第34話「裏切りへの引導」
砂塵の向こうで、獣の咆哮と、澄んだ剣風の音が響き続けていた。
二つの影が、瓦礫の中で何度もぶつかり合う。爪と剣が噛み合うたびに、鈍い音が廃倉庫の壁に跳ね返った。
「まだ粘るか」
ゼフィロスの息が、わずかに上がっていた。それでも目の奥には、まだ底を見せていない者の落ち着きがあった。
「終わらせてやる」
ゼフィロスが剣を掲げた。切っ先にまとわりつく風が渦を巻き、見る間に締め上げられていく。
「断裂の旋風」
放たれたのは、無数の刃を孕んだ竜巻だった。地面を抉り、行く手にあるものすべてを切り刻みながら、真っ直ぐに迫ってくる。
カースは地を蹴って跳んだ。躱しきれなかった刃が頬を裂き、血が一筋、顎を伝った。
(――今だ)
着地と同時に、右腕から黒い糸が何本も噴き出した。
「屍傀儡の糸」
糸は、瓦礫の間に転がっていた兵士の骸に絡みつき、それをぎこちなく立ち上がらせた。一体、二体、三体。首の据わらない骸が、ゼフィロスを囲むように歩き出す。
「悪趣味な術だ」
ゼフィロスは吐き捨て、剣を横に払った。
「双璧の風壁」
ゼフィロスを中心に、半透明の風の膜が二重に張られた。殺到した骸が糸ごと切り裂かれ、力なく崩れ落ちる。
「その程度か」
「まだだ」
カースは裂けた右肩に、左手の指をねじ込んだ。
熱い血が掌に溢れる。その手を、地面に叩きつけた。
「蠢動する黒蟲」
血の染みた地面から、黒い甲虫が湧き出した。瓦礫の隙間という隙間から溢れ、地を這う黒い波になってゼフィロスへ押し寄せていく。
「――くっ」
風の膜が群れの大半を弾いた。だが一部が膜の綻びをすり抜け、ゼフィロスの腕に食らいついた。甲冑の継ぎ目から、細かな噛み傷がいくつも滲む。
「なるほど。防ぐだけでは済まない術か」
ゼフィロスの声に、初めて苛立ちが混じった。剣を大きく振りかぶり、地面を踏み鳴らす。
「蹂躙の突風域!」
辺り一帯に暴風が吹き荒れた。瓦礫が宙を舞い、カースの細い体が浮き上がりかける。四方から押し寄せる風の圧に、足が地面から引き剥がされそうになった。黒い蟲の群れも、ひとたまりもなく散り散りに吹き飛ばされていく。
「くそっ......!」
カースは地面に爪を立てて踏みとどまった。この風の中では、近づくことすらできない。距離を取られたまま、じわじわと削られていく。
(――なら)
カースは自分の右腕に爪を立て、血を絞り出した。滴る血が、地面に文様を描いていく。
「蠱毒の刻印」
文様が淡く光り、地を這うように広がっていった。暴風の只中に立つゼフィロスの足元まで、細い線が伸びていく。
暴風が途切れた瞬間、ゼフィロスの膝がわずかに揺らいだ。
「......なんだ、これは。体が、重い」
「毒だ。お前の風ごと、内側から蝕む」
カースは地を蹴った。全身の血管が悲鳴を上げていた。それでも止まらなかった。足元の影が膨れ上がる。黒い毛並みが、揺らぐ煙から確かな形へと固まっていく。
「犬神の怨牙!」
影の奥から、幾重にも重なった犬の顎がせり上がった。刻印に縛られて動きの鈍ったゼフィロスへ、牙の群れが四方から食らいつく。甲冑が軋み、裂け、肩当てが弾け飛んだ。
「がっ......!」
ゼフィロスはよろめきながらも、剣に風を巻きつけ直した。
そのときだった。
一筋の風が、戦場を横切った。
砂塵を巻き上げることもない、細く、冷たい風だった。それはゼフィロスの耳元をかすめ、何事かを囁いて消えた。
ゼフィロスの動きが、止まった。
「......父上が?」
掠れた声が漏れた。
「露台で......殿下に、だと」
剣先が、ほんのわずかに下がった。
これまで何があっても崩れなかった男の顔から、表情が抜け落ちていた。目の焦点が、どこにも合っていない。
