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カース・オブ・エレニア ~蘇りし呪術師の成り上がり復讐劇~  作者: さかさき まる
第五章 風に舞う偽りの絆

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第34話「裏切りへの引導」


 砂塵の向こうで、獣の咆哮と、澄んだ剣風の音が響き続けていた。

 二つの影が、瓦礫の中で何度もぶつかり合う。爪と剣が噛み合うたびに、鈍い音が廃倉庫の壁に跳ね返った。


「まだ粘るか」


 ゼフィロスの息が、わずかに上がっていた。それでも目の奥には、まだ底を見せていない者の落ち着きがあった。


「終わらせてやる」


 ゼフィロスが剣を掲げた。切っ先にまとわりつく風が渦を巻き、見る間に締め上げられていく。


「断裂の旋風《ラプチャー・サイクロン》」


 放たれたのは、無数の刃を孕んだ竜巻だった。地面を抉り、行く手にあるものすべてを切り刻みながら、真っ直ぐに迫ってくる。

 カースは地を蹴って跳んだ。躱しきれなかった刃が頬を裂き、血が一筋、顎を伝った。


(――今だ)


 着地と同時に、右腕から黒い糸が何本も噴き出した。


「屍傀儡の糸(しくぐつのいと)」


 糸は、瓦礫の間に転がっていた兵士の骸に絡みつき、それをぎこちなく立ち上がらせた。一体、二体、三体。首の据わらない骸が、ゼフィロスを囲むように歩き出す。


「悪趣味な術だ」


 ゼフィロスは吐き捨て、剣を横に払った。


「双璧の風壁(ツイン・ウォール)」


 ゼフィロスを中心に、半透明の風の膜が二重に張られた。殺到した骸が糸ごと切り裂かれ、力なく崩れ落ちる。


「その程度か」

「まだだ」


 カースは裂けた右肩に、左手の指をねじ込んだ。

 熱い血が掌に溢れる。その手を、地面に叩きつけた。

「蠢動する黒蟲《しゅんどうするこくちゅう》」


 血の染みた地面から、黒い甲虫が湧き出した。瓦礫の隙間という隙間から溢れ、地を這う黒い波になってゼフィロスへ押し寄せていく。


「――くっ」


 風の膜が群れの大半を弾いた。だが一部が膜の綻びをすり抜け、ゼフィロスの腕に食らいついた。甲冑の継ぎ目から、細かな噛み傷がいくつも滲む。


「なるほど。防ぐだけでは済まない術か」


 ゼフィロスの声に、初めて苛立ちが混じった。剣を大きく振りかぶり、地面を踏み鳴らす。


「蹂躙の突風域(ゲイル・ドミニオン)!」


 辺り一帯に暴風が吹き荒れた。瓦礫が宙を舞い、カースの細い体が浮き上がりかける。四方から押し寄せる風の圧に、足が地面から引き剥がされそうになった。黒い蟲の群れも、ひとたまりもなく散り散りに吹き飛ばされていく。


「くそっ......!」


 カースは地面に爪を立てて踏みとどまった。この風の中では、近づくことすらできない。距離を取られたまま、じわじわと削られていく。


(――なら)


 カースは自分の右腕に爪を立て、血を絞り出した。滴る血が、地面に文様を描いていく。


「蠱毒の刻印(こどくのこくいん)」


 文様が淡く光り、地を這うように広がっていった。暴風の只中に立つゼフィロスの足元まで、細い線が伸びていく。

 暴風が途切れた瞬間、ゼフィロスの膝がわずかに揺らいだ。


「......なんだ、これは。体が、重い」

「毒だ。お前の風ごと、内側から蝕む」


 カースは地を蹴った。全身の血管が悲鳴を上げていた。それでも止まらなかった。足元の影が膨れ上がる。黒い毛並みが、揺らぐ煙から確かな形へと固まっていく。


「犬神の怨牙(いぬがみのえんが)!」


 影の奥から、幾重にも重なった犬の顎がせり上がった。刻印に縛られて動きの鈍ったゼフィロスへ、牙の群れが四方から食らいつく。甲冑が軋み、裂け、肩当てが弾け飛んだ。


「がっ......!」


 ゼフィロスはよろめきながらも、剣に風を巻きつけ直した。


 そのときだった。


 一筋の風が、戦場を横切った。

 砂塵を巻き上げることもない、細く、冷たい風だった。それはゼフィロスの耳元をかすめ、何事かを囁いて消えた。


 ゼフィロスの動きが、止まった。


「......父上が?」


 掠れた声が漏れた。


「露台で......殿下に、だと」


 剣先が、ほんのわずかに下がった。

 これまで何があっても崩れなかった男の顔から、表情が抜け落ちていた。目の焦点が、どこにも合っていない。


 カースには、その風が何を告げたのかわからなかった。だが、目の前の男が今、初めて隙を見せていることだけはわかった。


(ネロ)


