第5話-2「破戒の銀剣ウォルター」
ミミの顔が、トウマの顔が、フラッシュバックのように脳裏で交錯する。
この幼い子供たちも、どこかで誰かの愛しい弟であり、妹であり、存在そのものが誰かにとっての希望だったはずだ。それを、こいつらは蟲でも殺すような涼しい顔で切り刻み、瓶に詰め、無機質な番号を振り、棚へと並べていた。
「許さない」
喉の奥から絞り出した声と同時に、カースの体から抑えきれない呪力が爆発した。ドス黒い靄が狂乱するように渦を巻き、周囲の空気を歪ませていく。
「絶対に……許さない……!!」
視界が血の赤に染まり、思考が灼熱の憎悪に塗りつぶされていく。
この忌々しい地下室を、この狂った屋敷を、今すぐこの手で灰すら残さず噛み砕いてやりたい。証拠を回収することどころか、生き残った子どもたちを助け出すという使命すら、灼熱の衝動の前に吹き飛んでいた。胸の奥で暴れるのは、ただ一つ――すべてを破壊し尽くしたいという制御不能な狂動だけだった。
カースは凶暴な殺気を孕んだ呪鎖を腕に纏わせ、地上へと続く石段を、床を砕くほどの勢いで駆け上がった。
このまま、屋敷ごと、当主ごと、すべてを地獄の業火で焼き尽くしてやる。
広間に躍り出たカースの前に、驚愕した表情の貴族が絹のガウンを羽織り、寛いでいた恰好のヴァルクライン家当主が立ち尽くしていた。
「な――なんだ、貴様は……!? 警備はどうした!」
カースは答えない。ただ、憎悪だけを爆薬にして、殺意の刃と化した呪鎖を振り上げた。
カースの全身から溢れ出たドス黒い呪力が、広間の床や天井をギシギシと軋ませ、暴風となって吹き荒れる。この男も、この屋敷も、すべてを巻き込んでこの場で爆発・崩壊させかねないほどの狂乱だった。
驚愕に顔を歪ませるヴァルクライン家当主へ向け、カースが殺意の塊となった呪鎖を振り上げた――その時。
背後から伸びた無骨な手が、カースの肩を力強く掴んで引き戻した。
「よせ、坊や!」
「ウォルター……!?」
振り返ったカースの目に飛び込んできたのは、息を荒らせ、抜刀した大剣を携えたウォルターの姿だった。
「頭に血が上りきってるのはわかる! だがな、そんな勢いで呪力を爆発させりゃあ、屋敷ごとぶっ壊れるぞ! まだ生きてる人間がいるんだ!」
「……っ!」
冷水を浴びせられたように、カースの思考が一瞬で冷え冷えと冴え渡った。
怒りのあまり我を忘れ、屋敷ごとすべてを吹き飛ばそうとしていた己の暴走。もしそのまま呪力を放っていれば、崩落の衝撃で地下に囚われていた幼い命まで自分自身の手で潰してしまうところだった。
「……なんで、あなたがここに」
「一人で行かせたあと、やっぱり胸騒ぎがしてな。お前が正面から派手に暴れ回ってくれたおかげで、裏の警備が手薄になって潜り込みやすかったぜ」
ウォルターは苦笑しながらも、大剣を低く構え直し、目の前のヴァルクライン家当主へとなめらかな動作で視線を移した。その瞳に宿るのは、氷のように冷たい静かな殺意だ。
「久しぶりだな、卿。あの日以来か」
「ば、化け物め……! 裏切り者の元騎士と一緒に、一体何を――」
「言ったはずだ。俺はこの件から降りない、とな」
ウォルターは大剣を低く構え直し、氷のように冷たい殺意を当主に向けた。その威圧感に押され、ヴァルクライン卿の顔が屈辱と恐慌で歪む。
「おのれ……調子に乗るなよ、落ちぶれ騎士が!」
ヴァルクライン卿は懐から怪しい指環を取り出した。彼の周囲に不穏な燐光が走り、腕が炎に包まれた。貴族たる矜持と、自身の身を守るための力が牙を剥いた瞬間だった。
「殺せ! この暴徒どもを焼き尽くせ!」
ヴァルクライン卿の腕から放たれた炎が、ウォルターめがけて一直線に襲い掛かる。
だが、ウォルターは大剣を構えたまま、吐き捨てるように鼻で笑った。
「なんだそのなまくらな振りは。地位にかまけて、ロクに鍛錬もしてなかったな?」
ウォルターが大剣を一閃させる。重厚な風切り音と共に放たれた一撃は、襲いかかる炎を、そのまま一瞬で霧散させた。
「ひっ……!?」
「欲望と私利私欲でドロドロに汚れ切ったお前の心じゃ、精霊の力もその程度が関の山だな」
一歩踏み込んだウォルターは、隙だらけになった当主の懐へ入り込むと、大剣の柄頭でその顎を容赦なく撃ち抜いた。
鈍い音と共に血と唾液を撒き散らし、床へ転がる当主。ウォルターは倒れた当主の首元に大剣の先を突きつけ、背後のカースへと短く告げた。
「ここは俺が押さえた。お前は――一刻も早く子供たちを助け出せ。騒ぎに気づいた残りの私兵どもが、口封じに地下へ向かうかもしれん」
