。訓練で教わったとおり、確実に命を奪うため、誠は続けてもう1発撃った。2発とも横田の頭部に正確に命中した。横田は即死し、身体はその場で力を失った。
銃撃の衝撃で脳髄が室内に飛び散り、白いシーツや周囲を汚した。生々しい血の匂いが、閉じた個室の空気に広がっていった。
誠は、何が起きたのか理解できずにいた。拳銃を持つ両手が、まだ同じ形のまま固まっている。目の前にいる老人は、もう何も言わない。
さっきまで動いていた胸も、震えていた手も、止まっていた。誠が撃ったのだ。自分の手で、目の前の人間を死なせた。
誰かが短く指示を出し、隊員たちは次の行動へ移った。現場リーダーは周囲の状況を確認し、残る隊員たちをまとめていた。彼らの動きに大きな乱れはなかった。
誠だけが、その場に取り残されたような気がした。
任務は終わった。隊員たちは施設を離れた。職員や入居者に恐怖と混乱を残したことは明らかだった。
標的以外への被害を広げないように行動したとしても、襲撃そのものが人々の暮らしを壊した事実は消えない。
帰路の車内で、誰も誠に話しかけなかった。
誠は膝の上に置いた自分の手を見つめていた。血などで汚れた手は、訓練室で何度も拳銃を握ったときの手と同じはずなのに、別の誰かの手のように見えた。
指先を動かしてみても、そこに残る感覚は消えなかった。
近くの隊員が、慰めるように言った。
「初めてなら、そんなものだ」
少し間を置いて、彼は続けた。
「慣れるさ」
誠は返事をしなかった。慣れていいことなのだろうか。慣れなければ続けられないのか。窓の外では夜の街が流れていた。誠はもう1度、自分の汚れた手を見た。
どれだけ拭いても、あの部屋の光景まで消えるわけではない。
大阪本部に戻ったあとも、とおると長く話す気にはなれなかった。通信設備の前にいたとおるは、誠の顔を見ると何かを尋ねかけたが、結局、言葉を飲み込んだ。
誠も何も話さなかった。2人の間には、幼いころからの付き合いだけでは埋められない沈黙があった。
その夜、誠はベッドに横になっても眠れなかった。老人の部屋にあった読みかけの本と、水のコップが頭から離れない。OZが示した資料には、数字と理由が並んでいた。
だが、あの部屋には、数字だけでは説明できないものがあった。
5月16日。誠にとって、OZは初めて現実の重さを持った。




