第6話-3「暗殺人形シーク」
【注意】
本作品はダークファンタジー・復讐劇です。
物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。
また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。
作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。
苦手な方は閲覧にご注意ください。
「失敗、だと?」
子爵ゲイル・デュベルの声が、地下室に低く響いた。 シークは、床に膝をついたまま、頭を垂れていた。頬の切り傷から滲んだ血が、顎を伝って落ちている。
「申し訳ありません。標的の実力は、想定以上でした。加えて、途中で呪術師の乱入がありました」
「言い訳は聞いていない、シーク」
デュベルは、壁に立てかけてあった鞭を、無造作に手に取った。忌々しげに、その名を繰り返す。
「シーク、シーク……お前は、俺が金と時間をかけて作り上げた、最高の道具のはずだった。それが、たかが元騎士一人、仕留め損なうとはな」
鞭が、空気を切り裂く音を立てた。 シークの背に、鋭い痛みが――いや、正確には、痛みとして処理されるはずの衝撃が、幾度も打ち込まれた。皮膚が裂け、血が飛び散る。 だが、シークは、声一つ上げなかった。ただ、無言のまま、その衝撃を、機械的に受け止め続けていた。
「役立たずが……! 役立たずが……!」
デュベルは、苛立ちをぶつけるように、何度も鞭を振るい続けた。 シークの意識の片隅で、ふと、場違いな思考が過った。
(この痛みを、感じられたら。)
なぜ、そんなことを思ったのか、シーク自身にも、わからなかった。感じるはずのない痛みを、感じたいと願うことの意味も、彼にはまだ、理解できていなかった。 鞭打ちがようやく止んだのは、デュベルが息を切らし始めた頃だった。
「今夜はこれで許してやる。次はないと思え」
デュベルは、忌々しげにそう吐き捨て、地下室を後にしようとした。その時だった、城の外から騒がしい物音がしたのは。
デュベル邸は、子爵位とはいえ、金に飽かせて雇った私兵団を抱えていた。正門には常時十名を超える衛兵が詰め、庭園にも見回りが絶えない。
ヴァルクライン家襲撃の一件で警戒を強めていたのか、いつもより人数が増えているようだった。 三人は、屋敷から少し離れた木立の陰に身を潜め、ガルトが事前に手に入れていた見取り図を広げた。
「正門は、この通り兵の数が多い。だが、東側の使用人通用口は、警備が薄い。荷馬車の出入りに使われる門で、夜間は最低限の見張りしか置かれてねえはずだ」
ガルトが、指先で見取り図をなぞりながら告げた。
「地下室。つまり、あの子爵が飼ってる『道具』を仕舞ってある部屋は、たぶんこの奥だ。屋敷の主要な部屋からは離れてる。人体実験の噂を隠すためだろうな」
「なら、まずは通用口からだな」
ウォルターが、剣の柄に手をかけながら頷いた。 三人は闇に紛れ、屋敷の東側へと回り込んだ。ガルトの読み通り、通用口には二人の兵が退屈そうに槍を構えているだけだった。カースが呪鎖を短く放ち、音もなく二人を沈黙させる。
通用口を抜けた先は、使用人たちが立ち働く裏庭だった。洗濯物の並ぶ物干し場、薪の積まれた小屋――普段の暮らしの気配が残るその場所を、三人は足音を殺して通り抜けていく。 だが、裏庭を抜けて本館へと近づいたところで、巡回中の兵の一団と鉢合わせした。
「そこにいるのは、誰だ!」
何者かの声が響いた瞬間、静かな潜入は終わりを告げた。
「正面から行くよ」
カースが低く告げると、ウォルターが剣を抜きながら、ニヤリと笑った。
「粋な誘い方だな。付き合ってやるよ」
三人は、物陰から飛び出すと、駆けつけた衛兵たちへと一気に襲いかかった。
「侵入者だ! 迎撃しろ!」
衛兵の怒声が響き渡る。松明の灯りが慌ただしく揺れ、次々と剣が抜かれていく。 ウォルターが真っ先に斬り込んだ。重剣が閃くたび、衛兵の武器が弾き飛ばされ、あるいは鎧ごと薙ぎ払われていく。
「数だけは多いが、質はイマイチだな!」
