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カース・オブ・エレニア ~蘇りし呪術師の成り上がり復讐劇~  作者: さかさき まる
第五章 風に舞う偽りの絆

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第33話-3「風を喰らう牙」



 翌朝、四人は湾岸の外れにある廃倉庫の群れを伝って、陣地の様子を探っていた。

 潮風に、焦げた煙の臭いが混じっている。崩れかけた屋根の隙間から、波の音が絶え間なく聞こえてきた。


「――カース......か?」


 瓦礫の陰から、掠れた声がした。

 カースは振り返った。


「その声......」


 崩れた壁と木箱の隙間に、男が一人、倒れていた。左の袖は肩から空っぽで、巻かれた包帯は血と泥で真っ黒になっている。


「ガルト!」


 カースは泥を跳ね上げて駆け寄り、その体を抱き起こした。驚くほど軽かった。


「しっかりして! なんでこんなところに」

「......追ってきたんだよ。ここまで」


 ガルトは血の泡を吐きながら、口の端だけで笑った。いつもの飄々とした調子は、どこにもなかった。


「湾岸の、ガキどもだ。天幕の......見たか」

「見た」

「明後日の夜明けに、舟に積まれる。タラッサの港に着いたら......まとめて、火をつけられる」


 息を継ぐたびに、喉が鳴った。


「それだけ......伝えなきゃと思ってよ。途中で、足が動かなくなっちまった」


 ウォルターとシークが、空っぽの左袖を見て息を呑んだ。牢の前で別れてから何があったのか、誰もまだ知らなかった。


「すまねえ......みんなを売って......あいつも、守れなかった。俺は、本当に......」

「今は喋るな。傷が開く」


 カースの声には、怒りより痛みのほうが滲んでいた。

 ウォルターが、ガルトの傍らにどさりと片膝をついた。しばらく黙ってその顔を見下ろしてから、ぶっきらぼうに言った。


「お前を許したわけじゃねえ。だが......とりあえず、生きててよかったと思っといてやる」


 ガルトの目に、ほんの少し光が戻った。


「感動的な再会だな」


 頭上から、冷えた声が降ってきた。


 四人が一斉に顔を上げた。

 崩れかけた倉庫の屋根の上に、ゼフィロスが立っていた。精霊の加護を刻んだ黒い甲冑が、曇り空の下で鈍く光っている。背後の高台には、重装の兵士と術師たちが隙間なく陣を敷いていた。


「お前......」

「風がお前たちの足音を運んでくれた。わざわざ探す手間が省けたよ」


 ゼフィロスはガルトを見下ろし、口の端を吊り上げた。


「ちょうどいい。教えてやろう、腑抜け。あの若造のことだ」


 ガルトの体が、びくりと震えた。


「石を埋めるときにな、あの若造は泣いて頼んだそうだ。『ガルトさんには言わないでくれ』とな。自分がどう使われるのか、全部知っていた。知っていて、お前に会いに行ったのだ」


 ゼフィロスは、面白い芝居の筋でも話すような口ぶりだった。


「最後まで健気なことだ。お前のような役立たずのために」

「――あ......あぁ......っ」


 ガルトの喉から、声にならない声が漏れた。残った右手で自分の頭を掻きむしり、血の混じったものを地面に吐き戻しながら、泥の中へ崩れ落ちていく。


 ゼフィロスは、それを見下ろして肩を揺らしていた。


 カースの中で、何かがぷつりと切れた。


「お前......」


 喉の奥から、低い唸りが漏れた。


「よくも、そこまで人の心を踏みにじれるな」

「事実を話しているだけだ」


 ゼフィロスは涼しい顔で答えた。


「ついでに言えば、湾岸の天幕も見ただろう。あれもじきに、同じように使い潰される。お前が守りきれなかった命の一つ一つだ」


「黙れ!」


 カースの右腕の紋様が、皮膚を突き破りそうな勢いで脈打った。

 体の奥底で、何かが目を開けた。




「ほう。まだ何か隠していたか」


 ゼフィロスが目を細めた。


 全身の呪力の通り道が、内側から焼けるように痛んだ。力が、無理やり体の外へ引きずり出されていく。


「ぐ、あああっ......!」


 焼けつく痛みの底で、カースは思い出していた。

 ゴミ捨て場の片隅で身を寄せ合った、冷たくて、でもどこか温かかった夜。分け合った硬いパンの味。弱っている子の隣に真っ先に寄り添って眠っていた、黒い毛並みの温もり。そして、理不尽に奪われた小さな命。


(――ネロ)


 カースは息を吐く。


(お前の悲しみも、ずっとこの体の奥に残ってたんだな)


 以前、たった一度だけ、この牙が顔を出しかけたことがあった。あのときは形にならないまま消えた。


 今は違う。


(あいつらは、人を道具みたいに使い捨てる。お前にしたみたいに)


 カースの足元の影が、ぐにゃりと歪んだ。


(だったら、僕が噛みちぎってやる)

