第6話-2「暗殺人形シーク」
「厄介なことになった」
子爵ゲイル・デュベルは届いたばかりの報告書を握りしめ、苦々しげに呟いた。
報告書にはヴァルクライン家の人体実験が露見し、当主が拘束されたという知らせが記されていた。そして、その証拠を押収したのが、かつて同じ罪を告発しようとして返り討ちに遭った元騎士、ウォルター・フォン・アーレンディンだという。
「あの男が動いていたのか……。まずいな。ヴァルクライン家の記録には、俺の名もちらほら関わっている」
デュベルの家は、ヴァルクライン家の実験に資金と人材を提供していた。証拠がこれ以上明るみに出れば、自分の地位も危うくなる。
「シーク」
「はい」
地下室から呼び出されたシークは、無感情な声で応じた。
「今夜の標的は、ウォルター・フォン・アーレンディンだ。奴が押収した証拠と、奴自身を消せ」
「かしこまりました」
シークはいつものように、感情の一切滲まない声で頷いた。標的が誰であろうと、シークにとっては命じられた仕事をこなすだけのことだった。
デュベル邸は、貴族街の外れ、まだ辛うじて体裁を保っている区画に建っていた。そこから南へ下るほどに、街並みは急速に荒れていく。舗装された大通りがひび割れた石畳に変わり、やがて石畳すら途切れて剥き出しの土と瓦礫の道になる。その先に広がるのが、骨の街――王都の膿のように積み重なった、スラムの一帯だった。
ウォルターが根城にしている廃墟の闘技場は、その骨の街のさらに外縁、かつては見世物興行で賑わっていたという、今はもう誰も寄り付かない忘れられた区画にあった。貴族街からもスラムの中心部からも、等しく見放されたこの土地の果てにある廃墟。
シークは屋根から屋根へと飛び移りながら、その道のりを音もなく駆け抜けた。
人目につく大通りは避け、路地裏の闇と崩れかけた建物の陰だけを選んで進む。骨の街に入ってからは住人たちの目を警戒する必要すらなかった。この時間、まともな人間は皆、寝静まっているか、あるいは見て見ぬふりをすることに慣れきっている。
闘技場を囲う外壁は、半ば崩れ落ちていた。シークはその崩れた隙間から、音を立てず内部へと滑り込んだ。かつて観客が座っていたであろう階段状の座席は雑草に覆われ、あちこちに崩落の跡がある。人の気配を探りながら、シークは瓦礫の陰を伝い中央の広場を見下ろせる位置まで、慎重に距離を詰めていった。
その夜、シークはウォルターの潜伏先――廃墟の闘技場を静かに包囲した。
闘技場の中央ではウォルターが一人、酒瓶を傾けながら剣の手入れをしていた。
「誰だ」
ウォルターの声には、既に警戒の色が滲んでいた。長年の勘が、闇の中に潜む気配を正確に捉えていた。
闇の中から、音もなく、シークが姿を現した。
ウォルターは、シークの首元にわずかに覗く古い枷の跡と、その上に巻かれた黒い革のチョーカーに目を留めた。そして、少年の身のこなしの端々に滲む精霊術とも呪術とも違う、不自然に均された気配――かつて騎士として、貴族の非合法な実験の噂を追っていた頃に、一度だけ耳にしたことのある特徴と重なった。
風が二人の間を通り抜ける。シークの灰銀の長い髪が揺れた。ウォルターは灰色の瞳を細める。
「その首の傷、その気配。デュベル家の犬か」
シークを睨みつけたまま、ウォルターは剣を鞘から抜き、口の端を歪めた。
「奴らも平民に実験をしてるって噂、……本当だったのか。ヴァルクライン家の一件、あの家一枚だけの問題じゃなかったってわけか」
シークは何も答えなかった。短刀を両手に構え、静かに、しかし確実な間合いでウォルターへと接近していく。
「無駄口はなしか。まあ、いいだろう」