軽口を叩きながらも、その剣筋には一切の隙がなかった。二人、三人と、瞬く間に衛兵が地に伏していく。 ガルトは、懐から取り出した小刀を投げつけ、松明の油壺を的確に射抜いた。爆ぜるように炎が上がり、庭園の一角が一瞬にして明るく照らし出される。
「目眩ましだ、今のうちに突っ込め!」
カースは、呪鎖を振るいながら、迫る衛兵たちを次々と薙ぎ払っていった。だが、屋敷の奥から新たな増援が駆けつけてくる。
「精霊術部隊も出せ! 相手は呪術師だぞ!」
その号令と共に、数名の衛兵が、身に纏った精霊の加護を発動させた。淡い光の膜が、彼らの体を包み込む。 カースが振るう呪鎖の先端が、光の膜を纏った衛兵の一人に触れた。
その瞬間、鎖が触れた鎧の表面が、見る間に赤錆のような色に変わり、ぼろぼろと朽ち崩れていく。金属も、革も、鎖に触れたものは等しく、時が何十年も早送りされたかのように、腐食し、崩れ落ちていった。
「な、なんだ、この鎧は……!」
衛兵が悲鳴を上げる間もなく、カースは、もう一人の衛兵へと狙いを定めた。
「蠱毒の刻印」
低く呟いた声と共に、カースの手のひらから、黒い靄が糸のように伸び、その衛兵の体表を這うように包み込んだ。
「が、ああああああああっ!」
衛兵の絶叫が、庭園に響き渡った。
彼の体の内側で、まるで沸騰する鍋のように、何かがぼこぼこと不気味に蠢いているのが、鎧の隙間からでも見て取れた。皮膚の下を無数の泡が這い回るような、あり得ない感触。
血管という血管が、内側から沸き立ち、腐り、押し広げられていく。 衛兵は、白目を剥いたまま、糸が切れたように地面に崩れ落ちた。彼を包んでいたはずの精霊の加護の光は、跡形もなく消え去っていた。
カースは、呪力を纏った腕を振るい、精霊の加護ごと、敵の一角を食い破っていった。だが、相手も数に物を言わせて反撃を続け、じりじりと消耗戦の様相を呈し始める。
「くそ、思ったより粘るな……!」
ウォルターが、額の汗を拭いながら舌打ちした。腕には、既に浅くない傷が幾筋も刻まれていた。
「押し切るぞ! この屋敷、あまり時間をかけたくない――地下に、あの少年がいるはずだ」
カースがそう叫ぶと、ウォルターとガルトは、揃って頷いた。
「わかってるさ、坊主。だったら、さっさと片付けるとしようや」
三人は、それぞれの得意技を存分に振るい、押し寄せる私兵団を突破していった。屋敷の玄関ホールへとなだれ込む頃には、三人とも息が上がり、傷を負っていない者は誰もいなかった。 それでも、足を止めることはなかった。
「地下への入り口は――こっちだ」
ガルトが、事前に仕入れていた屋敷の見取り図を頼りに先導する。最後に残っていた数名の護衛を、ウォルターの剣が一閃で沈黙させた。
地下室。カース達の侵入により、――屋敷の上階から、けたたましい物音と、悲鳴が響いてきた。
「な、なんだ……?」
デュベルが振り返るのと同時に、地下室の扉が、内側から蹴破られるように開け放たれた。
「いたか」
入ってきたのは、カースだった。その背後には、ウォルターとガルトの姿もあった。 三人の乱入に、デュベルは顔面蒼白になった。
「な、何者だ、貴様ら……!」
「デュベル子爵。あんたが、ヴァルクライン家の実験に資金を出してた一人だってことは、押収した記録で割れてる」
ガルトが、冷ややかに告げた。
「それに、俺を殺そうとした刺客の飼い主でもあるらしいな」
ウォルターが、剣を抜きながら、鋭くデュベルを睨みつけた。
「ひ、ひぃ……! シーク、お前は何をしている、こいつらを殺せ……! シーク!」
デュベルは恐怖のあまり、縋るようにその名を叫び続けた。だが、床に崩れ落ちたままのシークは、指一本動かそうとしなかった。 デュベルは腰を抜かしたように、その場に崩れ落ちた。
カースは、鞭打たれ、血を流している少年の姿を見て、一瞬、息を呑んだ。
(なんてことを)
その姿は――あの日、ゴミ捨て場で拾われる前の、無力な自分自身の姿と重なって見えたからだ。
シークが動かず、部屋の隅に追い詰められたデュベルが、醜く顔を歪めて叫び立てた。
「い、いいのか……! 俺を殺したらそのガキにかけた封印術は一生解くことができないぞ!」
デュベルの言葉に、カースの表情がわずかに強張る。
