第10話「過去の銃声・前編」
OZ大阪本部の食堂では、夜遅くまで照明がついていた。
ロン・カリジュラはテーブルの端に座り、ノートに同じ漢字を何度も書いていた。
鉛筆の跡は濃くなり、紙の表面が少し毛羽立っている。彼女が書こうとしていたのは「家族」という文字だった。
「その字、誰かに教わったのか」
向かい側で資料を読んでいた浅瀬誠が尋ねた。ロンは顔を上げずに答えた。
「先生、いない。テレビで見た。……忘れないように書く」
「家族って言葉を?」
鉛筆が止まった。
「誠。私の昔、聞きたい?」
問い返され、誠はすぐに答えられなかった。
「話したくないなら、無理に聞くつもりはない」
「話すの、好きじゃない。でも、知らないままだと、誠はわからない」
ロンはノートを閉じた。その仕草は、話すと決めたというより、逃げ道を自分でふさいだ人間のように見えた。
誠は以前から、南スーダンについて調べたことがあった。ロンがそこから来たと聞いても、最初は遠い国の名前以上の意味を持たなかった。
だが、彼女が日常の言葉を1つずつ覚える様子を見ていると、今この部屋にいる少女が、どうして狙撃手になったのかを考えずにはいられなかった。
彼の端末には、南スーダンの歴史をまとめた資料が開かれていた。
南スーダンは、長い内戦を経て2011年にスーダンから独立した。けれども、独立すれば平和が訪れるわけではなかった。
国家機関と軍をどう統合するのか、政治権力をどう分けるのか、石油収入をどの地域へ配分するのか。独立後も、答えの出ない問題がいくつも残された。
2013年7月、サルバ・キール大統領は副大統領リエック・マシャールを解任した。与党内部の権力闘争は深まり、同年12月、首都ジュバで武力衝突が起きた。
政府側と反政府側に分かれた戦闘は各地へ広がり、軍内部の分裂や武装勢力の離反も相次いだ。
民族間の緊張も暴力を広げる要因になった。しかし、ただ民族同士が昔から憎み合っていたから内戦になった、と説明することはできない。
政治家による動員と報復、権力や資源をめぐる争い、弱い国家制度、軍や民兵をまとめきれない状況が重なっていた。同じ民族に属していても、全員が同じ勢力を支持していたわけではない。
2015年に和平合意が結ばれたが、戦闘は止まりきらなかった。2016年には首都ジュバで再び大きな戦闘が起き、権力分有の枠組みは崩れた。
2018年9月、再活性化和平合意が署名され、2020年2月には暫定統一政府が発足した。これは大きな節目だったが、国のすみずみまで平和が実現したことを意味しなかった。
地域ごとの武装衝突や共同体間の暴力、避難、食料不足、医療へのアクセスの悪化は、その後も続いていた。
誠が開いた資料には、死者数についての説明があった。
戦闘がなければ生じなかったと考えられる「超過死亡」には、銃撃などの直接的な死だけでなく、飢えや感染症、医療の停止、避難生活によって増えた死も含まれている。
記録に残った死者だけを数えても、危機が人々の命に与えた影響の全体は見えてこない。
2013年12月から2018年4月までの推計では、危機に関連する超過死亡は約383,000人、暴力による死亡は約190,000人に上っていた。
その後も各地の衝突や避難、食料不足、医療へのアクセスの悪化は続いた。2032年末までの累計推計では、紛争・危機に関連する超過死亡は453,000人。
そのうち直接的な暴力による死者は216,800人、食料不足や医療の崩壊などによる間接的な超過死亡は236,200人とされていた。
直接的な暴力による負傷者も、520,320人に達していた。
数字の正確さを疑うことはできる。それでも、どの推計を採用したとしても、そこに数えられない人々がいた。名前も記録も残らず、避難先で亡くなった人。
治療を受けられずに死んだ人。武装集団に連れていかれ、戻らなかった子どもたち。
ロンも、その1人になるはずだった。
2028年、彼女は当時9歳だった。
彼女が暮らしていた地域では、和平合意の後も残っていた緊張が再び暴力へ変わっていた。
地方の武装勢力が支配権を争い、住民はいつ襲撃が起きるか分からないまま暮らしていた。
ある日、家の近くへ武装した男たちが現れた。ロンは家族のそばから引き離され、抵抗する間もなく連れていかれた。
彼女が戦うことを選んだのではない。誰かを撃ちたいと思ったわけでもない。逃げようとすれば殴られ、命令を拒めば食事を与えられない。夜に泣けば黙らされる。
生き残るために、言われたとおりに動くしかなかった。
最初に与えられた仕事は、伝令と見張りだった。食料や道具を運び、見張りの位置に立ち、人の動きがあれば大人たちに伝える。彼女はよく見ていた。
足音を覚え、遠くの動きを見逃さず、わずかな変化にも気づいた。子どもらしい無邪気さは、彼女の中から少しずつ消えていった。
やがて、大人たちは彼女の目のよさと集中力に気づいた。射撃の訓練を命じられ、遠くの目標を見分けること、長い時間動かずにいることを覚えさせられた。
うまくできれば食事を与えられ、失敗すれば怒鳴られた。褒められることはあっても、自由が与えられることはなかった。
狙撃手として使われるようになると、周囲の大人は彼女を名前より能力で呼ぶようになった。
「役に立つ子ども」扱いされることは、大人たちに捨てられないための保証のようにも思えた。
しかし、彼女は自分が何をしているのかを完全に理解できないまま、命令された場所を見つめ、引き金を引くことを覚えていった。恐怖が消えたわけではない。
恐怖を表に出せば生き残れないと、身体が先に学んだだけだった。
翌2029年、ロンの家族は暴力に巻き込まれて亡くなった。父も母も、そして当時6歳ほどだった妹も帰ってこなかった。だが当時のロンは、その事実を知らなかった。
彼女は別の場所へ移され、武装集団の一員として働かされていた。家族がどこへ行ったのかを尋ねても、返事はなく、やがて尋ねることそのものをやめた。
同年、敵側の傭兵として戦場にいた出達しんは、遠くから続く射撃に違和感を覚えた。射撃の位置だけではない。
部隊が動こうとする時に狙いが変わり、撤退を試みると進路が押さえられる。
相手は訓練された狙撃手だと考えたが、その射撃には熟練兵とは違う、不自然なほど小さな身体の動きがあった。
出達は射手を直接見たわけではない。声を交わしたわけでも、名前を知ったわけでもない。
交戦後、敵側で異様に有能な少女が狙撃を担っていたという話を聞き、初めて相手が子どもだと知った。
戦場で出達ができたのは、その事実を記憶に刻むことだけだった。彼は部隊を率いて撤退し、少女は敵の側に残された。
救い出す方法も、彼女がどこにいるのかを確かめる手段もなかった。
その夜、出達は仲間の報告を聞きながら、まだ幼い子どもが戦場の道具にされていることを思った。
技量に感心した自分自身にも、苦いものが残った。腕を評価することと、その腕を磨かせた状況を受け入れることは違うはずだった。
日本へ帰った後も、あの少女の存在は出達の記憶に残った。名前も知らない。生きているかどうかさえ分からない。
それでも、遠くの銃声の向こう側に、戦うことを選べなかった子どもがいた。
彼女の過去は、まだ終わっていなかった。