カースには、その風が何を告げたのかわからなかった。だが、目の前の男が今、初めて隙を見せていることだけはわかった。
(ネロ)
小さな黒い犬の温もりが、胸の奥に灯った。
(行こう)
影が爆ぜるように膨れ上がった。黒い犬の輪郭が、カースの細い体を呑み込むほどに巨大になる。
「精霊喰らい」
巨大な犬の顎が開いた。
肉を裂くための顎ではなかった。ゼフィロスの体を包んでいた、淡い風の光。その加護そのものに食らいつき、薄い膜ごと噛み破った。
風の精霊の味が、カースの喉を焼きながら流れ込んできた。
砂塵が晴れたとき、立っていたのはカース一人だった。
ゼフィロスは仰向けに倒れていた。甲冑は砕け、胸には深々と牙の痕が刻まれている。体を包んでいた加護の光は、もうどこにも残っていなかった。
「......ぐ、は」
ゼフィロスは、血の混じった息を吐いた。灰色の空を見上げたまま、口の端がかすかに動いた。
「父上は......最後に、誰に向けた顔を、していたのだろうな」
誰に聞かせるでもない声だった。
「私には......一度も......」
言葉はそこで途切れた。ゼフィロスの目から、光が消えた。
カースはしばらく、その顔を見下ろしていた。獣の唸りが、少しずつ喉から引いていく。
「殿下......」
ゼフィロスが最後に口にした言葉を、カースは小さく繰り返した。
この国で「殿下」と呼ばれる者は、そう多くない。
「カース!」
背後から、シークが駆け寄ってきた。
カースの体が、ぐらりと傾いた。シークがその腕を掴んで支える。獣の輪郭が煙のようにほどけ、細い体だけがそこに残った。
「立ってられないだろ。座れ」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない。肩、自分で抉ったろ。見てたぞ」
シークはカースを瓦礫に座らせ、自分の袖を裂いて肩に押し当てた。その手が、小さく震えていた。
ウォルターとアズラエルが、ガルトを両脇から支えて歩いてきた。
「......終わったのか」
ガルトが、ゼフィロスの亡骸を見て呟いた。
カースは、シークの手を借りて立ち上がり、ガルトの前まで歩いた。
「ガルト」
「......なんだ」
「恨み続けるのは、やめる」
カースの声は静かだった。
「ガルトが抱えてたものが、どれだけ重かったか。今なら、少しはわかる」
「......カース」
ガルトの目に、涙が滲んだ。
「俺は、お前らを売った。それは消えねえ」
「うん。消えない」
カースは頷いた。
「だから、もう一緒には行けない。でも、恨み続けたくはないんだ」
ガルトは崩れるように地面に膝をついた。声を殺して、泣いた。
「俺は、許してねえぞ」
ウォルターが、腕を組んだまま言った。
「カースがどう決めようが、俺の分は俺が決める。牢の前のお前の顔は、当分忘れられそうにねえ」
「......ああ。それでいい」
ガルトは顔を伏せたまま答えた。
「それで、いいんだ」
「治療、するね」
アズラエルが、のんびりした声でガルトの傍らに膝をついた。
「腕は戻せないよ。でも、死なない程度にはしてあげる」
紫の淡い光が、ガルトの肩の傷を包んだ。
「......すまねえ」
「お礼はいらない。君が死ぬと、呪術師くんの顔が曇りそうだから」
手当てが済むと、ガルトは包帯を巻き直した肩を押さえながら、皆を見渡した。
「時間がねえ。天幕のガキどもだ」
「明日の夜明けに、舟に積まれるんだったな」
ウォルターが言った。
「ああ。だが、今の騒ぎで陣地は浮き足立ってる。若様がやられて、たぶん館のほうでも何かあった。兵どもは指図する奴がいなくて右往左往してるはずだ」
ガルトは、崖のほうを顎で示した。
「崖沿いに、昔の坑道が通ってる。あれを抜ければ、陣地の裏手に出られる。天幕のすぐそばだ。案内できるのは、そこまでだ。この体じゃ、剣も振れねえからな」
