第3話「地下の日常」
OZに加入した誠が最初に感じたのは、組織の思想そのものではなく、自分の身体が思うように動かないという事実だった。
4月下旬。
大阪の空は晴れたり曇ったりを繰り返し、昼間は汗ばむほどでも、地下の訓練室はひんやりしていた。誠は床に片膝をつき、荒い息を吐いていた。
訓練用のマットには汗が染み、遠くでは別の構成員が足運びを繰り返している。
「立て」
指導役の声は短かった。
誠は歯を食いしばって立ち上がった。さきほど転ばされた腰が痛む。腕にも鈍い疲労が残っていた。大学では、体育の授業を真面目に受けていれば困ることはなかった。
だが、ここでは自分が動けると思っていたことと、実際に動けることの間に大きな差があった。
「相手を見ろ。力だけで押すな。状況を見て判断しろ」
その言葉は、出達が繰り返し口にするものだった。OZは軍隊ではない。
組織に集まった人間の理由も経験も技能もバラバラだ。だからこそ、状況に応じて動く判断が重要だと教えられた。
誠は、その考え自体には納得できた。問題は、訓練の先に何があるかだった。
身体を鍛え、仲間と連携し、任務に備える。
その任務が人を殺すためのものだと考えるたび、胸の奥に小さな石が沈んでいく。
休憩時間になると、誠は壁際に座り、水を飲んだ。そこへ、とおるがタオルを持ってきた。
「どう?思ったよりきつい?」
「思ったより、どころじゃない。お前はいいよな。訓練しなくて」
「俺は俺で、別の仕事があるからな」
とおるは笑って眼鏡を押し上げた。彼は通信室や情報管理の机に向かうことが多く、訓練室にいる時間は短い。
画面の中の情報を扱うとき、とおるの表情は生き生きとしていた。誠は、彼がここに居場所を見つけたのだと感じた。
「お前は、ここが好きなのか?」
誠が尋ねると、とおるは少し考えた。
「好き、というのとは違うかもしれない。自分が知らないことを知れる。普通の大学生活をしてたら、ここまで深く考えなかったと思う」
「考えた先に、何があるんだ?」
「それを今、探してる」
その答えは、OZ加入前と変わっていなかった。
誠は水の入ったペットボトルを握り直した。とおるは迷いを口にすることはあっても、歩みを止めようとはしない。誠は彼のことを理解しているつもりだったが、今は少し遠く感じた。
昼食の時間になると、訓練室の空気は大きく変わった。
食堂には湯気が立ち、炊きたての米と味噌汁の匂いが漂っていた。数人の構成員がテーブルを囲み、仕事や訓練の話をしている。笑い声もある。
ここにいる者たちは、外の世界では犯罪者として追われるかもしれない。
それでも、食事を前にすれば空腹を感じ、冗談に笑い、疲れをこぼす。
誠はそのことに、安心よりも戸惑いを覚えた。悪人はいつも悪人らしい顔をしている。そんな単純な考え方が、少しずつ崩れていく。
食堂の隅では、ロン・カリジュラが薄い国語の問題集を開いていた。
17歳の彼女は小柄で、褐色肌に青い瞳を持つ。長い黒髪をまとめ、鉛筆を握ったまま、同じ単語を何度も見直していた。
「ロン、何してるんだ?」
誠が声をかけると、彼女は紙を持ち上げた。
「これ……読む。むずかしい」
紙には「病院」と書かれていた。
「病院。びょういん、だよ」
「びょ……ういん」
「そう。病気の人が行くところ」
ロンは何度か口の中で繰り返し、ノートに書き写した。ひらがなとカタカナはなんとか読めるが、漢字はまだ難しいそうだ。誠が意味を説明すると、彼女は真剣に頷いた。
「日本語、もっと、できる。誠、教える?」
「俺でいいなら」
「ありがとう」
その言葉は少しぎこちなかったが、彼女は嬉しそうに笑った。とおるも隣に座り、簡単な言葉をいくつか教え始めた。ロンはノートに書き込み、発音を何度も確かめる。
彼女が言葉を覚える姿は、訓練室で見せる鋭い集中とは違っていた。
「どうして日本語を勉強してるんだ?」
誠が尋ねると、ロンは少し考えてから答えた。
「みんな、話す。私、分からない。分かる、もっといい」
「それはそうだな」
「あと……誠と、とおる、話す。分かりたい」
その言葉に、とおるはほんの短い間だけ表情を柔らかくした。
OZ大阪本部を見学した日、誠は施設の中を案内された。2階には食堂と共有スペースがあり、3階には訓練室や寝室がある。
4階には通信室と情報管理の設備が並び、5階には会議室や幹部用の部屋、6階には大会議室があり本部中枢となる。
地上6階と地下2階からなる本部は、単なる隠れ家ではない。
ここで暮らし、働き、訓練をし、次の行動を決める。外から見えないところに、組織の生活が組み込まれていた。
通信室の前で、とおるは画面を指し示した。
「ここで各地の情報をまとめる。事件の報道、支援者から来る連絡、内部の予定。全部が正しいとは限らないから、確認しないといけないんだ」
「情報を間違えたら?」
「当然、判断も間違える」
とおるは当たり前のように答えた。誠はその言葉を心に留めた。情報を選ぶ人間がいれば、見せられる現実も変わる。
OZが語る社会の数字も、彼らが集めた情報の一部にすぎないのではないか。
その疑問は、まだ口に出せなかった。
夕方、訓練を終えた誠はシャワーを浴び、共有スペースの椅子に身体を沈めた。
窓の外は薄い橙色に染まり、遠くで電車の走る音がした。大学の友人から、飲みに行こうというメッセージが届いていた。
誠は画面を見つめ、返事を打たずにスマートフォンを伏せた。
「帰らないのか」
とおるが尋ねた。
「今日はここにいる。明日、講義はあるけどな」
「無理するなよ。まだ慣れてないんだから」
「それは、お前が言うことじゃないだろ」
誠がそう返すと、とおるは笑った。
夜、施設の照明が少しずつ落とされていく。食堂では片付けが始まり、訓練室から音が消えた。誰かがシャワーを使い、誰かが明日の予定を確認している。
人々はそれぞれの部屋へ戻り、眠る準備をした。
誠は寝室のベッドに横になり、天井を見つめた。ここには日常がある。
食事があり、会話があり、冗談があり、疲れた人間を気遣う声がある。自分がここにいることを、少しずつ自然に感じ始めているのも事実だった。
だからこそ、怖かった。
いつか任務が来る。そのとき、自分は命令に従えるのか。従わなければ、ここで得た仲間との関係はどうなるのか。従ったなら、自分は何を失うのか。
答えは出なかった。地下のどこかで換気設備が低く唸り、建物は静かに夜を越えていく。
OZの本部は、戦う場所である前に、彼らが生活する場所だった。そして誠もまた、その日常の中に、少しずつ自分の居場所を作り始めていた。




