第33話-5「風を喰らう牙」
エリオットが湾岸の上空に辿り着いたのは、三日目の夜更けだった。
雲の切れ間から見下ろすと、海沿いに陣地の篝火がいくつも連なっていた。その外れに、ぽつんと一つだけ、灯りの少ない天幕がある。
エルシードを岩場の陰に降ろし、エリオットは闇に紛れて天幕へ近づいた。
布の隙間から中を覗いて、息が止まった。
藁の上に並べて寝かされた、十人ほどの子ども。雑に巻かれた包帯。その下から覗く、赤黒く爛れた傷口と、青白く光る石。
一人の子が、うわ言のように母親を呼んでいた。
エリオットは、自分の指が布をきつく握りしめていることに気づいた。
(本当だった。全部)
今すぐこの子たちを抱えて飛び立ちたかった。だが十人を一度に運ぶことはできない。一人を連れ出せば、騒ぎになって残りがどうなるかわからない。
天幕の入口で、見張りの兵士が同僚と話していた。
「こいつら、本当に遠くから火がつくのか」
「旦那様の手元に、対になった石があるんだとよ。それを砕けば、どこにいようが、こいつらの胸の石も一緒に弾ける」
「おっかねえな」
「だから逃げられる心配もねえってわけだ」
エリオットは、そっと天幕から離れた。
この子たちの命を握っているのは、ここにいる誰でもない。エオリアの館にいる、一人の男だ。
夜明け前のエオリアは、深い霧に沈んでいた。
街は封鎖されていた。門も運河も、兵士が固めている。だが空までは塞げない。エルシードは霧の上を滑るように飛び、港を見下ろす館の上へ出た。
運河に面した高い露台に、灯りが一つともっていた。
エリオットは、その露台に降り立った。
卓の前に、男が一人座っていた。銀のポットと、器が二つ。一つは空で、一つは冷めきった紅茶が満たされたままだった。
「――夜分に、ずいぶんと無作法な客だ」
シルヴァンは振り返りもせずに言った。
「王家の天馬の羽音は、一度聞けば忘れん。お一人でいらしたのか、殿下」
「ああ」
エリオットは外套の頭巾を払った。
「湾岸の天幕を見てきた。石を埋められた子どもたちを」
「ほう」
シルヴァンはようやく振り向いた。穏やかな、よく出来た笑みだった。
「それは、それは。何か誤解がおありのようだ。あれは戦で傷ついた孤児を、我が家で手当てしているに過ぎません」
「胸に石を埋めて、か」
「治療の一環です」
「港に着いたら火をつける治療か」
シルヴァンの笑みが、ほんのわずかに固まった。
「対になった石が、あなたの手元にあると聞いた」
エリオットは一歩踏み出した。
「渡してもらう。エアハルト家当主シルヴァン。王家の名において、あなたを捕らえる」
しばらく、露台に風の音だけがした。
シルヴァンは、ゆっくりと立ち上がった。
「殿下は、まことに真っ直ぐなお方だ」
懐から、小さな石を取り出す。親指の先ほどの、青白く光る石だった。
「娘がよく申しております。殿下のそういうところが好きだと」
「......ロザリアの名を出すな」
「出しますとも。殿下がこれから何をなさろうとしているか、よくお考えなさい」
シルヴァンは石を指先で転がした。
「これを砕けば、湾岸の十人は夜明けを待たずに灰になる。殿下が私を捕らえれば、娘は罪人の子になる。婚約は破談。あの子は一生、日陰で暮らすことになるでしょう」
穏やかな声のまま、言葉だけが刃のように研がれていた。
「逆に、今夜ここで何も見なかったことにしてくだされば。子どもたちは、殿下の望むように手当てしましょう。娘は予定どおり、殿下の妃に。私は殿下の後ろ盾として、あの父君から玉座を奪うお手伝いもいたしましょう」
「......断る」
「残念です」
シルヴァンの指に、力がこもった。
エリオットが床を蹴るのと、露台に突風が巻き起こるのは同時だった。
見えない風の刃が四方から襲いかかる。エリオットは剣を抜き、白い光をまとわせて薙ぎ払った。光と風がぶつかり、露台の手すりが砕け飛ぶ。
シルヴァンの風は、息子のそれより重く、狡猾だった。正面から来ると見せて背後を裂き、足元をすくうと見せて喉を狙う。
だが、エリオットの踏み込みは、それより速かった。
白い剣閃が風の刃を三つまとめて断ち切り、そのままシルヴァンの右手首を打った。石が宙に飛ぶ。
エリオットは左手でそれを掴み取った。