ウォルターは、剣を正眼に構えた。が、次の瞬間、シークの姿が、闇の中に溶けるように消えた。
「――ッ!」
ウォルターは反射的に剣を横薙ぎに払った。金属同士がぶつかる鋭い音。シークの短刀が、その一撃を受け止めていた。
(――速い。)
ウォルターは内心で舌打ちした。この少年の速度は、これまで戦ってきたどの精霊騎士よりも遥かに鋭かった。無駄のない動き、感情に左右されない機械のように正確な太刀筋。
その足運びには、微かに、風を纏うような気配が滲んでいた。踏み込みのたびに、足音がほとんど消え、間合いの詰め方が常人離れした速さになる。
(こいつ、身体強化に、精霊術を使っていやがるのか。)
ウォルターは、直感的にそれを察した。大層な奇跡を起こすほどの力ではない。だが、暗殺者の技巧と組み合わされたそれは、下手な精霊騎士の全力を上回るほどの脅威となっていた。
シークは、ウォルターの防御をいなすように身を沈め、二の腕を狙って短刀を走らせた。ウォルターは間一髪でこれをかわしたが、袖が浅く裂け血が滲んだ。
「やるじゃないか」
ウォルターは痛みに顔をしかめながらも、口元には不敵な笑みを浮かべていた。
「だが、こっちも伊達に剣を振ってきたわけじゃないぜ」
ウォルターの剣が、鋭い突きとなってシークへと放たれる。シークは、紙一重でそれをかわしながら、逆に足払いを仕掛けた。ウォルターはそれを察知し、後方へ跳躍することで回避する。
シークは追撃の重い袈裟斬りを見切ると、地を蹴って真上へと跳んだ。まるで重力を無視したような跳躍力で、崩れかけた観客席の瓦礫の上に音もなく着地する。
高い位置を取ったシークは、そこから短刀を逆手に持ち替え、雨のように投擲を放った。ウォルターは剣で弾きながら後退するが、足場の悪い瓦礫の隙間に注意を割かれ、僅かに体勢が崩れる。
「上を取ったつもりか。だが――」
ウォルターは崩れた壁の残骸を、剣の腹で思い切り薙ぎ払った。砕けた石材が粉々に飛び散り、もうもうたる粉塵が瓦礫の周囲を一気に包み込む。
「――ッ!」
視界を奪われたシークが、一瞬、着地の間合いを誤った。
その隙をウォルターは見逃さなかった。粉塵の中、気配だけを頼りに踏み込み剣を横薙ぎに一閃する。
シークは咄嗟に身を捩って直撃こそ免れたが、頬に浅い傷が走った。
「なるほど、目が使えないなら、勘に頼るしかない、か」
シークは口の中で小さく舌打ちしながら、着地と同時に体勢を立て直した。
二人の間合いは、瞬く間に、目にも留まらぬ攻防へと変わっていった。
剣と短刀が幾度も交錯し、火花が散る。ウォルターの重い一撃をシークが最小限の動きでかわし、シークの神速の突きをウォルターが紙一重で受け流す。互いに、決定打を与えられずにいた。
だが、本来ならば、この均衡はあり得ないはずだった。
ウォルターは、内心でそう自覚していた。純粋な身体能力と、精霊術による底上げ――その総量だけで言えば、この少年は既に自分を上回っている。並の暗殺者どころか、下手をすれば精霊騎士の中堅どころにも匹敵しかねない、末恐ろしい素材だ。
それでも互角に渡り合えているのは、ひとえに、自分がこの少年より遥かに多くの修羅場を潜り抜けてきたからに他ならない。読みの深さ、駆け引きの引き出し、致命傷を避ける勘――経験の差だけが、辛うじて拮抗を保たせていた。
シークもまた、内心で――といっても、彼自身、それを「驚き」だとは自覚していなかったが――違和感を覚えていた。
今まで、シークが標的とした人間は、皆、一撃、多くとも数撃で決着がついていた。だが、この男は違う。剣筋には確かな技術と、経験に裏打ちされた読みがある。