「……わかった!」
当主があっさりと無力化されたのを見届け、カースは強く頷いた。
「ありがとう」
「礼はまだ早い。とっとと行け!」
カースは倒れた当主を一瞥すると、身を翻して地下への階段へと駆け戻った。
その夜、屋敷は完全に制圧された。ウォルターは気を失った当主を含む関係者を縛り上げ、隠されていた実験記録の全てを押収した。
カースは地下へと戻り、鉄格子を呪力で歪め、生き残っていた子どもたちを、一人ひとり、丁寧に抱きかかえて外へと連れ出した。
失われた手足は、二度と戻らない。だが、その目に、わずかながらも生きる意志の光が戻るのを、カースは確かに見た。
「ウォルター」
全てが終わった後、カースは、静かに口を開いた。
「僕は、また同じ間違いをするところだった。証拠も、子どもたちも、全部台無しにするところだった」
「そうだな」
ウォルターは、否定しなかった。
「お前は、危なっかしい。感情が先走って、大事なもんを見失いかける。今夜みたいにな」
ウォルターは、剣を鞘に収めながら、ふっと表情を緩めた。
「だか、その危なっかしさの裏にあるのが、あの子どもたちのために本気で頭に血を上らせるだけの、本物の怒りと優しさだってことも、よくわかった」
彼は、カースの肩に、ぽんと手を置いた。
「危なっかしい奴を放っておけないのが、俺の悪い癖でな。仲間になってやるよ、坊や」
その言葉に、カースは、僅かに目を見開いた。
「命を預けるに値するか、試すんじゃなかったのか」
「試したさ。今夜、たっぷりとな」
ウォルターは、ニヤリと笑った。
「お前は、証拠を押さえに行き、子どもたちも守ろうとして、それでも尚、自分の中の怒りに呑まれかけた。危なっかしい。危なっかしいが――その両方を、本気で守ろうとする奴を、俺はもう一度くらい、信じてみたくなっちまった」
彼は剣を軽く掲げ、切っ先をカースへと向けた。
「なあ、カース。俺はもう、精霊様の加護も、騎士の誇りも失った。だが剣の腕だけは、誰にも奪われちゃいない」
「お前、あの澄まし顔の貴族連中を根こそぎ潰すつもりなんだろ? ガルトの口ぶりから察するにな」
「そのつもりだ」
「なら、俺にとっちゃ好都合だ。俺を陥れた連中への意趣返しに、ちょうどいい」
ウォルターは剣を鞘に収めると、口の端を上げて笑った。
「教えてやるよ、坊や。貴族の戦い方、騎士団の防衛網、精霊術の弱点。俺が知ってることは全部、お前に叩き込んでやる。その代わり――」
「代わり?」
「お前を危なっかしいまま放り出しはしない。俺が、お前の暴走を止める最後の歯止めになってやる。それが、俺の出す条件だ」
その言葉に、カースは、静かに頷いた。
「一つ、聞いていい?」
「なんだ」
「なんで、そこまで僕に?」
ウォルターは、少し考えるように視線を上げた。それから、いつもの軽薄な調子とは少し違う、静かな声で答えた。
「俺はな、坊や。自分の正しさを信じて、それで全部を失った。だから、正しさなんてもんに、もう期待はしてない。だが」
彼は剣の柄に手をかけながら、カースをまっすぐに見据えた。
「お前の目の中には、あの日の俺と同じ、それでいてもっと純粋な怒りがある。あの澄まし顔どもへの、混じりっけなしの怒りだ。それを見てたら――柄にもなく、力を貸してやりたくなっちまってな」
彼はニヤリと笑って、剣を構えた。
「まあ、そういう湿っぽい話は、これくらいにしとこうや。さあ、さっそく明日から鍛錬だ。手加減はしてやらないぜ」
カースは、ウォルターを見つめながら、静かに息を吐いた。
こうして、カースの傍らに、もう一人の協力者が加わった。
翌日から、廃墟の闘技場は、カースの修練場となった。
「いいか、坊や。呪術がどれだけ強かろうと、間合いに入られた瞬間に体を裂かれちまったら、元も子もない」
ウォルターは、木剣を軽く肩に担ぎながら、カースの周りをゆっくりと回った。
「まずは、足さばきだ。お前の動きは、力任せに前へ突っ込むだけで、体重の移動がまるでなってない。重心が高すぎるんだよ」
彼は、実際に足を動かして見せた。
「踵から入るな、爪先から入れ。攻撃の瞬間だけ、体を沈める。そうすりゃ、相手の一撃を受けても、簡単には崩れない」
カースは、言われた通りに何度も足を運んだ。最初はぎこちなかった動きが、繰り返すうちに、少しずつ滑らかになっていく。
「次は、相手の急所と弱点の見極め方だ」
ウォルターは、木剣の先で、自分の首筋、脇腹、膝の裏を、順に指し示した。