 

 影は泥のように盛り上がり、見る間に膨れ上がっていく。漆黒の毛並み。剥き出しの牙。金色に燃える目。細いカースの体を包み込むように、巨大な黒い犬の輪郭が立ち上がった。


「精霊、喰らい」


 獣が、吼えた。


 咆哮が空気そのものを揺らした。足元の岩盤に蜘蛛の巣のような罅が走り、高台の兵士たちが耳を押さえて次々と倒れ込む。


「これは......!」


 ゼフィロスが腕で顔を庇った。その顔から、初めて余裕が剥がれ落ちた。


 黒い獣の輪郭は、まだ揺らいでいた。毛並みの端がちぎれた煙のようにほどけ、また結び直される。形を保っているだけで、カースの全身の血管が内側から弾けそうに痛んだ。


 まだ、完全ではない。だが、動ける。


「カース!」


 シークが駆け寄りかけて、足を止めた。獣の輪郭の熱に、肌が粟立った。


「カース、やめろ! 体が持たない!」


 ウォルターも叫んだ。


「無茶すんな! カースの体、ぼろぼろなんだぞ!」


 少し離れた瓦礫の上で、アズラエルだけが腕を組んだまま動かなかった。口の端に、誰にも見えない笑みが浮かんでいる。


(これが、次の段階か)


 呪いがまた一つ、完成に近づいた。その瞬間を、アズラエルは瞬きもせずに見つめていた。



 ゼフィロスの両手から、風の刃が放たれた。


 目で追えないほどの速さで、何条もの刃がカースの四肢へ殺到する。黒い獣が、顎を開いた。

 迫る風の刃に、真正面から食らいついた。


 刃が、消えた。


 弾かれたのでも、砕けたのでもない。獣の喉の奥へ、吸い込まれるように呑み込まれていった。


「――なに」


 ゼフィロスの声が、初めて上ずった。


 カースの口の中に、冷たい味が広がっていた。風の味だった。いや、ゼフィロスの体に巣食う、風の精霊の味だ。呑み込んだ力が、獣の輪郭を一回り濃くしていく。


「僕の牙は、お前の風を喰える」


 カースの声に、獣の唸りが混じった。


「面白い」


 ゼフィロスは口の端を吊り上げ、腰の剣を抜き放った。刀身に風が巻きつき、澄んだ音で鳴る。


「だが、勘違いするな。まだ余興のうちだ」


 ゼフィロスの姿が掻き消えた。


 シークの疾走とは質の違う、無駄のない、舞のような身のこなしだった。


「遅い!」


 背後からの回し蹴りが、カースの脇腹に深々とめり込んだ。


「がっ......!」


 細い体が瓦礫の山へ吹き飛ばされた。土煙を突き破り、地面を転がる。それでもカースは四つ足で地を掻き、すぐに体勢を立て直した。獣の本能が、痛みより先に次の一手を探している。


「まだだ」


 地を蹴った。獣の脚が瓦礫を踏み砕き、一足で間合いを詰める。振り下ろした黒い爪が、ゼフィロスの胸の甲冑を抉った。

 甲冑の表面に刻まれた加護の紋が、爪痕に沿って三本、ばっさりと断ち切られていた。


「――っ」


 ゼフィロスが飛び退いた。断ち切られた紋から、淡い光が煙のように抜けていく。


「僕はもう、お前らの玩具じゃない」


 カースの目の奥で、金色の光が燃えていた。

 ゼフィロスの姿が、また揺らいだ。今度は一つではなかった。左、右、頭上。三方向から同時に、風をまとった斬撃が襲いかかる。


「残像か......!」


 カースは影の腕を四方へ広げて迎え撃った。二つを喰らう。だが三つ目が、防ぎの隙間を縫って右肩を深く裂いた。


「ぐ、あああっ......!」


 獣の輪郭が、大きく揺らいだ。喰らった風が、制御を失って体の中で暴れ回る。全身の血管が、内側から軋んだ。


「やはり、器に馴染んでいないな」


 ゼフィロスは剣先についた血を払った。その目には嘲りと、冷たい観察の色が同居していた。


「無理を続ければ、お前は内側から壊れるぞ。私の風を喰うたびに、な」

「知ったことか」


 カースは血の混じった唾を吐き捨て、また地を蹴った。


 二つの影が、瓦礫の中で何度もぶつかり合った。爪と剣が噛み合うたびに、鈍い音と獣の唸りが廃倉庫の壁に跳ね返る。


「カース! もうやめろ!」


 シークの声が飛んだ。泣きそうな声だった。しかし、その声も、今のカースには水の底から聞こえるように遠かった。

 ぶつかり合いの余波が倉庫の壁を次々と崩し、舞い上がった砂塵が視界を白く塗り潰していく。

 その白い幕の向こうで、獣の咆哮と、澄んだ剣風の音だけが、いつまでも響き続けていた。


(第33話-4「風を喰らう牙」へ続く)



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