第8話「最初の印象」
2036年5月17日、午前7時12分。
愛知県岡崎市の空は、夜明けから降り続く雨に覆われていた。老人ホームの正面玄関には規制線が張られ、濡れたアスファルトに赤色灯が滲んでいる。
建物の中では救急隊員と警察官が交差し、職員たちは待機室で事情聴取を受けていた。
金瀬らいは、現場に到着するとコートの雨粒を払った。
26歳。警察官としての経験は十分にあるつもりだったが、昨夜の事件はこれまでのどの現場とも違った。
被害者の大半は高齢者。犯人たちは建物の構造を把握し、短時間で複数の部屋を移動している。
無差別に暴れた形跡は薄く、まるで決められた作業をこなすような動きだった。
「被害状況は?」
金瀬が尋ねると、現場責任者は疲れた顔で資料を渡した。
「死亡者、負傷者ともに複数。犯行声明らしきものは残されていません。職員の証言では、黒い装備の集団が侵入し、高齢の入居者を狙ったようです」
「顔は?」
「全員、頭部を覆っていたそうです。顔を見た人はいません」
金瀬は資料を閉じた。ニュースでは、事件はすでに「老人ホーム襲撃」として報道されていた。
インターネット上では、匿名の組織による犯行ではないかという話が広がっている。OZという名前も、断片的な書き込みの中に現れ始めていた。
「防犯カメラの映像を見せてください」
建物の管理室で映像を確認したが、多くのカメラは襲撃の直前に映像が途切れていた。
記録装置そのものが壊されているものもある。犯人側が監視設備を意識していたのは明らかだった。
「残っている映像が1つだけあります」
職員が指差した画面は、建物の端に設置された古いカメラのものだった。
雨で画質は悪く、画面の一部には水滴の跡が残っていた。それでも、夜間の廊下を移動する数人の姿を確認できた。
黒い服装。半分だけ顔を覆うハーフヘルメット。手短な合図を交わし、職員の動きを封じている。
無駄な動きは少ない。誰かが立ち止まれば、別の誰かが代わって先へ進む。訓練された集団に見えた。
金瀬は再生速度を落とした。
「ここ。少し戻してください」
画面の端に、他の構成員より半歩遅れて歩く人物がいた。体格から若い男と思われる。廊下の角でいったん止まり、部屋の中を見たあと、わずかに首を引いた。
その部屋には、ベッドで上体を起こした老人がいた。
ほかの構成員は迷わず動いている。だが、その人物だけは何かをためらっているように見えた。時間にすれば数秒。記録映像の粗さもあり、単なる確認動作だった可能性もある。
それでも金瀬は、映像を一時停止した。
「……この人」
「何か分かりますか?」と担当者が尋ねる。
「まだ何も。だけど、もう1度確認したい」
映像が進む。その若い男は部屋に入った。直後、画面の一部が他の人物の身体で隠れる。数秒後、彼が廊下へ戻ってきた時、肩が不自然に強張っているように見えた。
犯行を終えた者の動きとしては、奇妙なほどぎこちなかった。
だが彼は逃げなかった。仲間の後について移動し、与えられた役割を最後まで果たしている。迷いがあったとしても、行動をやめるほどではなかったのだ。
金瀬は映像を巻き戻し、姿勢や歩幅、周囲を見る癖をノートに書き留めた。
名前も所属も分からない。顔もほとんど見えない。捜査資料に残せるのは、推測にすぎない特徴だけだった。
現場を出る頃、雨は少し弱くなっていた。
玄関先では、報道陣が警察の発表を待っている。金瀬は質問を避けるように車へ向かった。
社会の問題を理由に高齢者を襲う組織がいる。犯人は高い計画性を持つ。しかも、映像の中の1人は殺害の直前にためらったように見えた。
車内で、金瀬はもう1度だけ静止画を見た。画面の中の若い男には、名前も事情もない。
何を考えていたのか、ほんとうにためらっていたのか、それさえ分からない。
勝手に意味を与えるのは危険だと、彼女は自分に言い聞かせた。だが、捜査とは最初から分かっている答えを探すことではない。
小さな違和感を集め、事実か思い込みかを確かめていく仕事でもある。
彼女はその画像を、ただの「犯人の1人」としてではなく、次に照合するための手掛かりとして残すことにした。
「ためらうなら、なぜやったのよ?」
誰に聞かせるでもなく、金瀬はつぶやいた。
その日の午後、彼女はOZ対策特別チームの執務室で、映像の静止画を資料へ添付した。周囲からは、顔の分からない人物に時間を使いすぎだという声もあった。
優先すべきは組織の全体像と次の襲撃を防ぐことだ。それは正論だった。
「この男だけを追うつもりはありません」金瀬は説明した。「ただ、同じ人物が別の現場に出てきたら、照合できるようにしたいんです」
資料は記録され、共有フォルダの1つに保存された。今は小さな特徴にすぎない。だが、金瀬の記憶にはその姿が残った。
仲間より少し遅れて動き、目の前の老人を前にして、ほんの数秒だけ止まった若い男。
その男の名前が浅瀬誠だと、金瀬が知るのはずっと先のことだった。




