第33話-3「風を喰らう牙」
翌朝、四人は湾岸の外れにある廃倉庫の群れを伝って、陣地の様子を探っていた。
潮風に、焦げた煙の臭いが混じっている。崩れかけた屋根の隙間から、波の音が絶え間なく聞こえてきた。
「――カース......か?」
瓦礫の陰から、掠れた声がした。
カースは振り返った。
「その声......」
崩れた壁と木箱の隙間に、男が一人、倒れていた。左の袖は肩から空っぽで、巻かれた包帯は血と泥で真っ黒になっている。
「ガルト!」
カースは泥を跳ね上げて駆け寄り、その体を抱き起こした。驚くほど軽かった。
「しっかりして! なんでこんなところに」
「......追ってきたんだよ。ここまで」
ガルトは血の泡を吐きながら、口の端だけで笑った。いつもの飄々とした調子は、どこにもなかった。
「湾岸の、ガキどもだ。天幕の......見たか」
「見た」
「明後日の夜明けに、舟に積まれる。タラッサの港に着いたら......まとめて、火をつけられる」
息を継ぐたびに、喉が鳴った。
「それだけ......伝えなきゃと思ってよ。途中で、足が動かなくなっちまった」
ウォルターとシークが、空っぽの左袖を見て息を呑んだ。牢の前で別れてから何があったのか、誰もまだ知らなかった。
「すまねえ......みんなを売って......あいつも、守れなかった。俺は、本当に......」
「今は喋るな。傷が開く」
カースの声には、怒りより痛みのほうが滲んでいた。
ウォルターが、ガルトの傍らにどさりと片膝をついた。しばらく黙ってその顔を見下ろしてから、ぶっきらぼうに言った。
「お前を許したわけじゃねえ。だが......とりあえず、生きててよかったと思っといてやる」
ガルトの目に、ほんの少し光が戻った。
「感動的な再会だな」
頭上から、冷えた声が降ってきた。
四人が一斉に顔を上げた。
崩れかけた倉庫の屋根の上に、ゼフィロスが立っていた。精霊の加護を刻んだ黒い甲冑が、曇り空の下で鈍く光っている。背後の高台には、重装の兵士と術師たちが隙間なく陣を敷いていた。
「お前......」
「風がお前たちの足音を運んでくれた。わざわざ探す手間が省けたよ」
ゼフィロスはガルトを見下ろし、口の端を吊り上げた。
「ちょうどいい。教えてやろう、腑抜け。あの若造のことだ」
ガルトの体が、びくりと震えた。
「石を埋めるときにな、あの若造は泣いて頼んだそうだ。『ガルトさんには言わないでくれ』とな。自分がどう使われるのか、全部知っていた。知っていて、お前に会いに行ったのだ」
ゼフィロスは、面白い芝居の筋でも話すような口ぶりだった。
「最後まで健気なことだ。お前のような役立たずのために」
「――あ......あぁ......っ」
ガルトの喉から、声にならない声が漏れた。残った右手で自分の頭を掻きむしり、血の混じったものを地面に吐き戻しながら、泥の中へ崩れ落ちていく。
ゼフィロスは、それを見下ろして肩を揺らしていた。
カースの中で、何かがぷつりと切れた。
「お前......」
喉の奥から、低い唸りが漏れた。
「よくも、そこまで人の心を踏みにじれるな」
「事実を話しているだけだ」
ゼフィロスは涼しい顔で答えた。
「ついでに言えば、湾岸の天幕も見ただろう。あれもじきに、同じように使い潰される。お前が守りきれなかった命の一つ一つだ」
「黙れ!」
カースの右腕の紋様が、皮膚を突き破りそうな勢いで脈打った。
体の奥底で、何かが目を開けた。
「ほう。まだ何か隠していたか」
ゼフィロスが目を細めた。
全身の呪力の通り道が、内側から焼けるように痛んだ。力が、無理やり体の外へ引きずり出されていく。
「ぐ、あああっ......!」
焼けつく痛みの底で、カースは思い出していた。
ゴミ捨て場の片隅で身を寄せ合った、冷たくて、でもどこか温かかった夜。分け合った硬いパンの味。弱っている子の隣に真っ先に寄り添って眠っていた、黒い毛並みの温もり。そして、理不尽に奪われた小さな命。
(――ネロ)
カースは息を吐く。
(お前の悲しみも、ずっとこの体の奥に残ってたんだな)
以前、たった一度だけ、この牙が顔を出しかけたことがあった。あのときは形にならないまま消えた。
今は違う。
(あいつらは、人を道具みたいに使い捨てる。お前にしたみたいに)
