第33話-4「風を喰らう牙」
カースたちがエオリアの運河を潜り抜けた、その数日前のことだった。
王城の回廊に差し込む夕陽が、いつもより赤く滲んで見えた。
エリオットが執務室を出て、人気の少ない西の渡り廊下に差しかかったときだった。柱の陰から、影が一つ、音もなく滑り出てきた。
「やあ、我らが太陽の御子」
エリオットは足を止めた。
見知らぬ男が立っていた。いつからそこにいたのか、まるでわからなかった。柱の陰にも、廊下の先にも、人の気配などなかったはずだ。
道化じみた衣装の男は、芝居がかった仕草で片膝を折り、恭しく頭を下げてみせた。
エリオットはその顔を見て、戸惑った。
目も鼻も口も、確かにそこにある。なのに、瞬きをした次の瞬間には、それがどういう並びだったのか思い出せなくなっている。見つめれば見つめるほど、輪郭が水に溶けていくようだった。
「......何者だ」
「これはこれは。名乗る前から、ずいぶんなご挨拶だね」
男は心底楽しそうに喉を鳴らした。
「トール、とでも呼んでもらおうか。もっとも、次に会うときには、殿下はまた同じ顔をするだろうけど」
「どういう意味だ」
「僕の顔はね、人の記憶に残らない造りらしいんだ。誰と会っても、最初はいつもその顔をされる。もう慣れたよ」
そういえば、王宮に仕える者の中に、ときどき妙な道化の噂を口にする者がいた。名前も顔も、誰もろくに覚えていない。それなのに、いつの間にか要職の者たちの間を渡り歩いている、という話だった。
この男が、そうなのか。
「何の用だ」
エリオットは身構えたまま訊いた。
「そう邪険にしないでよ、殿下。今日はとっておきの土産話を持ってきたんだ」
トールは指先で自分の唇をなぞり、囁くように言った。
「風の家、エアハルト家がね、恐ろしいことを企んでる。子どもの体に精霊石を埋め込んで、タラッサとの戦に、生きた爆弾として送り込むつもりらしいよ」
言葉の軽さと中身の重さがまるで釣り合っていなくて、エリオットは一瞬、息をするのを忘れた。
「......本気で言っているのか」
「僕はいつだって本気さ。本気で嘘をつくこともあるけどね」
トールはくすくすと喉の奥で笑った。憐れんでいるのか、嘲っているのか、わからない笑い方だった。
「なぜそれを私に話す。お前が私の身を案じて教えてくれるような人間には見えない」
「手厳しいなあ」
トールは大げさに胸を押さえてみせた。目だけは笑っていなかった。
「強いて言うなら、僕は退屈が嫌いなんだ。この国がこのままぬるく腐っていくのを眺めてるくらいなら、誰かが派手にひっくり返してくれたほうが面白い。殿下はその『誰か』に一番向いてる。そう思っただけ」
「証拠は」
「ないよ、そんなもの。あったら殿下の手を煩わせたりしない。自分の足で確かめておいで」
それだけ言うと、トールは踵を返した。来たときと同じように、音もなく廊下の暗がりへ溶けていく。
エリオットはしばらく、その場に立ち尽くしていた。男の顔を思い出そうとしたが、もうどうしても浮かんでこなかった。
信じるわけにはいかない。だが、聞かなかったことにもできなかった。
その夜のうちに、エリオットは動いた。
表の外交や貴族への根回しとは別に、この一年で密かに築いてきた伝手がある。下級官吏たちの「新秩序派」と、王都の裏路地に生きる者たちだ。そのすべてに、エアハルト領を洗わせた。
護衛のレイフには、隠しようがなかった。
「殿下。またその目をしておられる」
レイフは執務室の扉に背を預け、腕を組んでいた。
「その目、とは」
「誰かのために、ご自分を差し出そうとしている目です」
エリオットは答えず、机の上の報告書に目を落とした。