カースは、それ以上デュベルに喋らせる隙を与えまいと、腕から無数の黒い呪鎖を解き放った。ジャラリと不気味な音を立てた呪鎖が瞬時にデュベルの全身へと巻き付き、その体を力任せに床へ叩きつけ厳重に縛り上げた。
「がっ……? ぶ、放せ……っ!」
「黙ってろ」
カースは冷ややかに言い捨て、拘束したデュベルを無視して、視線を再びシークへと戻した。
(シーク。)
今しがた、あの貴族の口から漏れた名を、カースは、静かに繰り返した。
「シーク」
カースが、静かに近づく。 シークは、虚ろな目で、カースを見上げた。
「……お前は……この間の……」
「歩ける?」
「なぜ、助けるんだよ」
シークの声には、疑問すら、ほとんど込められていなかった。ただ、事実として、理解できない状況を、機械的に確認しているだけだった。
「俺は、お前の仲間を、殺しかけた。ウォルターを」
「知ってる」
カースは、それでも、シークの前に手を差し伸べた。
「それでも、シークを、ここに置いていく気にはなれない」
その光景を見ていたウォルターが、鋭い声で割って入った。
「待てよ、カース。まさか、こいつを連れて帰るつもりか?」
「そのつもりだ」
「冗談じゃないぞ」
ウォルターの声には、珍しく、はっきりとした怒気が滲んでいた。
「こいつは、俺を本気で殺しに来た刺客だ。しかも、あの動き、あの実力……一度懐に入れちまえば、いつ寝首を掻かれるかわからねえ。俺は反対だ」
「ウォルターの言うことも、一理あるぜ、坊主」
ガルトも、慎重な声で口を添えた。
「危険を承知で拾うのと、無闇に情に流されるのとは、違う話だ」
「わかってる。それでも――」
「わかってねえよ、カース」
ウォルターが、珍しく語気を強めて遮った。
「こいつは、俺の腕を切り裂いた。あと一手違えば、俺はここに立ってねえ。それだけの手練れを、たった一晩泣かせたくらいで信用できるってのか? 訓練された暗殺者ってのはな、涙一つで牙を隠すことくらい、朝飯前にやってのけるもんだ」
「それは……」
カースは言葉を詰まらせた。ウォルターの言い分は、何一つ間違っていなかった。シークの振るった刃の脅威も、自分自身が一番よく知っている。理屈で考えれば、ここでシークを切り捨てるのが間違いなく正解だった。甘さや油断が、次の瞬間には仲間の命を奪うかもしれない。
「デュベル家の飼い犬だったんだろう。長年、ああいう連中に人格ごと作り変えられてきた奴が、今夜、都合よく心を入れ替えたなんて、俺は素直に信じられねえ」
ガルトも、腕を組みながら頷いた。
「ウォルターの言う通りだ。情で動くのは結構だが、坊主、お前がやろうとしてるのは、腹の中に何を隠してるかわからねえ刃物を、懐に招き入れることだぞ」
二人の正論が、地下室の冷たい空気の中に重く響く。カースは、深く深く息を吐き出し、しばらく沈黙した。
視線の先で床に伏せる少年――暗殺者として育てられ、絶望にすら気づかないまま痛みに耐えていたシークの姿。その空洞のような瞳を見たとき、カースの頭裏に焼きついて離れない光景が重なっていた。
冷たい雨の中、誰にも見向きもされず、世界のすべてから見捨てられていた、ごみ捨て場のかつての自分。あれから、復讐のために立ち上がったけれど、そのあとガルトとウォルターが自分に手を差し伸べてくれなかったら。
もし、「危険だから」「得体を知れないから」と見捨てられていたら、自分は今ここで生きてさえいなかったはずだ。
自分が差し出された救いに救われたからこそ、目の前で同じように暗闇に沈んでいく存在を無視することなど、カースの魂が絶対に許さなかった。
これは単なる同情でも、愚かな甘やかしでもない。自分の存在理由そのものを賭けた譲れない一線なのだと、カースの中で熱い覚悟が固まっていく。
カースは、しばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「僕は、シークを、道具として飼われたままにしておきたくない」
「気持ちはわかる。だがな」
「わかってない」
カースの声が、いつになく強くなった。
「僕は、あの日、ゴミみたいに捨てられた。誰にも助けてもらえずに、死にかけた。それでも、僕を拾ってくれた奴らがいたから、今、ここに立っていられる」
