第35話「崩れ去った光」(第5章完結)
エルシードの白い翼が、昼の曇り空を切り裂いていた。
エオリアの露台を飛び立ってから、エリオットは一度も地上に降りていなかった。握りしめた左手の中には、青白い石が二つ。頬には、何度拭っても落ちきらなかった赤い跡が、まだ薄く残っていた。
ロザリアの声が、耳の奥で鳴り続けていた。
『さようなら、殿下』
エリオットは、それを振り払うように前を見た。
石は奪った。もう、遠くから火をつけられることはない。だが、あの天幕の子どもたちの胸には、まだ石が埋まったままだ。
「――あれは」
湾岸の上空に差しかかったとき、エリオットは息を呑んだ。
陣地の外れの廃倉庫が、跡形もなく崩れていた。地面には何本もの深い爪痕が走り、まだ乾ききらない血が、瓦礫の上に黒く広がっている。
「降りてくれ、エルシード」
白い天馬は、瓦礫の合間に静かに降り立った。鼻を突く血の臭いと、どこかから聞こえる呻き声。
「う......あ......」
崩れた壁の陰から、兵士が一人、片脚を引きずって這い出してきた。エアハルト家の紋章をつけた、下っ端の兵だった。
「......っ、ひ、ひぃっ......!」
兵士は、エリオットの姿を見るなり、顔を引きつらせて後ずさった。
「怯えなくていい。何があった」
「ば、化け物です......獣の、呪術師が......若様を、甲冑ごと......」
兵士は震える指で、少し離れた場所を指した。
若い男が、仰向けに倒れていた。上等な黒い甲冑に、エアハルト家の跡取りの紋。その胸に、巨大な獣の顎に噛み砕かれたような、深い痕が刻まれていた。
「ゼフィロス、か」
エリオットはその傍らに片膝をついた。
見開かれたままの目は、灰色の空を見上げていた。悔しさとも安堵ともつかない、ひどく静かな顔だった。
(父親が死んだことを、知っていたのだろうか)
エリオットは、その瞼を指でそっと閉じてやった。
「呪術師と言ったね」
「は、はい......獣の影を背負った、細っこい奴で......仲間もいて、屍を操ったり、蟲を......」
兵士の話は、要領を得なかった。だが、確かなことが一つあった。自分より先に、ここへ来た者たちがいる。そして、もう去ったあとだ。
「天幕の子どもたちは」
「そ、それが......いつの間にか、天幕がもぬけの殻で......」
エリオットは立ち上がった。
陣地の外れの天幕へ駆け寄る。布は払われ、中には藁だけが散らばっていた。藁の上に、小さな足跡がいくつも残っている。その足跡に混じって、大人の足跡が四つ。外の小道へ、海沿いに続いていた。
足跡を辿った先に、小さな漁村があった。
網を干す竿の間を抜けると、一軒の家の戸口に、年寄りの女が立っていた。エリオットの外套と、背後の白い天馬を見て、目を丸くする。
「子どもたちが、ここにいると聞いた」
「......あんたも、あの子たちを連れていく気かい」
年寄りの女は、戸口に立ちはだかった。
「違う」
エリオットは膝をついて、女と目の高さを合わせた。
「胸の石を、取りに来た」
女はしばらくエリオットの顔を見ていた。それから、黙って戸口を空けた。
「さっきの子たちが言ってたよ。もっと強い人が来るって。あんたのことかね」
「さっきの子たち?」
「血まみれの、若い連中さ。四人。この子たちを置いて、すぐに行っちまった」
家の中は、粥の匂いがしていた。
炉端に、十人の子どもたちが身を寄せ合って座っていた。一斉に、怯えた目がエリオットを見上げる
。
「大丈夫だ。もう、誰も怖いことはしない」
エリオットは一番手前の子の前に膝をついた。胸の包帯の下で、青白い石が弱々しく光っている。
その胸に、そっと手をかざした。
「聖浄化の光輪聖浄化の光輪」
掌から、淡い光が滲み出した。本来は身体を癒すための力だ。エリオットはそれを、少しずつ、慎重に、石そのものへ向けた。
石の輪郭が、光に炙られるように薄れていった。体に食い込んでいた異物が、皮膚の下から、じわりと押し出されてくる。無理やり引き抜くのではない。石を害あるものとして癒し、体が自分から押し出すのを待つ。
ころん、と小さな音がして、濁った石が床に転がった。
「......いたく、ない」
子どもが、自分の胸を見下ろして呟いた。
「よく我慢したね」
エリオットは、その頭を撫でた。手が、少し震えていた。
一人、また一人。十人目の石が床に落ちたとき、窓の外は夕暮れになっていた。額から汗が滴り、膝に力が入らなかった。
「......あの」
最後の一人が、エリオットの袖を引いた。
「おにいちゃんたちにも、ありがとうって、いってね」
「おにいちゃんたち?」
「くろいいぬの、おにいちゃん」
エリオットは、その言葉の意味をしばらく考えた。
答えは出なかった。
「......会えたら、伝えるよ」
エリオットは、年寄りの女に頭を下げた。
「王都から、必ず正式な使者を寄越す。それまで、この子たちを頼みたい」
「......あんた、もしかして」
「私は、行かなければならないところがある」
エリオットは外へ出た。エルシードが、低く鼻を鳴らした。