三日目の夜、ばらばらだった話が一つの形を取り始めた。エアハルト領の湾岸へ、夜にだけ不自然な量の荷が運び込まれているという、商人の証言。この半年で、王都や近くの町の孤児院と貧民街から姿を消した子どもたちの名簿。少なくとも二十人。どれか一つだけでは、何の証拠にもならない。だが並べてみると、浮かび上がる形は一つしかなかった。
「......本当だったのか」
報告書を握る指が、いつの間にか震えていた。
トールの言葉を鵜呑みにしたわけではない。自分の手で拾い集めた事実が、あの道化の囁きをそのままなぞるように重なっていく。それが何より不気味だった。
机の端に、封を切った手紙が一通置いてあった。
淡い緑の便箋。見慣れた、少し右に傾いた丸い字。
『殿下の、民を思う真っ直ぐなところが、私は好きです』
ロザリアからの、つい先日届いた返事だった。
エリオットはその一行を、指先でなぞった。
(――君の父上だ)
この報告書が正しければ、子どもを爆弾に変えているのは、ロザリアの父だ。あの穏やかな露台で、娘のために自ら紅茶を淹れるという男だ。
確かめに行けば、裁くことになる。裁けば、ロザリアから父を奪うことになる。
知らなかったことにすれば、あの子は泣かずに済む。婚礼の日には、父の腕に手を添えて、白い衣装で歩いてくるだろう。
その代わりに、名簿に載った二十人の子どもたちが、どこかの港で火をつけられる。
(僕が好きだと言ってもらえたのは、その真っ直ぐさだった)
エリオットは手紙を折りたたみ、胸の内ポケットにしまった。
「殿下」
レイフが、静かに、しかし逃げ場を与えない声で呼んだ。
「まさか、お一人で乗り込むおつもりではないでしょうな」
エリオットは顔を上げた。
「この目で確かめる。子どもたちが、まだ間に合ううちに」
「正気ですか。エアハルト家がどれほどの兵を抱えているか、ご存じのはずだ。しかも相手は、あの風の当主です」
「だからこそ、僕一人で行く」
エリオットの声に、静かな熱がこもった。
「兵を動かせば、王家がエアハルト家に踏み込んだと知れ渡る。七大貴族は身構え、証拠は闇に消える。それに」
一度、言葉を切った。
「私が動かなければ、あの子たちは戦場に送られる。誰も助けに来ない」
「その優しさは狂気だと、申し上げたはずです」
レイフが一歩詰め寄った。
「殿下が倒れれば、この国に残った希望そのものが潰える。それを一番よくわかっておられるのは、殿下ご自身のはずだ」
「わかっている」
エリオットは目を伏せた。わかっていて、それでも止まれない自分がいることも、痛いほどわかっていた。
「目の前で救えるはずの命を見捨てて座る玉座に、私が座る資格があるとは思えない。父上のようには、なりたくない」
レイフは、束の間、言葉を失った。
窓の隙間から夜風が吹き込み、灯火を小さく揺らした。
「......それに、レイフ。相手はロザリアの父上だ」
エリオットは、胸の内ポケットに手を当てた。
「他の誰かに裁かせたくない。恨まれるなら、私が恨まれるべきだ」
「......お供します」
レイフは深く息を吐いた。
「止めて聞かれる方ではない。ならば、せめて隣で」
「いや」
エリオットは首を振った。
「レイフは残ってくれ。私の代わりに、王城で目を光らせていてほしい。私が戻らなかったときのために」
「殿下――」
「頼む」
レイフは、それ以上何も言えなかった。ただ深く頭を垂れた。
その夜、エリオットは平民の外套に身を包み、王城の裏手の厩へ向かった。白い翼が、暗がりで静かに広がった。エルシードは主の顔を見ると、低く鼻を鳴らした。
「遠くまで行く。付き合ってくれるか」
白い天馬の首を撫でると、温かかった。エリオットはその背に跨がり、夜空へ舞い上がった。
眼下で、王都の灯りが小さくなっていく。
胸の内ポケットで、折りたたんだ手紙がかさりと鳴った。
(第33話-5「風を喰らう牙」へ続く)