彼は、シークへと視線の戻した。
「シークも、同じだよ。感情も、名前も奪われて、ただの道具として使い潰されてる。それを見捨てるのは……僕には、できない」
「気持ちだけで、刃物の切れ味は鈍らねえぞ」
ウォルターは、まだ納得しきらない様子で、腕を組んだまま唸った。
「なら、こうしよう」
しばしの沈黙の後、ガルトが割って入った。
「今すぐ全面的に信用しろとは言わねえ。だが、しばらくの間、こいつの動きは俺たちで見張る。妙な素振りを見せたら、その時は容赦しねえ。それでどうだ、ウォルター」
ウォルターは、しばらくシークの様子を見つめていた。血を流し、うずくまったまま、こちらを見返す気力すら残っていないように見える少年。それから、大きく息を吐いた。
「お前が、そこまで言うなら」
深いため息と共に、ウォルターは折れた。
「言っとくが、俺は完全に納得したわけじゃないぞ。何かあれば、俺が真っ先にこいつを止める。それでもいいなら、好きにしろ」
「わかった。それでいい」
カースは頷くと、もう一度、シークへと手を差し伸べた。
「一緒に来い」
シークはの手を、しばらくの間ただ黙って見つめていた。 差し伸べられた手。それが何を意味するのか、シークにはすぐには理解できなかった。今まで、誰かが自分に何かを差し出すとすれば、それは決まって、命令か、あるいは罰だった。
「何が、目的だ」
シークの声は、警戒を滲ませたまま、低く響いた。
「俺を、新しい道具として使うつもりか。それとも、何か別の企みがあるのか」
「企みなんて、ない」
「信じられるわけがない」
シークは、差し出された手を、なおも動かなかった。
「お前は、俺がお前の仲間を殺しかけたことを知っている。それでも助けようとするのは、俺を何かに利用する価値があると踏んだからだろう。違うか」
「違う」
カースは、まっすぐにシークを見つめたまま、繰り返した。
「利用するつもりなら、こんな面倒なやり取りはしない」
シークは、なおも動かなかった。だが、その虚ろだった目の奥に、わずかな揺らぎが生まれていた。
「俺は、お前たちの、何になる」
「決まってる」
カースは、迷わず答えた。
「仲間だよ」
その言葉を聞いた瞬間――シークの中で、何かが静かに、しかし確かに軋んだ。 これまで何も感じたことのなかった胸の奥が、初めて、じん、と熱を持った。
それが何なのか、シークにはまだわからなかった。ただ、その熱は、鞭で打たれた背中の痛みとは、まったく違う種類のものだった。
「なぜ」
シークの声が、初めて、僅かに震えた。
「なぜ、お前は、俺なんかに……」
言葉が、続かなかった。 感情の起伏を知らないはずの少年の目の端に、彼自身気づかぬまま、小さな雫が、静かに浮かんでいた。
「シーク?」
カースが驚いたように、その様子を見つめた。 シークは自分の頬に触れた指先を、不思議そうに見つめた。
「これは……なんだ」
彼にとって、それは初めて経験する感覚だった。悲しみとも、安堵とも判別のつかない、名前のない感情。だが、それは確かに、彼の中に生まれつつあった。
「……泣いてるんだよ、お前」
ウォルターが、少し呆れたような、それでいてどこか優しい声で言った。
「そんな顔もできたんだな」
シークは、その言葉に、戸惑ったように瞬きを繰り返した。
「俺は……道具、のはずだ」
「もう違う」
カースは、差し出した手を、まだ動かないシークの手に、そっと重ねた。
「いくぞ」
カースの指先から、ほんの微かな呪力が、意図せずシークの中へと流れ込んだ。
「――ッ!」
シークの体が、びくりと震えた。 彼の胸の奥深く、心臓に最も近い場所に、これまで誰も触れることのなかった異物のような感覚があった。
デュベルを攻撃しようとすると、自身を攻撃してしまう反転の誓約、貴族たちの呪縛――それが、カースの呪力に触れた瞬間、微かにしかし確かに、軋んだ。
「な……なんだ、これは……」
シークは、自分の胸を押さえ、その場に膝をついた。
「痛い……いや、違う……なんだ、この感覚は……」
これまで痛みを感じたことのない体に、初めて、内側から突き上げるような衝撃が走っていた。呪縛は、簡単には崩れなかった。長年、この身に深く刻み込まれ、彼という存在そのものと分かちがたく絡み合っていたそれは、カースの呪力に反応しながらも、なおも頑強に抵抗を続けていた。