シークは、間合いを取り直すと、袖口に仕込んだ極細の投擲針を、指先で弾いた。狙いは、ウォルターの足――踏み込みの軸足そのもの。
ウォルターはそれに気づき、上体を捻って躱そうとしたが、針の一本が僅かに軌道を変えてふくらはぎに突き刺さった。
「――くっ」
鈍い痛みに、ウォルターの動きが一瞬だけ鈍る。
「毒か?」
「安心して。ただの針だよ。今すぐ死ぬようなものは、仕込んでいない」
シークの声は感情の起伏がないまま、淡々と告げた。
「だが、足を止めるには十分でしょ」
ウォルターは、足に刺さった針を素早く引き抜きながら、苦笑した。
「ガキのくせに、容赦がねえな」
「褒め言葉として受け取っておくね」
戦いが長引くにつれ、互いの息が上がっていく。ウォルターの腕には幾筋もの浅い傷が刻まれ、シークの頬にも一筋の切り傷が走っていた。
「そろそろ、決めるか」
ウォルターが、剣を大きく構え直した。渾身の一撃を放つ構えだった。内心では、これ以上長引けば確実に自分の側が先に力尽きるという焦りがあった。
シークもまた、二本の短刀を逆手に構え、最後の踏み込みの態勢を取った。
その、まさに刃がぶつかり合おうとした瞬間――
「――そこまで」
闇の中から、黒い鎖が唸りを上げて飛来し、シークの短刀を弾き飛ばした。
「カース……!」
ウォルターが、驚いたように振り返る。
異変を察知して駆けつけたカースが、次の瞬間、呪鎖を纏った腕を構え、二人の間に割って入っていった。
「お前」
カースは、静かに、しかし鋭い視線をシークへと向けた。
「その体さばき……普通じゃない」
シークは弾き飛ばされた短刀を素早く拾い直しながら、無表情のまま、カースとウォルター、二人を見比べた。
――二対一。
情報に、この状況は加味されていなかった。標的を仕留めるか、証拠を回収するか、そのどちらかが困難と判断された場合、彼には「撤退」という選択肢も与えられていた。
感情はなくとも、判断は常に合理的に下される。それが彼という「道具」に叩き込まれた、絶対の規律だった。
シークは素早く後方へと跳躍し、距離を取った。
「退く」
その一言だけを残し、シークは闇の中へと姿を消していった。
「待て――!」
カースが追おうとしたが、ウォルターがそれを制した。
「よせ。深追いはするな。あいつの本拠地がどこかわかったわけじゃないんだ」
カースは僅かにため息を吐きながらも、足を止めた。
「それより、ウォルター、大丈夫?」
「ああ、かすり傷さ」
ウォルターは、腕の傷を押さえながら苦笑した。
「だが、正直に言や、危なかったな。あのままお前が来なかったら、どっちが倒れてたかわからなかった」
彼はシークが消えた闇の奥を、じっと見つめた。
「デュベル家の刺客、だと思うぜ。あの少年の腕は、並みの兵士じゃない。相当な訓練を、それも相当に非人道的な方法で受けさせられてるはずだ」
「なぜ、わかるの?」
「あの目だよ」
ウォルターは、静かに言った。
「あれは、何も感じていない目だ。殺すことにも、殺されかけることにも、何の感情も持っていない。あそこまで人間から『何か』を奪い尽くすには、相当な時間と、相当な残酷さが必要になる」
彼は、傷を負った腕を軽く回しながら、続けた。
「それに、あの動きの中に確かに精霊術の気配があった。平民の身で精霊の加護を宿すなんてこと、本来はあり得ない。あの子爵家、噂以上に深いところまで手を出してやがるらしい」
カースは無言のまま、シークが消えた闇を見つめていた。
その胸の奥に、かつて自分自身が味わった無力感と、それに似た、けれど違う種類の痛みが静かに広がっていくのを感じていた。
(第6話-3「暗殺人形シーク」へ続く)




