第2話「見学」
2036年4月14日、月曜日。
朝から空は曇り、大学の建物には雨の匂いが漂っていた。午前の講義を終えた学生たちは、廊下の窓から外を眺めながら、午後の予定を話していた。
誠ととおるは、講義棟の端にある空き教室で向かい合っていた。
机の上には、とおるが用意した資料が並んでいる。OZの設立時期、過去の事件、標的の傾向、公開された声明。
誠は1枚ずつ目を通しながら、時折顔を上げた。
「老人ホームを狙う理由は、医療費や介護費用を減らすため、ということか」
「そう説明している。高齢者が増えて、現役世代の負担が大きくなっている。それを政府が解決できないなら、自分たちが取り除くって考え方だ」
「取り除く、ね。人間を物みたいに言うんだな」
「俺もそこは引っかかってる。ただ、彼らが問題にしている数字まで全部間違いとは言えない」
誠は資料を机に置いた。
「数字が正しくても、結論が正しいとは限らないだろ」
「その通りだよ。だから、実際に見てみたい」
誠は、何度目か分からないため息をついた。とおるの説明には、事実と推測が混じっていた。
事件の報道から読み取れることもあれば、組織の内部を知らなければ判断できないこともある。
彼らの主張がどこまで本気なのか、どれほど大きな組織なのか、なぜ政治を支配しようとしないのか。疑問は尽きなかった。
「政治を変えたいなら、選挙に出るとか、政策を作るとか、ほかに方法があるだろ」
「彼らは、自分たちに国を運営する能力があるとは考えていないらしい。だから政治そのものには手を出さず、自分たちが標的を排除して社会を軽くするって」
「それを自分たちで決めるのが、もうおかしい」
「うん」
とおるは反論しなかった。彼が同意したことに、誠はかえって戸惑った。
「お前さ、賛成してるのか、反対してるのか、どっちなんだよ?」
「まだ考えてるところ。だから参加したんだ」
その答えは誠にとって不十分だった。
しかし、とおる自身も明確な結論を持っているわけではないのだろう。彼は信念に従って動くというより、知りたいという欲求に押されているように見えた。
4月17日、木曜日。
講義が終わった午後、雲の切れ間から薄い日差しが差していた。キャンパスの桜は満開を過ぎ、歩道には淡い花びらが貼りついている。
学生たちは新年度の時間割やサークルの話をし、食堂からは揚げ物の匂いが流れていた。
「今日、行くんだろ」
誠が言うと、とおるは頷いた。
「嫌なら、途中で帰ってもいいよ」
「それ、さっきから何回も聞いた」
「大事なことだからさ」
「分かった。行くよ。ただし、何かおかしいと思ったら帰るからな」
「それでいいよ」
2人は電車に乗り、大阪市内を移動した。車窓の外では、住宅街と商業施設が交互に流れていく。車内の広告には介護サービスや高齢者向けの住宅が並んでいた。
誠はそれらを眺めながら、今朝読んだ資料の数字を思い出した。数字は社会の問題を示している。
しかし、車内にいる誰かの顔を見ても、その人が誰を支え、誰に支えられているのかは分からない。
大阪市大正区。駅から少し離れた場所に、古い物流会社の旧社屋を思わせる建物があった。外壁は色あせ、窓の一部にはブラインドが下りている。
通りから見れば、長く使われていない事業所のようだった。
誠は足を止めた。
「ここが?」
「そう。外から見たら、ただの古い事業所だろ」
「中も同じとは限らないんだな」
「まあ、そういうこと」
とおるは先に進み、入口で短く合図を交わした。扉の向こうには、外観から想像できないほど整った通路があった。照明は明るく、床には目立った汚れがない。
壁際には荷物を運ぶための台車が並び、遠くから人の話し声が聞こえた。
誠は、最初に想像していた秘密基地のような場所とは違うことに気づいた。ここは、生活のための施設だった。食堂、共有スペース、寝室、訓練室、通信室。
人が日常を送るための設備があり、そこに複数の人間が働いていた。誰かが書類を運び、誰かが食材の入った箱を開け、誰かが廊下ですれ違う相手に挨拶をしている。
その普通さが、誠を落ち着かなくさせた。
奥から、無精ひげをはやした大柄な男が現れた。体格は大きいが、歩き方には無駄がない。視線は穏やかで、相手の表情を見逃さないようだった。
「ようこそ」
男はそう言って、誠に手を差し出した。
「出達しん だ。事前に話は聞いている」
誠は握手をした。手のひらは硬く、握る力は強すぎなかった。
「浅瀬誠です。今日は見学に来ました」
「それでいいさ。ここに来たからといって、必ずOZに入らなければならないわけじゃない」
出達は建物の中を案内した。食堂では数人が遅い昼食を取っていた。共有スペースには本や雑誌が置かれ、壁際には訓練用のマットが積まれている。さらに奥へ進むと、
空気が少し冷たくなり、地下へ続く階段が見えた。そこには装備を保管する区画や訓練用の空間があるという。
誠は、階段の下から響く音を聞いた。重いものを床に置く音。短い掛け声。靴底が床をこする音。人を殺すための準備が、日常のすぐ下に隠されている。
「ここでは、何をするんですか」
「必要なことをするだけだ。訓練をする者もいれば情報を扱う者もいるし。食事を作る者もいる。全員が同じ仕事をするわけではない」
「なぜ、こんなことを?」
出達は軽く目を閉じた。すぐに答えなかった。廊下の先から、誰かが笑う声が聞こえた。
「国が変わるのを待った。何年もな。だが、待っているだけでは変わらないと判断した」
「だから、殺すんですか」
誠の声は思ったより鋭くなった。とおるが横で息をのむ気配がした。
出達は怒らなかった。
「その疑問を持つのは当然だ。俺たちのやり方を正しいと思えないなら、ここに残るべきじゃない。自分で考えろ」
誠は、出達の顔を見つめた。
そこには演説をする政治家のような熱はなかった。自分の選択を疑っていない人間の静けさがあった。その静けさこそ、誠には不気味だった。
「入るかどうかは、お前自身で決めろ」
出達は最後にそう言った。
帰りの電車で、とおるは何も急かさなかった。窓の外には、夕方の街が流れていた。誠は自分の手を見た。さきほど出達と握手した手だ。何も変わっていない。
けれども、今日見た光景は、もう知らなかったことにはできない。
「俺は、もう決めてる」
とおるがぽつりと言った。
誠は横を向いた。幼なじみの横顔には、迷いがないように見えた。だが、誠はその表情の奥に何があるのか、まだ分からなかった。
「……少し考えさせてくれ」
「もちろん」
その夜、誠はすぐに眠れなかった。OZの思想には、受け入れられない部分がある。人間を負担として数え、誰かの生死を自分たちで決めることなど、許されるはずがない。
それでも、彼らが指摘する問題から目をそらすこともできなかった。
誠はまだ答えを持っていなかった。ただ、4月17日という日付だけが、いつもと違う重さを持って記憶に残った。