 小さな黒い犬の温もりが、胸の奥に灯った。


(行こう)


 影が爆ぜるように膨れ上がった。黒い犬の輪郭が、カースの細い体を呑み込むほどに巨大になる。


「精霊喰らい(せいれいぐらい)」


 巨大な犬の顎が開いた。

 肉を裂くための顎ではなかった。ゼフィロスの体を包んでいた、淡い風の光。その加護そのものに食らいつき、薄い膜ごと噛み破った。


 風の精霊の味が、カースの喉を焼きながら流れ込んできた。


 砂塵が晴れたとき、立っていたのはカース一人だった。


 ゼフィロスは仰向けに倒れていた。甲冑は砕け、胸には深々と牙の痕が刻まれている。体を包んでいた加護の光は、もうどこにも残っていなかった。


「......ぐ、は」


 ゼフィロスは、血の混じった息を吐いた。灰色の空を見上げたまま、口の端がかすかに動いた。


「父上は......最後に、誰に向けた顔を、していたのだろうな」


 誰に聞かせるでもない声だった。


「私には......一度も......」


 言葉はそこで途切れた。ゼフィロスの目から、光が消えた。

 カースはしばらく、その顔を見下ろしていた。獣の唸りが、少しずつ喉から引いていく。


「殿下......」


 ゼフィロスが最後に口にした言葉を、カースは小さく繰り返した。

 この国で「殿下」と呼ばれる者は、そう多くない。


「カース!」


 背後から、シークが駆け寄ってきた。

 カースの体が、ぐらりと傾いた。シークがその腕を掴んで支える。獣の輪郭が煙のようにほどけ、細い体だけがそこに残った。


「立ってられないだろ。座れ」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃない。肩、自分で抉ったろ。見てたぞ」