「そのあとは」
シークが訊いた。
「傷が塞がるまで、どこかに潜る。それから骨の街に戻る」
ガルトは、ほんの少し笑った。自嘲の混じらない笑い方だった。
「俺には俺の伝手がある。これからは陰から、お前らを支えさせてくれ。それが、俺にできる償いだ」
シークが、小さく頷いた。
「わかった。頼りにしてる」
「案内、して」
カースが言った。
ガルトは肩を庇いながら、それでも先頭に立って歩き出した。
坑道の中は暗く、湿っていた。足元の岩はぬめり、天井から水が滴っている。片腕のガルトが何度もよろけ、そのたびにシークが黙って背中を支えた。出口の光が見えたところで、ガルトは足を止めた。
「ここまでだ。この先を下れば、天幕の裏に出る」
岩の隙間から覗くと、陣地は確かに騒然としていた。兵士たちが固まって何事か言い合い、伝令らしい男が馬で駆け去っていく。天幕の前には、見張りが一人だけ、落ち着かない様子で立っていた。
「ガルト」
カースが振り返った。
「また、会えるよな」
「......ああ。必ずな」
ガルトは岩陰に身を寄せ、そのまま暗がりの奥へ下がっていった。片腕の影が、すぐに見えなくなった。
「行くぞ」
四人は斜面を駆け下りた。
見張りの兵士が振り向くより先に、ウォルターの拳がその顎を打ち抜いていた。
天幕の布を払う。十人の子どもたちが、藁の上で身を縮めていた。怯えた目が、一斉にこちらを向いた。
「大丈夫だよ。助けに来た」
カースは膝をつき、一番手前の子に手を伸ばした。あの、母親を呼んでいた子だった。その胸の包帯の下で、青白い石が、弱々しく光っていた。
「......この石、外せないのか」
ウォルターが低く訊いた。
カースは、自分の右手を見下ろした。呪鎖の食い込んだ手。触れたものを朽ちさせる手だ。
「僕が触れたら、石より先に、この子の体が腐る」
「ボクの雷でも無理だね。石ごと弾けちゃう」
アズラエルが、珍しく真面目な顔で言った。
「今は連れ出すしかない。ここに置いといたら、明日の朝には舟の中だ。
シークが、もう一人の子を背負い上げた。
四人で十人を抱え、背負い、手を引いて、陣地の裏から海沿いの小道へ抜けた。半刻ほど歩いた先に、小さな漁村があった。網を繕っていた年寄りの女が、血まみれの四人と子どもたちを見て、手を止めた。
「あんたたち......」
「この子たちを、匿ってくれませんか」
カースは頭を下げた。
「胸に、悪いものを埋められてる。僕らには取り除けない。でも、ここにいれば、少なくとも舟には積まれない」
年寄りの女は、子どもたちの顔を一人ずつ見た。それから、黙って家の戸を大きく開けた。
「お入り。粥くらいは、炊いてやれる」
子どもたちが、おずおずと戸口をくぐっていく。最後に、あの子がカースの袖を小さく引いた。
「......おにいちゃん、どこいくの」
カースは、その頭を撫でた。
「すぐに、もっと強い人が来る。きっと、その石も取ってくれる」
根拠などなかった。それでも、そう言わずにはいられなかった。
漁村を離れ、海沿いの道を北へ歩きながら、カースは何度も、ゼフィロスの最期の言葉を思い返していた。
「どうした」
隣を歩くシークが訊いた。
「いや......」
カースは首を振った。
「ゼフィロスは、死ぬ前に『殿下』って言った。風が何か知らせに来て、それを聞いた途端に、あいつは剣を下ろしたんだ」
「殿下って」
「この国で、そう呼ばれるのは」
カースはそこで言葉を切った。
噂でしか知らない、金色の髪の王子のことが頭をよぎった。みんなが幸せになれる国を、などと本気で口にしているという、青臭い王子。
(まさか、ね)
海から吹く風が、カースの頬の傷に沁みた。
(第35話「崩れ去った光」へ続く)