返す剣の柄で、シルヴァンのこめかみを打ち据える。シルヴァンは卓ごと床へ倒れ込み、銀のポットが石畳に転がって、冷めた紅茶が広がった。
「石は、預かった」
エリオットは荒い息のまま、剣先をシルヴァンの喉元に向けた。
「立て。王都へ連れていく」
シルヴァンは床に手をついたまま、低く笑った。
「王都へ、か。殿下、王都で私を待っているのは、あなたの父君ですよ」
口の端から血を垂らしながら、シルヴァンは顔を上げた。
「あの方の前に私を引き出して、何が起きるとお思いか。私は全部喋りますとも。この件で誰が得をし、誰が目をつぶってきたか。そうなれば、殿下が守りたい子どもたちなど、真っ先に口を封じられる」
「......」
「私を生かして連れ帰れば、あなたは負ける。殺せば、娘に一生恨まれる。どちらがよろしいか」
シルヴァンの左手が、倒れた卓の陰で、そっと袖口へ伸びていた。
袖の中で、青白い光がかすかに瞬いた。
石は、一つではなかった。
エリオットの剣が動いた。
迷う時間は、どこにもなかった。白い刃が、風を裂いて振り抜かれた。音は、思っていたよりずっと小さかった。
シルヴァンの首が、冷めた紅茶の上に落ちた。袖口からこぼれた二つ目の石が、砕けることなく床を転がり、エリオットの靴先で止まった。
生温かいものが、顔に飛んでいた。
エリオットは、しばらく動けなかった。頬を伝うものが血なのか、それとも別の何かなのか、わからなかった。手の甲で拭った。拭っても拭っても、赤いものは伸びるばかりで消えなかった。
いつの間にか、目の奥が熱くなっていた。拭った手の甲に、赤と一緒に透明な筋が混じっていた。
エリオットは足元の石を拾い、左手の一つと並べて握りしめた。
「――お父様?」
露台の扉の向こうで、細い声がした。エリオットは振り返れなかった。扉が開いた。寝間着の上に淡い緑の肩掛けを羽織ったロザリアが、燭台を手に立っていた。
燭台の灯りが、倒れた卓と、広がった紅茶と、その上に横たわるものを照らした。
ロザリアの手から、燭台が落ちた。
火が消えて、露台は夜明け前の青い暗がりに沈んだ。
「殿下......」
ロザリアの声は、震えていなかった。震えることもできないほど、静かだった。
「あなたが、なさったのですか」
「......私が斬った」
エリオットは答えた。それ以外の言葉が見つからなかった。
「湾岸で、子どもたちが石を埋められていた。お父上は、その命を握っていた。私が、斬った」
ロザリアは、父の体のそばに膝をついた。
長いあいだ、何も言わなかった。冷めた紅茶が、寝間着の裾に染みていくのにも構わなかった。
「......知っていました」
ぽつりと、ロザリアが言った。
「父が何をしているのか、ちゃんとは知らなかった。でも、夜遅くに帰ってくる父の袖から、ときどき血の匂いがしました。知らないふりをしていました。父は、私の前でだけは、優しかったから」
ロザリアは、父の冷たくなっていく手を、両手で包んだ。
「だから、殿下を責める資格は、私にはありません」
顔を上げた。夜明け前の薄明かりの中で、その目は乾いていた。
「でも、許すこともできません」
エリオットは、一歩踏み出しかけて、止まった。
「ロザリア、僕は――」
「殿下」
ロザリアの声が、それを遮った。
左手の薬指から、細い銀の指輪を抜き取る。婚約の日に、エリオットが贈ったものだった。
ロザリアはそれを、紅茶の染みた石畳の上に、そっと置いた。
「もう、お手紙は結構です」
エリオットの喉が、何かを言おうとして動いた。何も出てこなかった。胸の内ポケットで、折りたたんだ手紙がかさりと鳴った。
「さようなら、殿下」
ロザリアはそれきり、父の体の上に身を伏せた。背中が一度だけ、大きく震えた。
館のどこかで、兵士たちの足音と怒号が近づいてきた。エリオットは石畳の上の指輪を見下ろした。拾わなかった。拾う資格が、もう自分にはない気がした。
エルシードが、露台の縁で低く鼻を鳴らした。
エリオットはその背に跨がった。一度だけ振り返ったが、ロザリアは顔を上げなかった。白い翼が、夜明け前の霧を裂いた。
握りしめた左手の中で、二つの石が、かすかに冷たかった。
(第34話「裏切りへの引導」へ続く)