 シークはカースを瓦礫に座らせ、自分の袖を裂いて肩に押し当てた。その手が、小さく震えていた。

 ウォルターとアズラエルが、ガルトを両脇から支えて歩いてきた。


「......終わったのか」


 ガルトが、ゼフィロスの亡骸を見て呟いた。

 カースは、シークの手を借りて立ち上がり、ガルトの前まで歩いた。


「ガルト」

「......なんだ」

「恨み続けるのは、やめる」


 カースの声は静かだった。


「ガルトが抱えてたものが、どれだけ重かったか。今なら、少しはわかる」

「......カース」

 ガルトの目に、涙が滲んだ。


「俺は、お前らを売った。それは消えねえ」

「うん。消えない」


 カースは頷いた。


「だから、もう一緒には行けない。でも、恨み続けたくはないんだ」


 ガルトは崩れるように地面に膝をついた。声を殺して、泣いた。


「俺は、許してねえぞ」


 ウォルターが、腕を組んだまま言った。


「カースがどう決めようが、俺の分は俺が決める。牢の前のお前の顔は、当分忘れられそうにねえ」

「......ああ。それでいい」


 ガルトは顔を伏せたまま答えた。


「それで、いいんだ」

「治療、するね」


 アズラエルが、のんびりした声でガルトの傍らに膝をついた。


「腕は戻せないよ。でも、死なない程度にはしてあげる」


 紫の淡い光が、ガルトの肩の傷を包んだ。


「......すまねえ」

「お礼はいらない。君が死ぬと、呪術師くんの顔が曇りそうだから」



 手当てが済むと、ガルトは包帯を巻き直した肩を押さえながら、皆を見渡した。


「時間がねえ。天幕のガキどもだ」

「明日の夜明けに、舟に積まれるんだったな」


 ウォルターが言った。


「ああ。だが、今の騒ぎで陣地は浮き足立ってる。若様がやられて、たぶん館のほうでも何かあった。兵どもは指図する奴がいなくて右往左往してるはずだ」


 ガルトは、崖のほうを顎で示した。


「崖沿いに、昔の坑道が通ってる。あれを抜ければ、陣地の裏手に出られる。天幕のすぐそばだ。案内できるのは、そこまでだ。この体じゃ、剣も振れねえからな」

「そのあとは」


 シークが訊いた。


「傷が塞がるまで、どこかに潜る。それから骨の街に戻る」


 ガルトは、ほんの少し笑った。自嘲の混じらない笑い方だった。


「俺には俺の伝手がある。これからは陰から、お前らを支えさせてくれ。それが、俺にできる償いだ」


 シークが、小さく頷いた。


「わかった。頼りにしてる」

「案内、して」


 カースが言った。

 ガルトは肩を庇いながら、それでも先頭に立って歩き出した。



 坑道の中は暗く、湿っていた。足元の岩はぬめり、天井から水が滴っている。片腕のガルトが何度もよろけ、そのたびにシークが黙って背中を支えた。出口の光が見えたところで、ガルトは足を止めた。


「ここまでだ。この先を下れば、天幕の裏に出る」


 岩の隙間から覗くと、陣地は確かに騒然としていた。兵士たちが固まって何事か言い合い、伝令らしい男が馬で駆け去っていく。天幕の前には、見張りが一人だけ、落ち着かない様子で立っていた。


「ガルト」


 カースが振り返った。


「また、会えるよな」

「......ああ。必ずな」


 ガルトは岩陰に身を寄せ、そのまま暗がりの奥へ下がっていった。片腕の影が、すぐに見えなくなった。


「行くぞ」


 四人は斜面を駆け下りた。

 見張りの兵士が振り向くより先に、ウォルターの拳がその顎を打ち抜いていた。

 天幕の布を払う。十人の子どもたちが、藁の上で身を縮めていた。怯えた目が、一斉にこちらを向いた。


「大丈夫だよ。助けに来た」


 カースは膝をつき、一番手前の子に手を伸ばした。あの、母親を呼んでいた子だった。その胸の包帯の下で、青白い石が、弱々しく光っていた。


「......この石、外せないのか」


 ウォルターが低く訊いた。

 カースは、自分の右手を見下ろした。呪鎖の食い込んだ手。触れたものを朽ちさせる手だ。


「僕が触れたら、石より先に、この子の体が腐る」

「ボクの雷でも無理だね。石ごと弾けちゃう」


 アズラエルが、珍しく真面目な顔で言った。


「今は連れ出すしかない。ここに置いといたら、明日の朝には舟の中だ。


 シークが、もう一人の子を背負い上げた。


 四人で十人を抱え、背負い、手を引いて、陣地の裏から海沿いの小道へ抜けた。半刻ほど歩いた先に、小さな漁村があった。網を繕っていた年寄りの女が、血まみれの四人と子どもたちを見て、手を止めた。


「あんたたち......」

「この子たちを、匿ってくれませんか」


 カースは頭を下げた。


「胸に、悪いものを埋められてる。僕らには取り除けない。でも、ここにいれば、少なくとも舟には積まれない」


 年寄りの女は、子どもたちの顔を一人ずつ見た。それから、黙って家の戸を大きく開けた。


「お入り。粥くらいは、炊いてやれる」


 子どもたちが、おずおずと戸口をくぐっていく。最後に、あの子がカースの袖を小さく引いた。


「......おにいちゃん、どこいくの」


 カースは、その頭を撫でた。


「すぐに、もっと強い人が来る。きっと、その石も取ってくれる」


 根拠などなかった。それでも、そう言わずにはいられなかった。




 漁村を離れ、海沿いの道を北へ歩きながら、カースは何度も、ゼフィロスの最期の言葉を思い返していた。


「どうした」


 隣を歩くシークが訊いた。


「いや......」


 カースは首を振った。


「ゼフィロスは、死ぬ前に『殿下』って言った。風が何か知らせに来て、それを聞いた途端に、あいつは剣を下ろしたんだ」

「殿下って」

「この国で、そう呼ばれるのは」


 カースはそこで言葉を切った。

 噂でしか知らない、金色の髪の王子のことが頭をよぎった。みんなが幸せになれる国を、などと本気で口にしているという、青臭い王子。


(まさか、ね)


 海から吹く風が、カースの頬の傷に沁みた。



(第35話「崩れ去った光」へ続く)



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