「精霊の加護を纏った甲冑は硬い。だが、関節の継ぎ目、喉元、脇の下――装甲で覆いきれない場所は、必ずある。それに、精霊術ってのは発動の瞬間、術者の意識が一瞬、外側の防御より、内側の術の構築に向く。その一瞬の隙を突くのが、剣士の仕事だ」
「発動の瞬間、というのは……?」
「相手の呼吸を見ろ。息を止める、あるいは深く吸い込む――術を編む前には、必ず、体に微かな溜めが生まれる。それを見逃さなければ、加護持ちの騎士だろうと、素手で首を掻っ切れる」
カースは、その言葉を、一言一句、頭に刻み込んだ。
鍛錬が数刻続いた頃、ウォルターは木剣を放り出し、崩れた観客席にどかりと腰を下ろした。
「よし、今日はここまでだ。根を詰めすぎると、体が覚える前に壊れちまう」
彼は、懐から取り出した干し肉を一切れ、カースへと放って寄越した。
「食え。腹が減ってちゃ、剣も振れやしない」
カースは、差し出された干し肉を、無言で受け取った。
「なあ、坊や」
ウォルターは、自分の分の干し肉を齧りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「お前、好きな食い物とかあるのか」
「……急に、何?」
「いや、単純に気になっただけだ。復讐鬼にも、腹は減るし、好みの一つや二つあるだろうよ」
カースは、しばらく考え込んだ。
「昔、パンの耳を、水に浸して食べていた。硬くなったやつを、みんなで分け合って」
「そりゃまた、贅沢とは程遠い話だな」
ウォルターは、苦笑しながらも、どこか優しい目でカースを見た。
「なら、今度、まともに焼いたパンを持ってきてやるよ。焼きたての、ちゃんと柔らかいやつをな」
「別に、いらない」
「遠慮すんな。育ち盛りは、ちゃんと食っとかないと」
ウォルターは、そう言って笑うと、話題を変えるように、崩れた壁の向こうに見える王都の方角へと視線を投げた。
「なあ、俺の昔の話、もう少し聞きたいか?」
「……聞きたい」
「へえ、珍しいな。お前がそんなことを言うとは」
ウォルターは、少し驚いたように片眉を上げたが、それから、ゆっくりと語り始めた。
「俺の家はな、代々、精霊騎士団に人材を輩出してきた、それなりに名誉ある家系だったんだ。俺も物心つく前から、剣を握らされてな。『アーレンディン家の名に恥じぬ騎士になれ』ってのが、親父の口癖だった」
「窮屈そうだね」
「窮屈だったさ。だが、それでも俺は、その名前に誇りを持ってた。精霊様に忠誠を誓って、正しく生きれば、いつか報われる――そう、本気で信じてたんだよ。お前が昔、貴族に憧れてたのと、似たようなもんかもな」
彼は、乾いた笑いを漏らした。
「あの人体実験の証拠を見つけた時、俺は、これで家名に泥を塗った奴らを断罪できると、心底喜んじまった。馬鹿だよなあ。正義感だけで、世の中が動くと思ってた」
「今は、どう思ってる」
「今か?」
ウォルターは、干し肉の最後の一切れを口に放り込みながら、肩をすくめた。
「今は、正義なんて言葉、反吐が出るくらい嫌いだ。だがな、坊や。お前と一緒にいると、なんつうか――もう一度くらい、何かを信じてみてもいいかって、柄にもなく思っちまうんだよ」
その言葉には、いつもの皮肉げな軽さの中に、隠しきれない、確かな温かさが滲んでいた。
「ありがとう」
「よせよせ、そういう湿っぽいのは似合わねえだろ、お前もな」
ウォルターは、照れ隠しのように立ち上がると、再び木剣を手に取った。
「さて、休憩は終わりだ。もう一本、いくぞ。今度は、さっき教えた急所を、実際に狙ってみろ」
「手加減は?」
「するかよ。手加減されて強くなった奴なんて、見たことねえ」
ウォルターはニヤリと笑い、木剣を構えた。
その日から、廃墟の闘技場での鍛錬は、幾日も続いた。剣の振り方、呼吸の読み方、貴族社会の権力構造、精霊術の癖と弱点――ウォルターは知る限りのことを、惜しみなくカースに叩き込んでいった。
時折挟まれる、他愛のない雑談。好きな食べ物、貴族社会への愚痴、若い頃の失敗談。それは、復讐に生きるカースにとって、数少ない、ただ穏やかに過ぎていく時間だった。
「なあ坊や。お前、いつか俺を裏切ったりするなよ」
ある日の修練の合間、ウォルターがふとそんなことを言った。
「なぜ、そんなことを?」
「俺はもう、信じたもんに裏切られるのは、こりごりなんでね」
彼はそう言って、いつものように肩をすくめて笑った。その言葉の奥にある、隠しきれない寂しさに、カースは気づかないふりをした。
(第6話「解放された暗殺人形シーク」へ続く)