左手の中の、対の石が二つ。床に転がった、濁った石が十。それを布に包んで、懐にしまった。
(父上に、見ていただく)
王都に戻ったのは、夜明け前だった。
まだ暗い王城の廊下を、エリオットは迷わずに歩いた。外套には血と泥がこびりつき、頬の赤い跡も消えていない。すれ違った夜番の侍従が、ぎょっとして道を空けた。
「父上にお目通りを」
「殿下、このような時刻に......」
「今すぐだ」
ほどなくして、寝間着の上に長衣を羽織った国王アーサーが、侍従を伴って私室の前に現れた。いつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、息子の姿を見て、片方の眉がわずかに上がった。
「エリオット。夜更けに何事だ。随分と、汚れているな」
「エアハルト家当主シルヴァンを、この手で斬って参りました」
エリオットは、懐の布包みを解いて差し出した。対になった二つの石と、子どもたちの胸から取り出した十の石。
「子どもの体に精霊石を埋め込み、遠くから火をつける兵器に変えていた証拠です。シルヴァンは、その火種を握っていました」
アーサーは、しばらく無言で石を眺めていた。指先で一つをつまみ上げ、灯りに透かす。
「なるほど。確かに、見過ごせるものではないな」
「父上。お伝えしたいのは、それだけではありません」
エリオットは深く息を吸い、父を真っ直ぐに見据えた。
「なぜ、こんな歪みが生まれるのですか。なぜ、幼い命が当たり前のように使い潰されるのですか。私には、この国のあり方そのものが、間違っているとしか思えません」
「エリオット」
アーサーは石を布の上に戻した。その顔に、これまで見たことのない、疲れたような色が浮かんだ。
「お前には、話しておくべきかもしれんな」
「何を、ですか」
「精霊王フェニックスの光が、もう長くはない」
エリオットは息を止めた。
「代々の王家は、フェニックスをこの城の奥深くに縛り続けてきた。その長すぎる縛りに、光そのものが擦り切れかけている。今この国に注がれている精霊の力は、フェニックスが命を削って、辛うじて絞り出している残り火だ」
アーサーの声は低く、重かった。
「それをすべての民に等しく行き渡らせれば、たちまち枯れる。この国の全土から、加護そのものが消える。だから私は配給を絞った。限られた者に、限られた分だけ。そうして、少しでも長く、この国に光を残そうとした」
「......それが、理由だったのですか」
エリオットの声が震えた。ずっと胸の奥でくすぶっていた違和感が、ようやく形になった。
だが。
「納得、できません」
エリオットは首を振った。
「その理屈で犠牲を正当化することはできません。誰かの犠牲の上に誰かの幸せが成り立つ仕組みは、間違っています。命は等しくあるべきです。それを王家が率先して踏みにじっているのなら、それこそがこの国の根本の誤りです」
「お前らしい答えだ」
アーサーは、かすかに笑った。
「では訊こう。お前にはできるのか。フェニックスの命を根こそぎ絞り尽くしてでも、すべての民に等しく光を分け与えることが」
「それでも、今の仕組みよりは正しい」
「甘い」
アーサーの声が、初めて鋭くなった。
「王家が自ら特権を手放した、その瞬間に何が起きると思う。何百年もこの歪みの上で甘い汁を吸ってきた貴族どもが、黙って見ているとでも思うか。待っているのは内乱だ。民を守るどころか、国そのものが崩れる」
「だとしても」
エリオットは一歩も引かなかった。
「壊してでも、変えるべきです。誰かを犠牲にしたまま繕い続けることに、意味はありません。私はこのあり方を、根から変えます。たとえ一度、この国のすべてを壊すことになっても」
アーサーは、長いあいだ黙っていた。
やがて、目を伏せた。
「......そうか」
「父上」
「よくわかった、エリオット」
穏やかな声だった。息子の覚悟を、受け止めたかのような。
エリオットの肩から、わずかに力が抜けた。
(――伝わった、のか)
アーサーが、ゆっくりと片手を上げた。
「この国に」
その掌に、細い光が一本、結ばれていく。
「お前のような歪みは、要らん」
「――え」
光の刃が、エリオットの脇腹を貫いた。音はしなかった。ただ、熱いものが体の内側を通り抜けていった。
「が、ぁ......」
膝が崩れた。王城の冷たい床に、体が音を立てて転がった。視界が白く滲んでいく。脇腹から広がる熱が、指先まで痺れさせていく。
「......ち、ち......うえ......」
見上げた先に立っていたのは、いつもの穏やかな父ではなかった。感情の読めない目で我が子を見下ろす、一人の王だった。
「お前の理想は、正しいのかもしれん」
遠くから聞こえるように、父の声が届いた。
「だが、正しさだけでは国は守れん。お前のようなものを、この均衡の中で泳がせておくことは、もうできんのだよ」
薄れていく視界の端で、エリオットは見た。父の口元が、ほんのわずかに、緩んでいた。
悲しんでいる顔ではなかった。長く待っていた芝居の幕が、ようやく上がったのを眺めるような顔だった。
その意味を考える前に、エリオットの意識は闇に沈んだ。
(第36話「光に灼かれる矜持」へ続く)




