第16話「兄弟」
2036年12月8日。
浅瀬誠は、久しぶりに実家へ立ち寄った。用事は長くない。家族に顔を見せ、弟の俊と少し話す。
それだけのつもりだった。冬の空は曇り、住宅街の道には冷たい風が吹いていた。
俊は18歳の高校3年生で、進路のことで頭がいっぱいだった。食卓には学校から持ち帰った資料が広がり、大学のパンフレットや願書の説明が重なっている。
「兄ちゃん、大学って実際どうなん?」
「楽しいこともある。面倒なこともある。結局、自分で決めて、自分でやるしかない」
「それ、何でもそうやん」俊は笑った。
誠も笑った。短い会話だったが、気持ちは少しだけ昔に戻った。俊は兄が最近あまり家に来ないことを気にしていた。
それでも、大学やアルバイトで忙しいのだろうと思っている。誠がOZに参加していることなど、想像もしていない。
テレビでは、林雅人と杉山一真の暗殺事件が繰り返し報じられていた。
画面の下には「政治家連続暗殺」「OZの犯行か」という文字が流れている。俊はリモコンを手に取ったが、音量を下げただけで消しはしなかった。
「高齢者が多くて、社会が大変なのは分かるけどさ」俊が言った。「だからって、人を殺していいことにはならんやろ」
誠はすぐには答えられなかった。俊は難しい理屈を語っているわけではない。ニュースを見て、当たり前のことを口にしただけだ。
その当たり前の言葉が、誠にはひどく重く聞こえた。
誠はOZの資料を調べてきた。数字が示す問題は現実に存在する。高齢化、医療費、現役世代の負担。政府が長年、十分に解決できなかった問題だ。
しかし、OZの資料には都合のいい数字だけが選ばれていることも知っている。人間を数字に置き換えれば、殺す理由はいくらでも作れてしまう。
「……簡単には答えが出ないこともあるんだ」誠はようやく言った。
俊は少し首を傾げた。「難しいことでも、やったらあかんことはあるやろ。俺だって社会のこと全部分かるわけじゃないけど、人を殺したら戻らんやん」
誠は視線を落とした。自分が殺した老人の顔を、もう1度思い出していた。初任務の日、引き金を引く前に老人は誠を見た。恐怖だけではない。
何かを理解しようとするような目だった。誠はあの目を、何度も忘れようとしてきた。
「兄ちゃん、なんかあったん?」俊が聞いた。
「いや。ちょっと疲れてるだけだ」
俊はそれ以上追及しなかった。食事をしながら、学校の話や友達の話をした。卒業したら何を学ぶか、どこで暮らすか。
俊の未来はまだ決まっていない。選択肢があり、失敗してもやり直す余地がある。誠はそのことを、羨ましいとも、守りたいとも思った。
帰る時間になった。玄関で靴を履く誠に、俊が声をかけた。
「兄ちゃん、正月は帰ってくるんやろ?」
誠はほんの短い間、言葉に詰まった。12月10日の作戦がどうなるのか、自分がそこから戻れるのか、確かなことは何もなかった。それでも俊を不安にさせたくなかった。
「ああ。そうするよ」
「じゃあ、また連絡するわ」
誠はいつもの調子で手を振り、玄関を出た。外はすでに暗くなっていた。駅へ向かう道を歩きながら、彼は弟の言葉を繰り返し思い返した。社会の問題は確かにある。
だが、その問題を解決するために誰かを殺したとき、自分は何を守ったことになるのだろう。
本部へ戻ると、新田目が通信室で端末を操作していた。いつものように軽い調子で「おかえり」と言う。誠はその声に救われると同時に、胸が痛んだ。
新田目も、自分をここへ誘った1人だ。幼なじみであり、仲間であり、今も同じ道を進んでいる。
「なあ、とおる」
「ん?」
誠は何かを言おうとした。しかし、言葉にすれば、自分がどちらへ向かおうとしているのか、はっきりしてしまう気がした。
「……いや、何でもない」
新田目はほんの短い間だけ誠を見たが、追及しなかった。「何かあったら言えよ。今さら遠慮する仲でもないだろ」
「分かってる」
誠はそう答え、通信室を出た。弟に正月は帰ると約束した。守れる保証はない。けれど、あの約束だけは嘘にしたくなかった。作戦まで、あと2日だった。
駅のホームで電車を待ちながら、誠はスマートフォンを取り出した。俊から短いメッセージが届いていた。「今日は来てくれてありがとう。進路、もうちょっと考えてみるわ」。
続けて、正月に一緒に食べたいものの話が書かれていた。誠は返信欄を開いたまま、しばらく文字を打てなかった。
何気ない約束が、こんなにも重くなるとは思わなかった。
「正月には帰る」と打ち、送信した。約束を守れるかどうかは分からない。それでも、弟に自分の恐怖を背負わせることはできなかった。送信済みの表示を見つめると、誠は画面を消した。
OZ大阪本部へ戻る電車の窓には、暗い街の明かりが流れていく。
人々は仕事を終え、買い物袋を提げ、家族や友人にメッセージを送っている。彼らは自分の暮らしを続けているだけだ。
OZの思想が正しいかどうかを、彼らに証明する義務などない。
誠はそう思いかけ、すぐにその考えを押し戻した。もし本当にそう思うなら、なぜ自分は作戦を止めないのか。
問いは答えにならないまま、電車の揺れとともに残った。