「シーク……?」
カースが慌てて手を放そうとしたが、シークは、逆に強く握り返した。
「放すな」
彼の声には、初めて、はっきりとした感情の色が滲んでいた。
「わからない……だが、これを離したら、俺は、また元に戻る。ずっと、この胸の奥に、何かが閊えていた。息苦しくて、狭くて……それに、俺自身、気づいてすらいなかった」
カースは歯を食いしばりながら、自分の呪力を、さらにシークへと注ぎ込んだ。呪鎖に絡む腕が、じくじくと疼く。
呪縛は、まるで宿主を手放すまいとするかのように、幾重にも絡み合った鎖のような感触で、カースの呪力を弾き返そうとしていた。 ぴしり、と、微かな音がした。 続けて、もう一つ。 ぴしり、ぴしりと、罅割れる音が、徐々に間隔を狭めながら重なっていく。シークの額には、脂汗が滲んでいた。
「もう少しだよ」
カースは、額に汗を浮かべながら、囁いた。
「耐えて」
やがて――内側から、何かが完全に砕け散るような感覚と共に、シークの体から力なく黒い靄が立ち上った。それは、長年彼を縛り続けていた反転の誓約の、最後の残滓だった。靄は、闇の中へと音もなく溶けて消えていった。
「あ……あ……」
シークは荒い息を吐きながら、自分の胸に手を当てた。 長い間、押し留められていた何かが、堰を切ったように体の奥から溢れ出してくる感覚があった。
人体実験によって宿された、あの精霊の欠片――これまで反転の誓約によって半端に押し留められていた力が、初めて正しく彼自身のものとして、体に馴染んでいくのがわかった。
「これが……俺の、本当の力……」
「呪いが、誓約を、解いたのか……」
ウォルターが驚いたように呟いた。傷だらけの体で、その光景をじっと見つめていた。
「皮肉なもんだな。呪術師が、精霊術の誓約を解くとはよ」
カースにも、正確に何が起きたのかは、わからなかった。だが、シークの体に流れ込んだ自分の呪力が、長い時間をかけて、あの子の中に深く根を張っていた、何か禍々しいものを、確かに打ち砕いたのだということだけは、感じ取れた。
「今日から、お前は、誰かの道具じゃない」
シークは、震える手で、その手を、ようやく握り返した。
反転の誓約が解かれた様子を目の当たりにし、鎖で拘束されたままのデュベルが絶望に顔を強張らせた。
「な……なぜだ、なぜ解けた……? た、頼む、助けてくれ……! シーク! お前を育てたのはこの俺だぞ!」
カースは静かに立ち上がると、見下ろす視線のままデュベルへ歩み寄った。
「蠱毒の刻印」
低く紡がれたその言葉と共に、カースの手のひらから黒い靄が糸のように伸び、拘束されたデュベルの体を瞬く間に包み込んだ。
「が、あああああああっ!」
デュベルの絶叫が、地下室に反響した。彼の腹の中で、まるで沸騰する鍋のように何かがぼこぼこと蠢いているのが、その苦悶の表情からも見て取れた。
血管という血管が、内側から沸き立ち、腐れ、押し広げられていく感触に、デュベルは白目を剥き、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
床に倒れ込んだままのシークは、目の前で繰り広げられたその光景を、ただ呆然と見つめていた。
自分をあれほど痛めつけ、道具として扱い続けてきた男が、今、自分よりもさらに凄惨な苦しみのうちに、崩れ落ちていく。
それを見ても、シークの中に湧き上がってきたのは、喜びでも、憎しみでもなかった。 ただ、底知れない静けさと、言葉にできない虚無感だけが、彼の胸の中に、静かに広がっていった。
「これで、終わりだね」
カースは、荒く息を吐きながら、シークを振り返った。
「もう、シークを縛るものは、何もない」
シークは、何も答えられなかった。ただ、崩れ落ちたデュベルの姿と、自分を見下ろすカースの姿を、交互に見つめ続けていた。
シークの中には生まれたばかりの、不確かで、けれど確かな何かが、大きな存在感を持って広がっていた。 感情を知らずに育った少年が初めて、涙という形で自分自身の心に触れた瞬間だった。
(第7話-1「第一の惨劇」へ続く)




