第6話-1「暗殺人形シーク」
【注意】
本作品はダークファンタジー・復讐劇です。
物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。
また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。
作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。
苦手な方は閲覧にご注意ください。
石造りの地下室に、鈍い打撃音が響いた。
「役立たずが」
子爵ゲイル・デュベルは、手にした杖で跪いた少年の頬を無造作に打ち据えた。乾いた音が響く。少年の頭が、力なく横へと傾ぐ。
だが、少年――シークは、声一つ上げなかった。表情も、変わらなかった。ただ、殴られた勢いのまま傾いた頭を機械的にもとの位置へ戻すだけだった。
「昨日の仕事、依頼主に文句を言われたぞ。殺し方が『雑』だそうだ。もう少し、見栄えよく仕上げられんのか」
「申し訳ありません」
シークの声は平坦だった。感情という感情が、その声のどこにも見当たらない。
「まあいい。次はもっと丁寧にやれ。お前は、俺の道具の中でも、一番の上物なんだからな」
デュベルは満足げに笑いながら、杖を仕舞った。
「今夜また仕事がある。準備しておけ」
「かしこまりました」
シークは深く一礼した。頬には赤黒い痣が浮かんでいたが、彼はそれを気に留める様子すらなかった。
シーク。
それは彼の本当の名前ではなかった。物心つく前に「実験体」として攫われた彼に、親がつけたであろう名は、とうに失われている。デュベルが彼にこの呼び名を与えたのは、単純な理由からだった。人体実験の存在そのものが、王家にも他の貴族にも知られてはならない「秘密」だったからだ。
「シークレットの道具だから、シーク。安直なもんだろう?」
いつだったか、デュベルが酒の席でそう嘲笑うように語っていたのを、シークは記憶の片隅に留めていた。それが自分の名の由来だと知っても、シークは何の感慨も抱かなかった。名前とは本来、誰かに愛されて与えられるものだと知る由もなかった彼にとって、それは単なる識別のための記号に過ぎなかった。
痛みは、感じない。
正確には、感じることができない。
物心つく前――シークは、自分の年齢すら正確には知らない――に、彼は「調整」を施された。痛覚を鈍らせ、恐怖を薄れさせ、余計な感情の起伏を削ぎ落とす、非人道的な処置。それによって、彼は「完璧な道具」として、仕立て上げられた。
そしてシークが他の「実験体」たちと決定的に違う点が、もう一つあった。
彼は貴族たちが長年進めてきた人体実験――平民に無理やり精霊の加護を宿らせようとする、禁忌の実験の、唯一の成功例だった。
実験に使われた者の大半は、加護に体が耐えきれず無残な死を遂げていった。あるいは、シークの過去にいた仲間のように、四肢を失いながらも生き延びる哀れな残骸となった。だがシークだけは、その体の奥深くに、精霊の力の欠片を辛うじて宿すことに成功していた。
もっともその力は、正規の精霊使いのように大規模な奇跡を起こせるほどのものではなかった。彼が扱えるのは、あくまで自分自身の身体能力を底上げする程度の、慎ましい精霊術――足音を消すための微細な風の加護、刃筋を鋭くするための、僅かな力の付与。それだけだった。
だが、その小さな精霊術と、痛みを感じない体、そして徹底的に叩き込まれた暗殺技術が組み合わさった時、シークは誰も予想しなかったほどの脅威へと変貌した。
もう一つ、シークの体には決定的な「枷」が刻まれていた。
デュベルたちは、この人為的に作られた力がいつか自分たちの制御を離れることを恐れていた。そのためシークの体には、デュベル家の者を決して攻撃できないようにするための特殊な封印が刻まれていた。
どれほど彼が強くなり、暗殺術や精霊を宿す力で攻撃しようとしても、シークのその力は解き放たれる前に自身を攻撃してしまう反転の誓約だ。
それは、シークをどこまでも「道具」の枠に閉じ込めておくための貴族たちの狡猾な保険だった。シーク自身、その枷の意味を正確には理解していなかった。ただ、自分の中の力が、いつも誰かに管理されているような、漠然とした感覚だけを抱き続けていた。
殴られても、痛くない。
罵られても、悲しくない。
人を殺しても、何も感じない。
それが、シークにとっての、当たり前の日常だった。
デュベルが立ち去った後、シークは地下室の隅に置かれた粗末な寝台に腰掛け、支給された短刀の手入れを始めた。刃の角度を執拗なまでに確かめ、僅かな曇りも見逃さず布で丁寧に拭き上げていく。
感情を殺されているはずのその作業には、なぜか他の何をする時よりも、僅かな念入りさが滲んでいた。刃を磨きながら、彼の目は、どこか遠くを見るように虚ろだった。
その夜、シークは、デュベルに命じられるまま、ある商家へと向かった。借金の返済を渋った商人を「始末」するのが今夜の仕事だった。
シークは、闇に紛れて商家の裏口から侵入した。物音一つ立てず、警備の使用人たちの意識を次々と刈り取っていく。
寝室の扉を開けると、そこには恐怖に顔を歪めた商人が、震えながら壁際に縮こまっていた。
「た、頼む……! 金なら、必ず返す……! 命だけは……!」
商人の懇願を、シークは、無表情のまま聞いていた。
命乞い。
この声を、シークはこれまで、何度聞いてきただろう。誰もが死の間際に同じような言葉を口にする。だが、それがシークの心を動かすことは一度もなかった。
感じるべき感情そのものが、彼の中には存在しなかったからだ。
短刀が一閃し、商人の声が途切れた。
シークは、事切れた商人を一瞥することもなく静かにその場を後にした。
道すがら、シークは貴族の馬車が通りかかるのを見た。夜会帰りだろう、車内から、楽しげな笑い声が漏れ聞こえてくる。
馬車の傍らでは、一人の御者が、些細なミスを咎められ貴族の従者に激しく殴打されていた。
「この、愚図が……! 揺れが酷いと、旦那様が仰っているだろう!」
殴られた御者は地面に崩れ落ち、許しを乞うように何度も頭を下げていた。その光景を、シークは通りすがりに、一瞥するだけで通り過ぎた。
――何も感じなかった。
それが良いことなのか、悪いことなのか、判断する基準すら彼の中にはなかった。ただ、目に映る光景を見つめるだけ。
この世界は、こういうものだ。
力を持つ者が、力を持たない者を、いつでも、どこでも、当たり前のように踏みにじる。
貴族が平民を。
主人が下僕を。
そして、貴族が――道具として扱う暗殺者を。
シークにとって、それは疑うべきことですらなかった。ただ、そういう世界に、自分は生まれ、そういう世界の中で、命令のままに動く。それだけが、彼の知る全てだった。
デュベルの屋敷へと戻ったシークは、地下室の寝台に横たわった。頬の痣はまだ引いていなかった。だが、彼は気にも留めず静かに目を閉じた。
感情がないということは、苦しみもないということだった。
だが同時に――喜びも、温もりも、シークは知らないまま、ただ命令のためだけに存在し続けていた。
その虚ろな眠りの中には、まだ、誰もいない。
(第6話-2「暗殺人形シーク」へ続く)