カースの足元の影が、ぐにゃりと歪んだ。
(だったら、僕が噛みちぎってやる)
影は泥のように盛り上がり、見る間に膨れ上がっていく。漆黒の毛並み。剥き出しの牙。金色に燃える目。細いカースの体を包み込むように、巨大な黒い犬の輪郭が立ち上がった。
「精霊、喰らい」
獣が、吼えた。
咆哮が空気そのものを揺らした。足元の岩盤に蜘蛛の巣のような罅が走り、高台の兵士たちが耳を押さえて次々と倒れ込む。
「これは......!」
ゼフィロスが腕で顔を庇った。その顔から、初めて余裕が剥がれ落ちた。
黒い獣の輪郭は、まだ揺らいでいた。毛並みの端がちぎれた煙のようにほどけ、また結び直される。形を保っているだけで、カースの全身の血管が内側から弾けそうに痛んだ。
まだ、完全ではない。だが、動ける。
「カース!」
シークが駆け寄りかけて、足を止めた。獣の輪郭の熱に、肌が粟立った。
「カース、やめろ! 体が持たない!」
ウォルターも叫んだ。
「無茶すんな! カースの体、ぼろぼろなんだぞ!」
少し離れた瓦礫の上で、アズラエルだけが腕を組んだまま動かなかった。口の端に、誰にも見えない笑みが浮かんでいる。
(これが、次の段階か)
呪いがまた一つ、完成に近づいた。その瞬間を、アズラエルは瞬きもせずに見つめていた。
ゼフィロスの両手から、風の刃が放たれた。
目で追えないほどの速さで、何条もの刃がカースの四肢へ殺到する。黒い獣が、顎を開いた。
迫る風の刃に、真正面から食らいついた。
刃が、消えた。
弾かれたのでも、砕けたのでもない。獣の喉の奥へ、吸い込まれるように呑み込まれていった。
「――なに」
ゼフィロスの声が、初めて上ずった。
カースの口の中に、冷たい味が広がっていた。風の味だった。いや、ゼフィロスの体に巣食う、風の精霊の味だ。呑み込んだ力が、獣の輪郭を一回り濃くしていく。
「僕の牙は、お前の風を喰える」
カースの声に、獣の唸りが混じった。
「面白い」
ゼフィロスは口の端を吊り上げ、腰の剣を抜き放った。刀身に風が巻きつき、澄んだ音で鳴る。
「だが、勘違いするな。まだ余興のうちだ」
ゼフィロスの姿が掻き消えた。
シークの疾走とは質の違う、無駄のない、舞のような身のこなしだった。
「遅い!」
背後からの回し蹴りが、カースの脇腹に深々とめり込んだ。
「がっ......!」
細い体が瓦礫の山へ吹き飛ばされた。土煙を突き破り、地面を転がる。それでもカースは四つ足で地を掻き、すぐに体勢を立て直した。獣の本能が、痛みより先に次の一手を探している。
「まだだ」
地を蹴った。獣の脚が瓦礫を踏み砕き、一足で間合いを詰める。振り下ろした黒い爪が、ゼフィロスの胸の甲冑を抉った。
甲冑の表面に刻まれた加護の紋が、爪痕に沿って三本、ばっさりと断ち切られていた。
「――っ」
ゼフィロスが飛び退いた。断ち切られた紋から、淡い光が煙のように抜けていく。
「僕はもう、お前らの玩具じゃない」
カースの目の奥で、金色の光が燃えていた。
ゼフィロスの姿が、また揺らいだ。今度は一つではなかった。左、右、頭上。三方向から同時に、風をまとった斬撃が襲いかかる。
「残像か......!」
カースは影の腕を四方へ広げて迎え撃った。二つを喰らう。だが三つ目が、防ぎの隙間を縫って右肩を深く裂いた。
「ぐ、あああっ......!」
獣の輪郭が、大きく揺らいだ。喰らった風が、制御を失って体の中で暴れ回る。全身の血管が、内側から軋んだ。
「やはり、器に馴染んでいないな」
ゼフィロスは剣先についた血を払った。その目には嘲りと、冷たい観察の色が同居していた。
「無理を続ければ、お前は内側から壊れるぞ。私の風を喰うたびに、な」
「知ったことか」
カースは血の混じった唾を吐き捨て、また地を蹴った。
二つの影が、瓦礫の中で何度もぶつかり合った。爪と剣が噛み合うたびに、鈍い音と獣の唸りが廃倉庫の壁に跳ね返る。
「カース! もうやめろ!」
シークの声が飛んだ。泣きそうな声だった。しかし、その声も、今のカースには水の底から聞こえるように遠かった。
ぶつかり合いの余波が倉庫の壁を次々と崩し、舞い上がった砂塵が視界を白く塗り潰していく。
その白い幕の向こうで、獣の咆哮と、澄んだ剣風の音だけが、いつまでも響き続けていた。
(第33話-4「風を喰らう牙」へ続く)




